明日香の星祭祀 とは | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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漢方養生指導士
ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!

 

 

 

画像お借りしました

 

 

蛯原さまの考察

シェアさせていただきました

 

ありがとうございます

 

 


 

 

『明日香の星祭祀と酒船石遺跡亀型石造物』 

その一 

〜明日香のカヤナルミと皇極天皇 

 

 

 明日香の酒船石遺跡の変遷は

大きく分けて5時期に区分されると言われています。

I期は出土遺物から斉明期(7世紀中頃)、

II期は斉明期から天武期(7世紀中頃〜後半)、

Ⅲ期は天武期〜文武期(7世紀後半から末)、

Ⅳ期は9世紀後半、

Ⅴ期は9世紀後半〜10世紀初頭にかけて

造営を繰り返し行われています。

亀型石造物や小判型石造物は

Ⅱ期の段階で改修されたものだとされています。
また、亀型石造物近くのバラスの中から

「饒益神宝(859年初鋳)」の貨幣が見つかっていて、

役250年間にわたって祭祀が行われていたと推測されます。

しかし、ここで疑問なのは

 

Ⅲ期からⅣ期の間、約200年近くは

造営や改修が行われていないのです。
この時期は

ちょうど奈良時代にあたり、

国家鎮護を仏教に委ねられた時期

でもあるのです。

酒船石遺跡の亀形水盤は

皇極天皇が禊ぎをした場所というのが、

 

現在の解釈らしいのですが、

 

日本書紀に記されている

「皇極雨乞い」の記録は

明日香の南淵で行われた

 

となっています。

飛鳥川上流の南淵には

「ウスタキヒメ」「カヤナルミ」という、

どちらかというと出雲神に近い、

境界の比売神(湧水の女神)が祀られていて、

水の神とされてます。

 



*カヤ、伽耶、香山、などは

境界を意味する言葉

と考えられます。

 


カヤは榧であり、

古代中国では墓場に植える木で、

針葉樹であるが故、

葉は常に青く繁り、

亡くなった人を手厚く祀る墓場に植えて、

子孫の繁栄を願う木から、

 

生と死の境界、

異界と現世の境界にある木であり、

同じ境界を意味する

坂に植える木となっていきます。

 


日本では

天岩戸の前に置いた香具山の賢木(榊)も、

榊の名前から境目の木、坂の木として

神域を表す目印になっていった

と考えられます。
境目の木には

橘や椿などの常緑樹、

門松などの松の木も

源流は同じかもしれませんね。

*ナル
ナルは古代百済語で『川』を意味し、

カヤカルミは『境界の川の水』

という意味だと考えられます。
つまり、

『カヤナルミ』という言葉自体が、

明日香の南にある栢森(かやもり)で

皇極天皇が雨乞いをした事を

意味するものなのです。

皇極は

土木工事が好き?で、

酒船石遺跡の湧水場所の石を

天理の石上から運ばせ、

そのために

天香具山まで水路を作り

舟に乗せて運んだそうです。

日本書紀の

「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」

です。
考古学的にも

酒船石遺跡からの水路の一部が

見つかっていて

「狂心の渠」の一部ではないか

と言われています。

しかし、ここで疑問なのは

 

明日香から天香具山までは、

その高低差から

明日香が上流で香具山が下流になります。

また、現在の考古では

桜井市の石上から天香具山までの

本来の水路(狂心の渠)の遺構は

発見されておらず、

天香具山から酒船石遺跡までの

水路の遺構のみ

発見されています。



日本書紀では

水路は石を運ぶためだけに作られた

とされていて、

途方も無い工事を「狂心の渠」とよんだ

と思われるのですが、

 

例えば

本当に石上から天香具山に

水路があったなら相当な距離もあり

「狂心の渠」とよぶのもわかるのですが、

 

現在発見されている水路は

酒船石遺跡から天香具山に

水を流すための水路とするのが

自然ではないのかと思うのです。
高低差も

明日香から天香具山なら

自然勾配だからです。


また酒船石遺跡の

石上産の石の数はさほど多くもなく、

遺跡まで

長大な水路を作る必要があったのか?

むしろ途中で石は下ろされ、

別の場所に運んだのではいのだろうか?

