【和歌山の旅】6月14日 補陀落山寺 赤色の浜 | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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漢方養生指導士
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補陀落山寺

 

那智山 青岸渡寺

別院

 

 

 

 

 

三貌十一面千手千眼観音

 

天台宗の寺院。

 

補陀落とは

サンスクリット語の観音浄土を意味する

「ポータラカ」の音訳である

 

 

 

 

 

黄泉の国 和歌山

 

その土地には

必ず、陽ばかりではない

 

陰の部分もあります

 

補陀洛信仰を知らずして

和歌山は語れないでしょう

 

 

 

    

仁徳天皇の治世に

インドから熊野の海岸に漂着した

裸形上人によって

開山されたと伝える古刹で、

 

平安時代から江戸時代にかけて

人々が観音浄土である補陀洛山へと

小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼

補陀洛渡海(補陀落渡海とも)」で

知られる寺である

 

 

 

 

 

 

 

 

    

補陀洛は

『華厳経』では

インドの南端に位置するとされる。

 

またチベットの

ダライ・ラマの宮殿が

ポタラ宮と呼ばれたのも

これに因む。

 

中世日本では、

遥か南洋上に

「補陀洛」が存在すると信じられ、

これを目指して船出することを

 

「補陀洛渡海」と称した。

 

記録に明らかなだけでも

日本の各地

(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から

40件を超える

補陀洛渡海が行われており、

そのうち25件が

この補陀洛山寺から出発している。

 

 

 

 

 

    

船上に造られた屋形には

扉が無い。

 

屋形に人が入ると、

出入り口に板が嵌め込まれ

外から釘が打たれ

固定されるためである。

 

その屋形の四方に

4つの鳥居が建っている。

これは

「発心門」「修行門」

「菩薩門」「涅槃門」の

死出の四門を表している

とされる。

 

 

渡海は

北風が吹き出す

旧暦の11月に行われた。

 

渡海船は伴船に沖に曳航され、

綱切島近くで綱を切られた後、

朽ちたり大波によって沈むまで

漂流する。

 

 

 

 

もちろん、船の沈没前に

渡海者が餓死・衰弱死した事例も

多かったであろう。

 

しかし、

船が沈むさまを見た人も、

渡海者たちの行く末を

記した記録も存在しない。

 

 

はまみやの東方海上

約三・六キロにある。

山成やまなり島・帆立ほたて島・金光坊こんこぶ島とともに

補陀落渡海の旧跡の一。

 

寛政年間(一七八九―一八〇一)

「熊野巡覧記」は

「一名金島と云、

渚の森の前の辰巳の方海中に有、

綱切島は室島に近し、

綱切島は帆立島と並びて大勝浦の沖なり、

山成島は小勝浦の沖なかなり、

小松の三位中将維盛入水の所なりと」

と記し、

「源平盛衰記」巻四〇(中将入道入水の事)

にみえるこがね島を

綱切島に比定している。

 

 

 

 

 

16世紀後半、

金光坊という僧が

渡海に出たものの、

 

途中で屋形から脱出して

付近の島に上陸してしまい、

たちまち捕らえられて

海に投げ込まれる

という事件が起こった。

 

後にその島は

「金光坊島(こんこぶじま)」

とよばれるようになり、

またこの事件は

井上靖の小説『補陀落渡海記』の

題材にもなっている。

 

江戸時代には

住職などの遺体を渡海船に載せて

水葬するという形に変化したようである。

 

気象庁より

 

 

 

 

 

 

 

『熊野年代記』によれば、

那智海岸の補陀洛山寺では

貞観一〇年(八六八)から

享保七年(一七二二)までに

二〇名の僧が渡海している。

 

熊野信仰の伝播に伴い

室戸岬や足摺岬、有明海沿岸などでも行われ、

 

 

イエズス会士ビレラ

堺からの

渡海の目撃記録を残している。

 

 

入水往生という性格上、

渡海者の行方が語られることは

稀であるが、

なかには那智から琉球に漂着して

現地で布教に尽力した

日秀のような者もいた。

 

(浄土宗大辞典より)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/34/2/34_2_677/_pdf/-char/ja

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美貌の貴公子として

宮廷にある時には

「光源氏の再来」と称された。

 

治承・寿永の乱において

大将軍として出陣するが、

富士川の戦いで敗北し、

倶利伽羅峠の戦いでは

壊滅的な敗北を喫する。

 

父の早世もあって

一門の中では孤立気味であり、

平氏一門が都を落ちたのちに

戦線を離脱、

那智の沖で入水したとされている。

 

寿永3年(1184年)

 

『玉葉』の2月19日条によると、

「伝聞、平氏帰住讃岐八島(中略)

又維盛卿三十艘許相卒指南海去了云々」

とあり

30艘ばかりを率いて

南海に向かったという。

この時異母弟の忠房も

同行していたという説もある。

 

のちに高野山に入って出家し、

熊野三山を参詣して3月末、

船で那智の沖の山成島に渡り、

松の木に

清盛・重盛と自らの名籍を

書き付けたのち、

沖に漕ぎだして

補陀落渡海(入水自殺)したとされる

 

 

 

 

 

 

https://www.konan-wu.ac.jp/~nichibun/kokubun/51/kanno2004.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

補陀洛信仰を知る事に

一生懸命過ぎて

 

御朱印いただくの

忘れた〜!

🤣💦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下には、紀勢本線

 

草で、まったく浜は見えず

 

 

 

赤色の浜

 

那智湾の狗子ノ川河口付近の海岸は、

赤色の浜と呼ばれています。

 

地元の伝承によると、

この浜の砂が赤いのは、

日本の初代天皇と伝えられる

神武天皇が

熊野に到着して間もない頃、

彼を追い出そうとした

この地の酋長、

丹敷戸畔(ニシキトベ)の軍勢と

戦ったためです。

 

非常に激しい戦いで流された

血によって、

丹敷浦は永久に赤く染まりました。

この勇敢な抵抗に敬意を表し、

丹敷戸畔は

今でも熊野三所大神社で祀られています。

狗子ノ川から

ほど近いところにある

「腰掛石」という玉座の形の岩は、

神武天皇が戦いの後に

休息をとった場所と言われています。

 

 

 

 

白菊の浜

 

白菊の浜は、

狗子の浦湾にあります。

 

この浜には菊が生えていますが、

白菊の浜という名は

白菊姫の伝説に

ちなんだものでもあります。

 

白菊姫は、

1180年から1185年まで続いた

源平の戦いで敗れた平家の武将、

平維盛の侍女だった

と伝えられています。

 

平家の苦難を描いた

『平家物語』という軍記物語には、

維盛が出家するきっかけとなる

高野山付近での出会いの場面があります。

その後、彼は熊野を参詣し、

浜の宮から舟で沖に出て入水しました。

 

地元の伝承にはこの話の続きがあります。

その後まもなく熊野に到着した

白菊姫は、

熊野古道を歩き回って

かつての主人を探しました。

 

やがて宇久井村にたどり着くと、

村人が彼女に起こったことを

聞かせました。

失意の白菊姫は、

浜辺に小屋を建て、

そこで維盛のために祈りながら

余生を送りました。

この浜は

彼女にちなんで名づけられました。