だいたいの場合、其処に何かが書かれていて、それを読むとき、自動的に、
自分の持つ既存知識に照らし合わせて、読んでいることが多い。したがって、
一般的に口の端に乗らない言葉が並んでいれば、照らし合わせるものが無く、
ポカンとするしかないような状態、言わば頭の中が無反応の状態に多くは陥る。
本ブログでは、おそらく軽く100回を超えて、「白髪」について言及し、そのうえ、
これこそが「封印」とまで書いている。ところが、日本の古代、封印絡みの話で、
「白髪」に言及している他の場所は、私が知る限り、皆無であり…言ってみれば、
現存する言論空間の中に、孤立して「白髪=封印」という等式が存在するわけだ。
しかし、孤立してであろうが何であろうが、それは現時点に於いて、明示的に、
既に在る状態であり、いつでもアクセスしようと思えば、アクセス出来る状態だ。
と言うよりも、特に古事記の構造的記述の中に、元々それは明示的に存在する。
明示的に存在するにも拘らず、其処に行き着かない。此のように、「封印」は在る。
#よくよく調べると、当該の「白髪」は、かなりマイナーな場所で祀られていたりする。
#其処には謎が在るが、その謎に辿り着く以前に、明示的に在る「白髪」の文字にも、
#なかなか辿り着かないというのが現状だろう。どうしてそういうことになるかと言えば、
#「行きたいところに行く」(=予め目的地が決まっている)という心のベクトルの結果だ。
#「行きたい」という思いは、少なからず、「そっちへは行かない」という頑固な意志を伴う。
#抽象的に言うと、「封印」の仕組みは、そのようなヒトの心の機能を上手に利用している。
#目に入るけれども、注目されないような置き方で、これも当初から置かれているのであり、
#どの時代にも、これが消されたりしたことは無い。在るものは在り、当初から、これは在る。