突き詰めると矛盾しているのではないか

と思えるのです。

 

 

 

 
 
●先天ー河図
 

 
 

 

 

 

 

 
 
●後天ー洛書
 

 
 

 

 

 

 

『明日香の星祭祀と酒船石遺跡亀型石造物』

その三 

〜皇極の雨乞い 

 

 河図と洛書は

古代中国で受け継がれてきた

二つの神秘的な図で、

中国文明の源流とされてきました。

太極・陰陽・四象・

五行・八卦・九宮などは全て、

 

ここにさかのぼることができ、

「宇宙の魔方陣」と呼ばれています。


伝説では、

伏羲 ( ふくぎ又はふっき ) の時代に、

洛陽東北の孟津県の黄河で

「河図」を背負った竜馬が現れ、

伏羲にこれを捧げました。
伏羲は

これにより八卦を作り、

後に『易経』の起源となりました。

 

 


さらに伝説によれば、

禹(う)の時代に、

洛陽の洛水に

「洛書」を背負った神亀が現れ、

禹に捧げました。


禹は

これによって治水に成功し、

天下を九州に区分しました。


またこれによって

『九章の大法』を定めて社会を治め、

『書経』に

『洪範』の名で収められて

伝承されてきたのです。


『易経』の繋辞上伝には

『黄河は図を出し、洛水は書を出す、

聖人これにのっとる』

(河出図、洛出書、聖人則之)

とあるのは

この二つの事を指します。

河図には、

黒と白の円点が並んだ陣が配置され、

無限の奥義が秘められています。


一方、洛書では、

縦・横・斜め3線上の

三つの数字の和が皆等しく

15になり、

実に見事です。

これについて、中国と外国の学者は

長期にわたる調査研究を行い、

これが中国人祖先の聡明な思考の結晶であり、

古代中国文明の最初の道標である

と考えています。

『易経』と、

『書経』の『洪範』両書は

中国文化の発展史において

重要な地位を占めており、

 

哲学、政治学、軍事学、倫理学、

美学、文学の諸分野に

多大な影響を及ぼしています。
中国の歴史文化の淵源として

河図洛書の効用はなくてはならないものです。

参考
NPO法人 気功文化センター

 

 

【河図とは】
古代中国から伝わる

天空の星々を起源とした模様です。
「河」は

「星の川」「天の川」を指します。
伝説によれば、

伏羲という3皇の一人は、

黄河の中から現われた

龍馬の背中にあった模様(河図)

(天の川の図)から八卦を作りました。
伏羲は

天を見上げ、雨や雪、雷や稲妻、

強風、霧を見て、

その時鳥や動物がどうなるかを

観察しました。
天の星、地上の気候、動物たち

これらは全て

天と地の間の陰陽の変化によって起こる

と考え、八卦をつくりました。
八卦とは、

天と地の間の陰陽を要約する8種類の図です。

 

【洛書とは】
伏羲・神農・黄帝という3皇の後、

その後5帝の時代になりました。
5帝最後の舜の時代、

人々は、黄河の氾濫に悩まされていました。
舜に命を受けた禹が

治水工事にあたっていました。
その時、洛陽の南を通り

黄河に注ぐ川(洛水)から神亀が現れ、

『洛書』を背負って

禹に献上しました。
禹はこれを使って水をうまく治めました。
『洛書』には

天帝が九章を与える(法律)とあったので、

舜は

禹に位を譲ったそうです。


水平、垂直、対角線数字の合計が

15に等しい九宮図であったと思われます。
 

 

参考 還暦散歩より

*禹の治水は

川の氾濫をコントロールする、

つまり水を操ることであり、

自然の摂理を知る事なんです。
それを治世に活かす事こそ、

洪範九疇となるのです。

 

【洛書と洪範九疇】
中国夏王朝の時代、禹(う)が、

黄河の洪水を治めたとき、

洛水から出た神亀の背中にあったという文様。
禹は

これにもとづいて

洪範九疇(こうはんきゅうちゅう)を作った

といわれる。

洛書から生まれた法律(洪範九疇)は、

伝説では

夏朝の禹が

洛水(渭水)から出た亀の甲羅に

描かれていた魔法陣

(自然の摂理を数地と陰陽にしたもにの)から

作られたとなっています。
その洪範九疇には

皇極の名前が書いてあり、

 

その意味は、

王が法を確立し、

五福を与える機能と体制を整え、

様々な階層のすみずみまで

人民に五福を与え浸透させることである。
これらを実感した人民は

王の法を基準として、

王とともにその法律を遵守するであろう。
 

五福(ごふく)とは、
第一に長寿(長生き)であること、

第二に裕富であること、
第三に康寧

すなわち心と体が

平穏無事・やすらかであること、
第四に愛と德を修めること、
第五に老いて天寿を全うさせることである。


となっています。

平成4年(1992年)に

 

酒船石の北の斜面で石垣が発見され、

『日本書紀』の斉明天皇の時代に

記述される工事に該当する遺跡

と推測されていて、

その後平成12年(2000年)に

大規模な発掘が行われ、

砂岩でできた湧水設備と

それに続く形で

小判形石造物と

亀形石造物が発見されています。

【皇極の名前の由来と雨乞い】
皇極天皇元年(642年)8月には、

天皇自身が川の上流で

跪き四拝して雨ごいをしていて、

雨乞いは成功し、

5日間雨は降り続いた

と日本書紀は伝えています。
雨乞いの成功は、

皇極の祭祀の正当性を示し、

後にその記念碑的なモニュメントととして、

再び重祚した斉明天皇の元、

亀型水槽などの一連の施設は作られた

と推測できるのです。

つまり皇極の名前のように、

洛書の伝説を実体化したもの

と考えられるのです。
しかし、

斉明期に最初に造られその後、

天武・持統朝まで継続的に使用され、

一時的に中断はされていますが、

 

