わたしは、いつも
第1に停めます
第1にもトイレあります
第2駐車場は
この風景
丹生都比売神社
和歌山県かつらぎ町
別称として「天野大社」「天野四所明神」
第一殿:
丹生都比売大神
(にうつひめのおおかみ)
- 通称「丹生明神」
- 古くより祀られていた神。
第二殿:
高野御子大神
(たかのみこのおおかみ)
- 通称「狩場明神」
- 高野山開創と関係する神。
- 第三殿:
- 大食津比売大神
- (おおげつひめの
- おおかみ)
- 通称「気比明神」
- 承元2年(1208年)に
- 氣比神宮(福井県敦賀市)
- からの勧請と伝える。
第四殿:
(いちきしまひめのおおかみ)
通称「厳島明神」
- 第三殿と同年に
- 厳島神社(広島県廿日市市)
- からの勧請と伝える。
- 若宮
- 行勝上人
- 鎌倉時代の高野聖である
- 行勝上人は、
- 当社の発展に尽くした僧です。
- 丹生都比売大神の託宣を受け、
- 北条政子に働きかけて
- 第三殿、第四殿を建立し、
- 大食都比売大神と市杵島比売大神を
- 勧請しました。
- その功績により
- 神として祀られています。
五円玉5枚の
ご縁玉を賽銭しました
丹生都比売神 とは
1つは
水神とみるもので、
その根拠として
天野の地が
紀の川の一水源地であること、
空海が
丹生都比売神社から
譲り受けたという神領は
有田川・貴志川・
丹生川・鞆淵川の流域の
ほぼ全域を占めていたこと、
関係する丹生川上神社は
水神信仰であること、
東大寺のお水取りで
水を送る遠敷明神
(おにゅうみょうじん;若狭彦神社)
の存在、
御田祭などの祭事における性格等
が挙げられる
もう1つは、
「丹」すなわち朱砂
(辰砂:朱色の硫化水銀)の採掘に
携わる人々によって祀られた
という説である。
後述の『播磨国風土記』逸文にも
「赤土」の記載が見えるほか、
全国にある「丹生」と名のつく
土地・神社は、
水銀の採掘に携わった氏族
(丹生氏)と深い関係にあることが
明らかとなっている。
これらに対する一説として、
丹生一族が
水銀採掘で一大勢力を築いたが、
その枯渇に際して
天野や三谷で帰農、
丹生都比売神社も
水神信仰に変化したとする説もある。
『丹生大明神告門』では、
丹生都比売神を
また稚日女尊と同一神とする説もある。
また、
大国主神の御子神とする説もある。
高野御子神 とは
白と黒の犬を連れた狩人の姿に化身し、
弘法大師の前に現れたとされます。
この白と黒の犬に案内をさせ、
弘法大師を
丹生都比売大神の待つ天野の地へ
と導きました。
そのことにちなんで
導きの神・みちひらきの神
として信仰され、
そのお使いの御神犬も
「みちびき犬」として
親しまれています。
また、高野山の僧侶の
修行を邪魔する魔を、
弓で射て追い払う
とも伝えられています。
高野御子神は、
その神名が示すように
丹生都比売神の御子神といわれる。
しかし後述のように、
この神が関わった
高野山開創伝承は、
丹生氏に伝わる
「神の贄のため
二頭の犬を連れた狩り人の伝承」
に由来する
と見られている。
そのため、本来は
「祀られる神(丹生都比売神)」と
「奉祀する神(高野御子神)」の
関係であったと推測される。
なお、文献では古くは
『日本紀略』
延喜6年(906年)条に記載が見える。
狩場明神は
赤ら顔、青い小袖、白い犬、黒い犬
五行論になぞれば
唯一、黄色がない
↓
これこそ
空海、本人である
黄色は
仏教僧の袈裟の色です
佐波神社
明治39年の神社合祀政策に伴い、
当社に関わる
三沢明神(奥之沢・中之沢・柳沢)
をはじめ、
上天野地区の諸社を合わせて
お祀りしました。
和歌山の生んだ大博物学者・
南方熊楠らの運動により、
神社合祀政策が廃止されると、
三沢明神は
元の鎮座地に戻されました。
土台が、紀州青石ですね!
高野山に参る前に
参拝するべし
といわれています