スサノヲは何を提案したのか | ■朽ち果てた館■

■朽ち果てた館■

ARIONの預言解読──音楽に載せて

「宇気布時」を捉える際に重要なのは、「宇気布」の語義解釈である。ここで、

スサノヲの直前の発話、「各宇気比而生子」という提案が、何の提案なのか。

その点が問われる。「ウケヒをして、子を生みましょう」、という提案の内実が。

 

*   *   *

 

・「占いをして、子を生みましょう」あるいは「占って、子を生みましょう」……[A]

 

・「誓約をして、子を生みましょう」あるいは「誓約して、子を生みましょう」……[B]

 

まず、「○○を占って、水晶玉を覗く」という文は、非文ではない。文として、成立している。

「明日の天気を占って、下駄を放り投げた」という文も、文そのものは、成立しているはず。

判定基準が示されていなくても、何が行われたか=文が表す事態は、何人も読み取れる。

即ち、「占って、子を生みましょう」という提案は、「子生みによる占いをしましょう」の意味か、

占いとしての子生みをしましょう」の意味か、どちらにしても、そんなあたりで意味が通じる。

 

即ち、ここで、スサノヲの「宇気比而生子」という提案が、「占って、子を生みましょう」であり、

占いとしての子生みをしましょう」であると仮定した場合、これに続くところの「宇気布時」も、

同じように、「占いとしての子生みをした時」と現代語訳できる。実際その後に子生みが来る。

これで分かったような感じがするわけだが、では、「占いとしての子生み」とは、いったい何か。

判定基準を持たない「占いとしての子生み」は、単なる言葉である。「占い」の実質を持たない。

 

今、大事なのは、スサノヲの提案が、何を目的としているかだ。己の心の清濁の判定である。

「占い」として有意味な、判定基準を持つ「占いとしての子生み」を提案したと考えるほかない。

その判定基準の設定は、大山津見の「ウケヒ」の例を見れば、事前の誓約に於いて為される。

「占いとしての子生み」の内実は、結局のところ、「誓約して、子を生む」、ということなのである。

日本書紀の訓注も踏まえるならば…「宇気比而生子」は、「誓約して、子を生みましょう」である。

 

#判定基準は後からアマテラスが述べる、という前提を、

#最初からスサノヲが共有していた、というような理解は、

#かなり苦しいだろう。苦しい理解をする必要は全く無い。