平安時代まで約250年間

使用された形跡があるのは、

モニュメントを

実際の占いに使うようになった

のではないかと思えるのです。
 

そのヒントとして、

 

遺跡で平安時代の貨幣が

発見されている事なんですが、

その貨幣は

『饒益神宝(正体字:饒益神寳、

じょうえきしんぽう

/ニョウヤクしんぽう)』で

859年(貞観元年)に、

日本で鋳造、発行された

皇朝十二銭の1つです。

「饒益」は

通常「じょうえき」と読み、

これは「物が豊かなこと」を

意味する語ですが、

仏教用語においては

「饒益」を「ニョウヤク」と読み、

これは「物を与えること」を意味で、

この貨幣を使って

物質的な財貨を得るための占いが、

平安時代の明日香の亀型水槽で、

陰陽師らによって行っていたのでは

と、推測できるのです。

その占いは・・・
 

 

〜続く

 

 

 

 

『明日香の星祭祀と酒船石遺跡亀型石造物』

その四 

棒原神社(すぎはら)とスバルの女神 

 

 

 三重県度会郡玉城町上田辺

(かみたぬい)字朝久田

玉城町にある

13の内宮摂末社のうちの1社で、

「杉の森」と呼ばれる

小高いの上に鎮座しています。

御祭神
天須婆留女命御魂

(あめのすばるのみことのみたま)

御前神(みまえのかみ)


天須婆留女命御魂の名は

昴(すばる)に由来し、

星を利用した農耕の吉凶を占っていたもの

と考えられています。

玉城町内の

狭田国生神社に祀られている

速川比古命と速川比女命は

天須婆留女命御魂の子としていて、

儀式帳によると

「奈良朝廷の御代に祝い定む」

と記されていて、

奈良時代の創祀とされています。

戦国時代には廃絶し、

寛文3年9月8日(1663年10月8日)に

坂手国生神社とともに

河邊精長以下の神職らが

遷宮を行って再興されました。

再興記によると

「寛文三年八月廿八日、村の庄屋年寄を集め、

尋ねると、氏神社が二ヶ所あると、

しかし神書の四至とは少し相違があり、

再び村人に尋ねると、

上田辺の西の方五六町西に

小さな山があり、

西東二三町程、北南二町、

北は大道(初瀬街道?)南は古き堤、

堤の外は皆田也、

この田の字名は森の前といい、

西にも古い堤があり、

堤の外は皆山也、東は田也。
古の山の名を杉という。
この山の西北の方に小山があり、

伏拝という名の山である。

この伏拝より

杉山を拝するからの名前ではと云う。
しばらく経て、

村人二三人が杉山に参ると、

桧の削りくずが散らばっているから

不思議に思い、

大宮司へこの由を申し上げると、

大宮司も奇異のことにて候とて、

それを神異として、

終に其地を社地と定めた」

 

と記されているが、

杉と称したことは符号しても、

地勢に古風がないとされています。

また、村人たちは

「スギヤシロさん」と呼んでいます。

現地の杉の森という小高い丘は

楕円形の整った形で、

人為的な造成が行われたようにも思えます。

山頂の真ん中に

神宮摂社の社殿が鎮座し、

付近の斜面には朝久田古墳群があり、

円墳と方墳があり、

円墳より方墳がいち早く築かれたようで、

円墳は六つのグループに分けられ、

1号墳を中心とするグループ(1.25.26.37.38.40.41号墳の7基)、

24号墳を中心とするグループ(23〜25.34号墳の4基)、

39号墳を中心とするグループ(20〜22.32.39号墳の5基)、

17.19号墳を中心とするグループ(16〜19.33号墳の5基)、

14号墳を中心とするグループ(14.15.28号墳の3基)、

方墳群の東に接して築かれた

小古墳のグループ(29〜31.36号墳)

と六つのグループに分けられるようです。

これは

昴が「六連星むつらぼし」

と呼ばれていることに由来しているのか?

 

或いは

六連星をモデルとして築かれた古墳群なのか?

いずれにしても

何かしらの因果関係がありそうです。

また、天須婆留女命の御子神である

速川比古命と速川比女命は

玉城町の 狭田国生神社の御祭神で

社記・神名秘書には

「狭田国生の社、在 湯田郷佐田村」

とされていて、

近隣では「ハイコさん」と呼ばれ、

 

内宮末社の

牟弥乃神社の御祭神

 寒川比古命、寒川比女命

 

と同神とされています。

これは

相模一ノ宮の

「寒川神社」の御祭神とも

同じであると推測されます。

 

 

 

 

 

文、蛯原春比古さまに

帰属します

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