「背守り」とは 母の愛♥️ | 最強運貯めガイドブック♥古事記、黄泉の国を知る事が大事だよ♥カミコトは記紀の歴史の真実を知る事

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黄泉の国を知ることは、あなたを早く変容させます!
記紀を正しく知る事は、日本人として非常に大事です。
拝読感謝❤
漢方養生指導士で
ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!
伊勢神宮と高野山の会員です。
主人のご先祖様は、羽黒山山伏です。

 

 

 

 

蛯原さまの考察

シェアさせて

いただきました

ありがとうございます

 

 




 

『経津主神(布都主)は黻(フツ)、

それは刺繍で魔除け』

〜紋章の原点は魔除け、経は縦糸



「我々は日の神の御子だから、

日に向かって戦うのは良くない。

廻り込んで日を『背』にして戦おう」


〜五瀬命 古事記


【袞龍(こんりょう)の 御衣(ぎょい)】


赤地に龍の模様の刺繍がある

天子の祭服。

日本では、

聖武天皇から孝明天皇の時まで、

大儀の服として即位の際に用いた。


大袖に龍を、

胴に日、月、星辰、山、龍、

華虫、火、宗彝(そうい)などの

姿かたちを刺繍したもの。


これに

裳の刺繍の

藻(も)、粉米、黼(ほ)、黻(ふつ)を加えて

十二章とする。



【背守り(せまもり)】


幼児の着物の背の上部中央につける

縫印(ぬいじるし)。


幼児の着物は

一幅(ひとはば)で背縫いがないため、

後ろ身頃(みごろ)の衿(えり)の付け根に、

目だつ色糸で

大きく縫い目をつけたり、

松や鶴(つる)・亀(かめ、籠目)などの

めでたい模様を縫い付けたものである。


背縫い(縦縫い)は、

縫うことによって

着る人の霊魂が込められる、

安置されると考えられていたが、  


それがない着物には

縫印をつけて、

着る者の霊魂の安定を願い、

ひいては魔除けの印としての

意味をもっていた。


現在の紋章の原点の一つ

といえよう。


[鎌田久子]




【背守り(せまもり)】


子供の着物の背中に

縫い付けたお守りのことです。

着物を作る時には

左右の身頃となる布を縫い合わせるため、

背骨に沿って

「背縫い」という縫い目ができます。


昔の人は

「目」には魔除けの力がある

と信じており、

背縫いの「縫い目」にも

背後から忍び寄る魔を防ぐ力がある

と考えていました。


ところが、赤ちゃんが着る着物は

とても小さく背縫いがありません。


そこでお母さんたちは、

子供に魔が寄り付かない様に

背縫いの代わりとなる

魔除けのお守りを付けました。

それが「背守り」です。



始まりは定かではありませんが、

鎌倉時代に作られた

絵巻物

「春日権現験記

(かすがごんげんげんき)」

には

すでに背守りを縫い付けた

着物を着ている子供が描かれており、

とても古い風習であることがわかります。


昔の人は

人間の魂は

背中から出入りする

と考えていました。


魂が身体から出てしまうと

体調が悪くなったり、

ボーっとしたりしてしまい、

それが長い間続くことで

死に至るという考えです。



そして

「7歳までは神の子」

「7つまでは神のうち」

という言葉にもあるように、


7歳までの

小さな子供は

より不安定な魂を持った存在だ

と思われていました。


何かの拍子に

ポロっと魂を落としてしまい、

いつ神様のところに帰っても

おかしくない、

いつ死んでしまっても

おかしくないような存在です。


そのため

背中にお守りを付け、

魂がこぼれ落ちるのを防いでいたのです。



〜日本文化の入り口マガジン 和樂webより



古来日本では、

針目には魔物を寄せ付けない力が宿る

と考えられていました。


背後から忍び寄る魔物に対して、

大人は着物に背縫いがあることで

守られています。


ただ、乳幼児の着物に

背縫いが無いことから

無防備になるため、

わざわざ糸目を施して

魔除けとしたのです。


〜日本の伝統行事・行事食 / 

谷田貝公昭・坂本廣子著背守とは / 

きもの用語大全子供の薬 / 

(一社)北多摩薬剤師会我が子への

慈しみから広がるもうひとつの芸術 

/ fukuzumiren前近代を中心とした

子供の衣服と性差に関する調査研究:

