学問の原点に立ち返れ | ■朽ち果てた館■

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ARIONの預言解読──音楽に載せて

古事記の研究史を振り返ると、成立論から作品論へ、という流れがあった。
そして現在、作品論は、やや下火である。ところで…此の場合の作品論は、
「古事記は古事記で独自のもの。他のものとは区別し、忠実に読みましょう」
という主旨であり、「古事記自身がどのように語っているか」が問題とされた。

「どのように語っているか」が問題とされる以上、まず、一応の前提として、
「古事記の作り手が、作りたいように作り、その結果、完成された作品」と、
見ているのである。此の場合、突き詰めれば、やはりストーリーだけでなく、
文字遣いも含めての作品である。ストーリー以前に文字が追究されるべき。

然るに…作品と言っても、何を表現しているかは、実はブラックボックスだ。
たとえば、表現したいのはストーリー(話の筋)だけ。「阿遅鉏」に作るのも、
「阿遅志貴」に作るのも、大した意味は無い。書き手の偶然の産物。という、
見方も出来る。ここで、書き手の意図が、どこまで及ぶかは、自明ではない。

なのだが、私自身が、古事記(原文)を読んだとき、真っ先に認識したのは、
文字遣いの異様さである。この文字遣いの異様さは、相当に意図的なもの、
そう強く思った。そう思った私からすれば…こうした異様さを追究しない人は、
原初の驚き、あるいは気づきを、胸の奥に仕舞い込んでしまった人に見える。