>公孫康の後継にはその弟である公孫恭が立ったが、228年に公孫康の子・公孫淵が謀叛し、
>叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が崩壊し魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を
>競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領と隣接する魏に臣従を装いながら、一方では
>呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。
(※Wikipediaより)
以上は、いわゆる邪馬台国の時代の、大陸近隣のトピックスである。
「卑弥呼」を語る際、ときどき「公孫氏」の重要性が取り沙汰されるが、
引用箇所の続きは、「236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、
公孫淵はついに魏に反旗を翻して、燕王を称した」となっており、まず、
その「燕王」の「燕」は、中国の行政区域(燕国ないし燕郡)と見てよい。
* * *
>燕国の考古学を研究する石川岳彦によれば、春秋戦国時代の燕国は、
>紀元前六世紀ごろから、遼寧地域への領域拡大をはじめ、前四世紀時代
>には韓半島北部にまでその領域を拡大した。弥生文化には、こうした燕国と
>その周辺領域の資料が散見するのである。(…以下略…)
(※小林青樹『倭人の祭祀考古学』(新泉社、2017)、212頁より)
ところで、最近の研究では、韓半島を経由せず、「燕国」や
「燕山長城以北地域」、さらに奥まった「オルドス地域」から
直接伝播した遺物に関し、指摘が多々見られる。その中で、
あらためて公孫淵が「燕王」を称した意味合いを押さえたい。
#ちなみに、「鴨脚樹」は「公孫樹」にも作る。よって、
#いわゆる公孫氏は、【WZA】(鴨、17)を含意する。
#短絡すべきではないが…考えるべき問題であろう。