【和歌山の旅】蟻通神社 日本第一知恵の神 | その先、ヒカリ♥

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蟻通神社

 

和歌山県かつらぎ町

 

 

 

 

 

 

 


 

 

(主祭神)八意思兼命 

ヤゴコロオモイカネノミコト

 

(配祀神)事代主命 市杵嶋姫命

 大国主命 少彦名命

 

 

 

人皇九代開化天皇の御守初めて、

当村字畑山(旧古宮山)に勧請し、

旧志冨田の庄の総産土神として

崇敬される。

 

 

崇神天皇の御守天下疫病多く起り、

人民の為に盡んとする時、

勅を以て天神地祗の祭場を設け、

 

意冨多々泥古神をして

神主となし、

拝祭天下平人民栄なんとする。

 

 

びっくり 大田田根子!

 

 

奈良県桜井市にある三輪山の神である

大物主神

または事代主神の子孫または子で

 

神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)

鴨君(賀茂朝臣氏)

石辺公の祖先とされる。

 

 

 

 

 

古事記』にある物語は、

これほど煩雜ではないが、大筋は同じで、

 

崇神天皇の時、

疫病が流行で人民が多く死に、

天皇の夢枕に大物主大神が現れ

 

「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に

自分を祭らせれば、祟りも収まり、

国も平安になるであろう」

 

と神託を述べた。

 

天皇はその人物を捜し出し、

意富多々泥古命に

三輪山の神を祭らせ、

伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に

天(あめ)の八十(やそ)びらかを

作らせて、

天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め

祭らせた、という話は同じである。

 

ただ、こちらは

「神の血を引く子」で、

大物主大神と、

陶津耳命(すえつみみのみこと)の

娘の活玉依毘売(いくたまよりびめ)の

3代目の孫である。

 

さらに、活玉依毘売が

どうして神の子を産んだのか、

という物語も語られている

 

 

 

 


故に古は、

意冨多々泥古神を祭れるより

意冨多村と称す、

 

其後建武の頃より志冨多村と書き、

初め明治の御代に至り、

今の如く

渋田と改称される。

 

 

    

天武天皇の時代、

唐の高宗から七曲りの玉を献じられ、

これに糸を通して返せと

難題をかけられたとき、

 

1人の老人が現れ、

蟻に糸を結びつけ、

玉の穴の一端に蜂蜜を塗り、

一端から蟻を通した。


蟻は

蜜の香りにひかれて穴を通り抜け、

糸を通したのである。


人々は感嘆して

その名を問えば

 

(吾は紀の国蟻通の神)

 

『七曲りにまがれる玉の緒を貫きて

蟻通しとは誰が知らずや』

 

と言って姿を消した。


高宗は使者を遣わして

紀の国を探れば、

 

当村に蟻通の神が祀られており、

 

これより朝野の信仰が

篤くなったと伝えられている。

 

 

 

正応六年(一二九三)三月二八日の

太政官牒写(興山寺文書)に、

 

天野四所あまのししよ明神

(現かつらぎ町の丹生都比売神社)

のうち

 

「三大神号蟻通神」

神託のことがみえ、

 

天野社にも

蟻通神が祀られていた。

 

蟻通神の名は

七曲の玉のなかに糸を通す

という難題説話に由来する

と思われるが、

 

右の史料によって

 

当時の蟻通神は

三大神ともよばれていたことがわかる。

 

 

 

 

蟻通神社は

ほかの地区にも

あります

 

 

 

 

 

●大阪府泉佐野市にも

ありますね

祭神 蟻通明神

(大名持命)

 

蟻通の名の初出は

紀貫之集、第十、雑部に

 

貫之が

馬の急病に際して

 

「これは、ここにいましつる

神のし給ふならん、祈り申し給へよと」

と考えて神の名を問うと、

 

恐らく地元の住人が

「ありどほうし神」と答えている。

 

しかし、中世以前の資料の表記は

「有通神」が主であり、

「蟻通」の字は

後の時代に一般的になった。

 

 

「蟻」と「ありどほうし神」に

縁が生まれるのは、

 

時代がやや下り

清少納言が枕草子の中で

 

孝子説話として、

 

唐土より

「七曲りの玉に糸を通す手段」の

難題を

吹きかけられた帝に、

 

