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祭祀の尊重①
安岡正篤教学一日一言
王道は
造化の根本原理に則(のっと)って、
民を刹那(せつな)主義
・利己主義・唯物主義的風潮から救って、
出来るだけ一貫した
大きな創造的生活に導かねばならぬ。
換言すれば、
子をして父母に、
子孫をして祖先に、
後人をして先覚に、
人間をして天地自然に、
結んでゆかねばならぬ。
このむすびにこそ
真の創造がある。
風俗の敦厚(とんこう)は
此処(ここ)に生ずる。
「終を慎み、遠きを追へば、
民徳厚に帰す」
というが、
真に道理ある言葉である。
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「終を慎み、遠きを追へば、
民徳厚に帰す」は、
論語の学而第一からのものです。
曾子がおっしゃいました
「もし(領主によって)
葬式や先祖の供養が手厚く行われれば、
(それに影響されて)
民衆の徳は向上するでしょう。」
上に立つものが
自らの親や先祖を敬う気持ちを
態度で表すことによって、
民衆を感化すべし。
と説いています。
これは
国などに限らず
どんな集団にも当てはまることで、
自ら率先して正しい行いをすることで
周囲の人間を感化する事は
どんな言葉よりも
集団の道徳観念を向上させるもの。
祭祀の尊重②
安岡正篤教学一日一言
我々が
頑然(がんぜん)たる
一小物に堕しきらずに、
我が存在の困って生ずる所以の、
大体の引接(いんじょう)に逢う時、
我々は覚えず之を敬い、
崇(あが)め、拝み、
絶えず之を念(おも)い、
我が悉(ことごと)くを捧げて
之を奉じ、
之に待(はべ)りたい心を
如何することも出来ない。
それと共に
一面
又我が卑小(ひしょう)なる
自己を省み、
恥じ、懼(おそ)れ、
之を戒め、
之を斎(さい)せざるを得ぬ。
是れ宗教の拠(よ)って
立つ心地であり、
祭祀(さいし)や禊祓(けいふつ)の
由来する
精神的淵源(えんげん)である。
*禊祓…禊はみそぎ。
水を浴び身を清め、
邪気をはらうまつり。
禊ははらい。
神に祈って、
身のけがれをはらい清めること。
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こころ新たにするためにも、
己を振り返りたいものであるが、
どうしても振り返る勇気が
気持ちを持ちえない状況では
なんとしようもない。
こころの支えは
本来は
おのれ自身になければならないのだが、
人間は
それほど強いものではないのだ。
祭祀の尊重③
安岡正篤教学一日一言
造化は
無限の分化(陽)であると共に亦、
無限の帰一(陰)である。
分化に即して帰一あり、
帰一無くして分化は無い。
「まつり」祭祀は、
つまり造化の帰一であって、
これなくして
人間の繁栄、社会の発達は無いのである。
人倫の根本が
親子の道に在ることは言うまでもない。
随(したが)って
子の親に対する孝心は、
人類社会を維持し発達せしめる
一番尊いはたらきである。
茲(ここ)に
家庭祭祀の根本義がある。
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おじいちゃん、おばあちゃん、
お父さん、お母さん、
子ども達、が
家の仏壇に手を合わせる。
このような光景は
仏壇のコマーシャルぐらいでしか
目にする事は
なくなってしまったのではないか。
こういう連綿と続く
感謝の思いが
家庭教育の場となるのだ。
ありがとうございます
こちらの、「古代の祭祀」から
読んでみてください