絵画及び染織資料からみた

服飾携帯をその実態をめぐって /

 文化学園リポジトリ

桜のスピリチュアルな意味とパワー

|日本人の精神美のモチーフ / GLOBO参考



『黻(フツ)は祓(はらい)』

〜フツは布に付けた祓



【祓(はらえ、はらい)】


神道の宗教行為で、

天津罪・国津罪などの罪や穢れ、

災厄などの不浄を

心身から取り除くための

神事・呪術である。


祓の神事を行うことを、

修祓(しゅばつ、しゅうほつ)という。



一般に、

神前での祈祷を、

災厄除けの祈祷

(本来の意味の「祓」)以外のものも

含めて

「お祓い」という。


また、神社が頒布する

災厄除けの神札も

「お祓い」と呼ばれる。



祓は、

神道の神事において、

禊や斎戒の後に行われる、 

極めて重要な意義を持つ

浄化の儀式である。


祓の意義は、

神を迎え

交流するための準備として、

罪穢れのない

清浄な空間をつくりあげる

という点にある。


そして、罪穢れについては、

神事に臨む個人のものだけではなく、

この世界のあらゆる罪穢れを

徹底的に祓い浄め、


「明(あか)き浄(きよ)き

正しき直き」

境地を求める姿勢こそが、


神道の根本思想とされる。



以上のように、

神道の根本思想に直接関わるがゆえに、

祓の意義は極めて大きく、

祓のない神道祭式は

存在しないとさえいわれる。



神前で祈り、祓詞を奏したり、

財物などを祓物として

拠出させることで、


その罪や穢れを購わせる。



なお、出雲大社には、


祓について


「不浄を清浄に、不完全を完全に、

不良を善良にすること。

更には災いを除き

幸福と平和を齎す(もたらす)。」


という教義がある。



【禊祓ミツギハライ】


人間には

善と悪が存在し、


悪事を犯してしまう人間には、

禊祓と祭祀によって、

その悪を断ち切る事が

必要になってきます。



【黼黻】ほふつ


中国古代の礼服のぬいとりの名。


「黼」は

半黒半白の無柄の斧(おの)の形を

背中合わせにした模様を

縫い取りしたもの、

「黻」は

黒と青の糸で両弓相反の形の

縫い取りをしたもの。

美しい飾りのたとえ。

転じて、文章。

また、文章をもって助けたり、

立派にしたりすること。

ふふつ。


〜精選版 日本国語大辞典より



『黼(ほ、斧の形をした模様。

断ち切る、果断の意)

黻(ふつ、「亜」字形の模様。

分別、明察、悪に背き善に向かうの意)』


布都御魂(ふつのみたま)は、

記紀神話に現れる霊剣。



韴霊剣、布都御魂剣

(ふつみたまのつるぎ)とも言う。


佐士布都神(さじふつのかみ)、

甕布都神(みかふつのかみ)とも言う。


この表記の内、

佐士布都神の「さじ(佐士)」は

「さひ(佐比=刀の古語)」の

誤記と見られている。


甕とは

オリオン座(参宿、觜宿)ですから、


それを象徴する紋様が

黻(フツ)であり、


カセ木や籠目などと共に

古代中国の周礼では、

己字形(または弓字形)が

相背く形になっている文様の縫い取り。


また

黻文が

縫い取りされた祭礼の服のこと

だったのです。



『名称にある「ふつ」とは、

「断ち切る様」をいう。』




神話の神武東征の折り、

ナガスネヒコ誅伐に失敗し、

熊野山中で危機に陥った時、


高倉下が

神武天皇の下に持参した剣が

布都御魂で、


その剣の霊力は

軍勢を毒気から覚醒させ、

活力を得て

のちの戦争に勝利し、

大和の征服に大いに役立ったとされる。


神武の治世にあっては、

物部氏、穂積氏らの祖と言われる

宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が

宮中で祭ったが、

崇神天皇の代に至り、 

同じく物部氏の

伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の

手によって

石上神宮に移され、御神体となる。


同社の祭神である

布都御魂大神

(ふつのみたまのおおかみ)は、

布都御魂の霊とされる。


一方、鹿島神宮にも


布都御魂剣

または

韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)

と称する巨大な直刀が伝わっている。


由来は不明であるが、

奈良時代末期から

平安時代初期の制作とされる。


国宝に指定されており、

鹿島神宮の宝物館にて展示されている。


布都御魂は

神武天皇に下される前は

鹿島神宮の主神である

タケミカヅチのものであり、


布都御魂が

石上神宮に安置され

鹿島に戻らなかったために作られた

二代目が、

現在鹿島に伝わる

布都御魂剣であるという。



【経津主神(布都主、ふつぬしのかみ、

正字:經津主神)】


日本神話に登場する神である。


『日本書紀』のみに登場し、

『古事記』には登場しない。


別名は

イワイヌシ(イハヒヌシ)で、

斎主神または伊波比主神と表記される。


『出雲国風土記』や

『出雲国造神賀詞』では


布都怒志命(ふつぬしのみこと、

布都努志命とも)

として登場する。


『常陸国風土記』に出てくる

普都大神(ふつのおおかみ)

とも同視される。



『日本書紀』巻第二の第九段

本文によると、


葦原中国へ派遣された

天稚彦(アメノワカヒコ)の死後、

高皇産霊尊(タカミムスビ)が

諸神を集めて

次に遣わすべき神を決めようとした時、

選ばれたのは

経津主神であった。



すると、

熯速日神(ヒハヤヒ、甕速日神の子)の

息子

武甕槌神(タケミカヅチ)が進み出て、 


「経津主神だけが

大夫(ますらお、

雄々しく立派な男の事)で、

私は大夫ではないというのか」

と抗議した。


こうして

経津主神に

武甕槌神を副えて

葦原中国を平定させることにした。


『出雲国造神賀詞』では、

高御魂命(タカミムスビ)が

皇御孫命に地上の支配権を与えた時、

出雲臣の遠祖・

天穂比命(アメノホヒ)が

国土を観察し、

再び天に戻って地上の様子を報告して、

自分の子の

天夷鳥命に

布都怒志命(経津主神)を副えて

派遣したとされている。


〜wik参考




東征の時の背に

日を向けるのは、


『抱朴子』登渉篇にあるように、

直径九寸以上の鏡を

背中にぶら下げる辟邪の思想や、

生まれたばかりの神武を祖とする

天皇や藤原京、

律令制の国作りを

子供の背守りを例えとして、

経津主は

作られたのかもしれませんね。

 

 

 

文、蛯原春比古さまに

帰属します

マネはできません!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



5月11日、現れたそうです