前の記事
の続きです。
ことばの教室
は学校の普通の教室です。
たまたまなのか、元々そういう体制なのかわからないのですが、指導はマンツーマンで行われていました。
私の担当は三輪先生という男性の先生。
当時の私は、男の人が苦手だったので最初は緊張するし、嫌で仕方なかった
ことばの教室で何をやっていたか、実はあまりよく覚えていません
本を読んで、先生と一緒にその本の内容について話したり、後は早口言葉まではいかないけれど、私が発音し難い言葉が多く使われた文章を繰り返し読むという発音の練習をやっていました。
その文章は先生の手作りしてくれた冊子に何個も書かれていて、難易度の低いものから難易度の高い順に並べられていました。
当時はパソコンがなかったから、先生が白い用紙にマジックで文章と挿絵をカラフルに書いてくれてビニール紐で綴じた冊子です。
ことばの教室でも先生と一緒に読んだけれど、家でも繰り返し読んで練習していました。
その中で37年経った今でもひとつ覚えている文章があります。
いるか いないか いないか いるか
いるいる いるか いっぱい いるか
ねている いるか ゆめみて いるか
いるか→いるた
になっちゃうんですけどね(笑)
ことばの教室で何をやったかはあまり覚えていないけれど「先生と楽しく話していたな」ということだけは覚えているんです。
機能性構音障害の原因は不明らしいですが、私の場合おそらく「人に対する怖さ」からこれが出ていたんじゃないかと思うのです。
三輪先生とは、すごく打ち解けた感じがあってわりと言いたいことを言えていた感じがします。
そうやって先生と楽しく話したり、↑のいるかいないか・・・も結構楽しくて
そのうち、いつの間にか か行もさ行も正しく発音できるようになっていました
2年生になってからはことばの教室に通った記憶がないので、7カ月~10カ月くらいでなおったみたいです。
小さい頃、同じ歳の友達が簡単にやっていることが私にはとても難しかった。
人と同じようにできなかった分、私は頑張らなくてはならなかったけれど、そこにはいつも暖かい愛で支えてくれたり、助けてくれる人がいてくれました。
私は人と比べて出来ない自分を恥じていました。
今になってやっとわかりましたが、人と比べて出来ないことが多かった分余計にみんなが助けてくれた。
暖かい大きな愛を沢山の方からいただけたのです。
私は自分が思っていた以上に愛をもらっていました
頑張った、頑張るしかなかったと書いてきましたが、頑張りは辛いことばかりではなくて、むしろ楽しいことが多かったのです。
自転車に乗る練習はプレッシャーもあったけれど、少しずつ乗れるようになってくる過程に嬉しさを感じたし、夢中になって練習する時間が気持ちよかった。父と母が練習に付き合ってくれたことも嬉しかった。
ことばの教室も先生に慣れるまでは苦痛だったけれど、いつの間にか楽しみになっていたし、ことばの教室で過ごす時間はあっという間でした。
私も、私の周りにいた(今もいてくれる)愛のある人たちのように、暖かい愛で人を支えたり、助けたりしたい。
自分の中に今まで受け取った愛が思っていた以上にあると知ったんだから、そんな私だから絶対出来ると信じます!!
いるか いないか いないか いるか
いるいる いるか いっぱい いるか
ねている いるか ゆめみて いるか
これって、愛のある自分はいっぱいいるんだよ
はやく目覚めてね! でも夢はいつもみていようね!
三輪先生に会いたいなぁ
![にひひ](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/193.gif)