老父の知恵を借りた中将が

「蟻に糸を結び玉の中を通らせる」

方法を奏上した物語を

紹介しており、

これが

「ありどほうしの神」の由来としている。

 

 

 

当社は

紀貫之ゆかりの神社である。

 

もと現鎮座地よりも北方、

紀州街道(熊野街道)沿いにあった。

 

正応二年(一二八九)

書写の「和泉国神名帳」に

「従五位上有通社」とみえ、

正和五年(一三一六)

日根野村絵図(九条家文書)には

熊野街道の東、

禅興ぜんこう寺の北に「穴通」と記される。

 

「紀貫之集」巻一〇の一首に

付された詞書によると、

 

貫之が

紀伊国からの帰途

馬が病に倒れた。

 

通りかかった人から

「ありとほしの神」に祈るよう

勧められたが、

幣がなかったことから

歌を奉納した。

 

その結果

馬の病も治ったという。

 

その時の歌が

「かき曇りあやめもしらぬ大空に

ありとほしをは思ふへしやは」

である。

 

 

 

●蟻通神社 

和歌山県田辺市は

 

祭神、天児屋根命

(蟻通明神)
 

江戸時代には

蟻通明神社

または御霊牛頭天王と称し、

 

湊村の地主神(続風土記)

 

「神道集」に載る「蟻通明神事」は、

 

玄弉三蔵が

蟻の腰に糸をつけて

八坂の玉(神璽)

七曲りの穴に緒を通した

という蟻通の神の由緒

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五円玉5枚の

ご縁玉を賽銭しました

 

 

 

 

 

 

 

古くから伝わる

神社の由緒に因んで

 

小児

「狛犬」をくぐらば

知恵ある子供となり、

 

また疫病に罹らず成長する

といわれ

人々から深い信仰を集めている。

 

 

もう一基は、どこにあるのか?

 

神殿前玉垣内

本殿左前にあるとのこと

ですが

 

賽銭箱から先には行けず

 

この狛犬の隣には

平和宮

 

 

 

 

 

 

こちらにも

ご縁玉を賽銭しました

 

 

十日戎では

参拝する人も多いそうですよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、東北にも

「蟻通」の名のある神社があり

 

●福島県会津若松市

蟻通(蟻道)稲荷神社

 

会津若松市教育委員会の

「地名の由来」によれば、

草創は不明ですが、

この神社の境内の土を持ち帰り、

自宅の、周りにまくと

蟻が近寄らず蚕への害を防いだので、

信達の養蚕農家はわざわざ

この土をとりに来たそうです。


土壌の中に蟻の忌避物質があるとは

考えにくいので、

 

蟻通という社名に触発されて

「迷信」が生まれたと思います。


しかし実際に

蚕の幼虫が蟻に襲われる

ということがあるそうです。


蚕の1令幼虫は

蟻蚕(蟻子)といいますが、

黒色をしています。

 

蟻に襲われないため

蟻の姿に擬態している

かもしれません。


大阪の能勢町の蟻無神社も

同様な「迷信」があります。


この神社は、

紀貫之が詠んだ

「手にむすぶ水にやとれる月影の 

あるかなきかの世にこそありけれ」

から、

 

もともとは

有無社で蟻無社に転訛して、

「迷信」が生まれたようです。

 

(カイコローグより)

 

 

●「蟻」に関しては

山形県南陽市の熊野大社

境内

「蟻王八幡宮」

 

「蟻王」の地名はなし

 

 

 

 

蟻通神社の由緒が

東北までに知れていた

としたら

 

山形も、福島も

馬なしでは

到底、山越えなどできない

だから

話を聞いて

「蟻通」を使った可能性も

無きもあらず

 

 

 

紀貫之、といえば

東北では、「勿来の関」だ

 

 

紀貫之

 

をしめとも とまりもあへす ゆくはるを 

なこそのやまの せきもとめなむ

 

(夫木和歌抄)

 

 

和歌山県高野口町の

名古曾 蛭子神社

 

ここに寄りたかったんですが

夕方で、断念

現在の社殿は

明治元年(1868年)に造営され

 

紀北地方の

「十日えびす」発祥のお宮として

崇敬されています。