【和歌山の旅】6月14日 熊野三所大神社  | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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漢方養生指導士
ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!

 

補陀落山寺

和歌山県那智勝浦町

 

 

 

 

まずは、お隣の

熊野三所神社に参拝します

 

 

 

 

 

摩利支天王

 

 

庚申塔

 

 

 

 

 

    

古くから熊野那智大社の末社

 

 

国指定 「熊野参詣道」の一部

 

藤原宗忠の日記「中右記」

1109年(天仁2年)

10月27日条に、

「浜宮王子」とみえ、

 

白砂の補陀洛浜から

この王子に参拝した宗忠は、

南の海に向かう地形が

大変素晴らしいと記しています

 

 

 

 

 

イソヒヨドリ、です!

 

 

 

    

かつては目の前が

那智の浜であった為

「渚の宮」ともよばれていて、

熊野三山に詣でる巡礼者は、

ここで潮垢離をし、

身を清めてから

那智山へ向かったといわれています。

 

 

 

神武天皇 頓宮跡

 

 

 

 

 

 

 

 

    

浜の宮王子では、

岩代王子(みなべ町)と同様に、

「連書」の風情がありました。

連書とは、

熊野御行に瑞光した人々が、

官位・姓名と参詣の回数を板に書いて

社殿に打ち付けることです。

 

1427年(応永14年)の

足利義満の側室・北野殿の参詣では、

10月1日に

「はまの宮」に奉幣(ほうべい)し、

神楽を奉納したのち、

帯や本結(紐)を投げると、

神子女(巫女)たちが、

争って拾った様子を、

先達をつとめた僧

実意(じつい)が記しています。

 

 

三所権現あるいは渚宮と

呼ばれていましたが、

現在は熊野三所大神と称しています。

 

なお、隣の補陀洛山寺は

千手堂あるいは補陀洛寺と呼ばれ、

本来はこの王子社と一体のものでした。

 

(看板)

 

と、あります。

 

 

 

夫婦楠

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さすが、樹齢 800年

根回りの大きさには

驚きます!

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

うっそうとしています

木陰でヒンヤリ

 

 

 

 

神社の山門の脇の大楠も

素晴らしい!

 

 

 

 

 

 

 

 

熊野三所大神社

 

 

夫須美大神 

家津美御子大神 

速玉大神

 

 

 

 

 

    

平安後期頃の

神像3体(大山祇命、

天照大神、彦火火出見命)が

伝来していることから

 

熊野三所権現が祀られていた

と考えられているが、

 

江戸時代中期に著された地誌

『熊野巡覧記』は

異なる神名を挙げており、

 

時代によって

祭神が変化していたようである。

 

江戸時代の沿革は未詳だが、

濱ノ宮村の産土神として崇敬されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

丹敷戸畔命(地主の神)摂社

 

ニシキトベ

熊野にいた女性首長

 丹敷戸畔(ニシキトベ)

『日本書紀』における

神武天皇の東征の折の記述に

登場する人物

 

登場してすぐに

神武に殺されてしまう土豪の女酋長

 

天皇はひとり、

皇子の

手研耳命(たぎしみみのみこと)と

軍を率いて進み、

熊野荒坂津

(またの名を丹敷浦)に至られた。

そこで

丹敷戸畔(にしきとべ)という者を

誅された。

そのとき神が毒気を吐いて

人々を萎えさせた。

このため皇軍は

また振るわなかった。

 

 

これですわ!

 

 

 

産経新聞より

 

 

 

 

 

 

 

三狐神(食物の神)摂社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

補陀落山寺といえば

 

補陀落渡海ですね