『光の黙示録』の詩的メッセージにおいて、「主」の文字は、
「主」そのものが二箇所、また「柱」が二箇所である。すべて、
連繋していると思われるが、さしあたり、此処で注目すべきは、
「意図」に呼応して、「井戸」という言葉が使われている点だろう。(※「井戸」は「陰陽宮」を表す)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
>音で辿れ あまねく人々の耳に快い音で
>それは 葉ずれの音
>それは 波打ち際の音
>それは 深山の音
>
>ようやくにして 心と心の音の解る人々が生まれてきたことよ
>黄金のサキツチの世に、虐げられるもののあることを許すまじ
>闇の世 永くは栄えぬことよ
>そは すべからくアジナの主の言う通り
(※章番号「5」のメッセージより抜粋、188~189頁)
--------------------------------------------------------------
>汝等に伝える 傀儡の主たる者の意図せんところを
(※章番号「6」のメッセージの副題、190頁)
--------------------------------------------------------------
>我が幸賜る者よ 三丈の御柱を巡りて我が宮つ城へ急げ
>亀石 導き給う
>小涌き 清水流れ 花散る里
(※章番号「15」のメッセージより抜粋、205頁)
--------------------------------------------------------------
>矢追い 其麻の里(音で辿れ)
>井戸の柱 井桁
>行く道を見よ
>野薔薇咲き乱れ 蝶の遊ぶ道
>行く道を見よ
>石つぶての道 瓦れきの道 砂煙立つ
>行く道を見よ
>其方の十字に問うて行け
(※章番号「17」のメッセージより抜粋、209頁)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「井戸」を「イド」と読むのは連濁であり、もともと「井戸」は「イト」である。
したがって、「井戸の柱」は、「傀儡の主たる者の意図」(=主の意図)に、
呼応するものである…そうである以上、「傀儡」(クグツ)は「井戸」に関わる。
即ち、【井】(陰陽宮)であるところのアレフベートの【Y】(Yod、20)に関わる。(※「己」に関わる)
然るに、「我が幸賜る者よ 三丈の御柱を巡りて我が宮つ城へ急げ」という文列では、
「我が~」という言葉が繰り返され、重ねてアレフベートの【Y】(Yod、20)が強調される。(※前々項を参照)
なぜ「三丈」なのかはともかく、此処でも「御柱」は、月宿の【井】と同居しているのであり、
その意味で、紛れもなく、「井戸の柱」という言葉に呼応している。此の点は明らかである。
ところが、「音で辿れ」という表現は、全体を通じて、上記の「5」のメッセージと、
「17」のメッセージに限る。然らば、「5」のメッセージに出てくる「アジナの主」は、
これもまた「井戸の柱」(=傀儡の主たる者の意図)に繋がっている。ということで、
「傀儡」(クグツ)が何であろうと…「傀儡の主」は「アジナの主」ということになるだろう。
#もちろん古事記の中の「アジナ」と言えば、まずは「足名椎」だろう。「湏佐之男」から、
#「汝者任我宮之首」と告げられ、「稲田宮主湏賀之八耳」なる称号を得ている。此処で、
#「湏賀」(清)という言葉は、歌謡にも「阿多良湏賀波良」、「阿多良湏賀志売」と有る通り、
#「阿多良」(惜しいという意味に解される)という言葉…つまりは、【ADR】(307)に結びつく。
#これは、この【ADR】(307)が「角月」(弥生)であり、「角」(Spica)が「清々しい」からである。
#その点はさておき…古事記で「八」も「耳」も負う者は、このほかには「神八井耳」のみであり、
#この意味では「アジナの主」~「稲田宮主湏賀之八耳」~「神八井耳」~「意富臣」と連結する。
#「意富」は、【AWKMA】(黒、91)の略であり、その一方で、【RBA】(大、305)という語をも表す。
#「足名椎」は書紀では「脚摩乳」…借訓表記だ。【AWΣONA】(551)は【心】(5月15日)を表すが、
#これは正しく「心月」(陰陽宮に当たる)の定義なので、「アジナ」は【AWΣONA】(551)でよかろう。
#【心】(8月8日)~【ANA】(己、64)~【Y】(己、20)~「陰陽宮」の繋がりも在る点は、言うまでもない。
#もともと【ADWM】(出雲、64)という土地の先住者は「足名椎」だ。そのことを、見落としてはならない。