>ベッススを捕えたあと、これを支援していたソグディアナを討つためにアム川を渡った
>アレクサンドロスはマラカンダ(サマルカンド)、のちにブハラを占領してソグディアナを
>平定したが、シル川の北には遊牧サカの大勢力があって、アレクサンドロスの領域は、
>シル川南岸の現フジャンドに要塞都市アレクサンドリア・エスカテを建設して、その拡大
>を止めた。アレクサンドロス自らも、また、配下のマケドニア人およびギリシャ人部隊も、
>各地で通婚した。(…中略…) しかし、中央アジア西部におけるアレクサンドロスの足跡
>はごく短いものであり(前三二九~前三二七年)、ソグディアナのスピタメネスの抵抗も
>激しかった。ここにはすでに自立したオアシスの存在がうかがわれる。
(※小松久男編『中央ユーラシア史』98頁より)
ベッソスを支援していたソグディアナの「スピタメネス」がベッソスを裏切ったので、
結局ベッソスは拷問に掛けられ、処刑されるに至る。しかし、「スピタメネス」自身も、
最後までアレクサンドロスに対する抵抗勢力で在り続けた…以下の記述に見られる。
>スキタイ人がアレクサンダーをおびやかしている折りも折り、スピタメネスがマラカンダ
>を包囲した。アレクサンダーはこれに対して1400の騎兵と1500の歩兵からなる軍勢を
>送ったが、軍の指揮官たちは作戦を誤まり、惨憺たる大敗北をこうむった。ポリゥティメ
>トス(ザラフシャン)川の谷あいで多くの兵士たちが戦死した。これは、平地戦における
>マケドニア初の敗北だった。スピタメネスがゲリラ戦を展開したので、事態はますます
>厄介なことになった。(…中略…) ソグディアナで抵抗組織の中心となったのは、また
>しても地方の小諸侯たちだった。彼らは領地や城を持ち、領民を集めて兵士に仕立てた。
>抵抗が終わるのは、ようやくBC328年のことである。スピタメネスが、心変わりした味方の
>裏切りによって暗殺されたのだ。抵抗の末路者を見た多くの貴族は、アレクサンダーに
>降伏し、それと引き換えに土地や財産の保持を許された。
>『アレクサンダー大王──未完の世界帝国』92~93頁より)
いわゆるセレウコス朝が、「セレウコス──アンティオコス一世──アンティオコス二世」と続くが、
「セレウコス」が「スピタメネス」の娘を娶って生まれた長男が「アンティオコス一世」だから、結局は、
アレクサンドロスの後継勢力には、ソグディアナの「スピタメネス」の血が入っているということになる。
* * *
>アレクサンダーとソグド族長の娘ロクサネの婚礼
>ペルシア貴族との和解をはかって、アレクサンダーはBC327年、たぐいまれな美しさを誇る王女
>ロクサネと結婚する準備をすすめた。さらに王は幾人かの側近を説き伏せて、彼らにバクトリア
>王女をめとらせた。盛大な婚姻の宴はマケドニア式で行われた。(…中略…) こうしてロクサネ
>の父オクシュアルテスは、息子のうち2人をアレクサンダーのインド遠征に従わせることになる。
(※『アレクサンダー大王──未完の世界帝国』95頁より)
ところで、アレクサンドロスの正妻(?)は、「ロクサネ」である。同書96頁にも、「BC328年から327年の
冬の間にアレクサンダーはロクサネとの婚礼をとり行ったが、それは東西融和政策にとって象徴的な
できごとだった。ロクサネはバクトリアの貴族オクシュアルテスの娘である」と出てきて、ソグドの族長が
バクトリアの貴族になっていたと理解される。Wikipediaの記述は、「なおアレクサンドロスは紀元前328年
に帰順したこの地方の有力者、オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とした」となっていて、「この地方」とは、
「ソグディアナとバクトリア」を指す。曖昧な点が残るが、とにかく「ロクサネ」の子がアレクサンドロス四世だ。
#「ロクサネ」と、その息子であるアレクサンドロス四世も、
#後に、母子ともども処刑されることになる。激しい戦いが、
#日常茶飯事だった時代だ。というより、これが世界の常態。
#但し「1400の騎兵と1500の歩兵からなる軍勢」という規模は、
#今日の戦いのイメージとは全く異なることも付記しておきたい。