酒呑童子は土公神 まつろわぬ邪しき神 | その先、ヒカリ♥

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蛯原さまの考察
シェアさせていただきました

ありがとうございます




古代史の謎 鬼の正体 
 『酒呑童子は土公神、酒を入れた甕』

 〜鬼は土公神、
しゅてんどじん(酒呑土神) 


 酒呑童子(しゅてんどうじ)は、
丹波国と丹後国の境にある大江山、
または
山城国と丹波国の境にある
大枝(老の坂)
(共に京都府内)に
住んでいたと伝わる
鬼の頭領、
あるいは盗賊の頭目。

 酒が好きだったことから、
手下たちからこの名で呼ばれていた。

 国境や坂に
酒を入れた甕を埋める。
 これは
崇神期の墨坂や大坂と同じですね。

 丹後と丹波の国境の大江山、
山城と丹波の国境の老の坂ですね。https://www.facebook.com/100008023930727/posts/3241656906111742/?d=n 



 『酒呑童子は土公神、酒を入れた甕』
 そのニ 
〜土蜘蛛と土公神と源頼光 

 【酒呑童子の特徴】
 1.平野山(比良山)に住んでいたが
伝教大師(最澄)が
延暦寺を建てて以来、
そこには居られなくなり、
嘉祥2年(849年)から
大江山に住みついた。 

 比良山の比良大神は
白鬚大神で猿田彦大神の事ですね。 
まさに土公神。

 最澄所縁の日吉大社には
大己貴命(大物主)が勧請されている。
 大物主は間違いなく
オリオンの土公神でしたね。 


 2.家来の茨木童子
 出生地が酒呑童子と同じく
越後出身との説がある。
 『古志郡』の山奥の軽井沢
(現・新潟県長岡市軽井沢)の
生まれとされていて、
弥彦神社に預けられていた。 

『古志』は越であり、
気比神宮の気比大神は
『土公』という場所に降臨しています。

 また、越の敦賀の名前の由来は
崇神期に渡来した
新羅の『ツヌガアラシト』で、
その名前は
『つのがあるひと』で
鬼ですね。 

それに古志は八岐大蛇、
弥彦は天香具山(天火明命系、丹後籠神社)、
八岐大蛇も土公であり、
弥彦はオリオン座で、
これも土公神ですね。


 3.四天王星熊童子、熊童子、
虎熊童子、金童子 

 これは
オリオン(参宿、西方白虎)の四つの星で、
四つの星は
『酒枡星』、『熊手星』、
『金脇、銀脇』などと呼ばれています。



 4.酒好き酒呑童子は、
一説には
越後国の蒲原郡中村で誕生したという。 
また伊吹山の麓で
スサノヲとの戦いに敗れた
『八岐大蛇』が
出雲国から近江へと落ち延び、
そこで富豪の娘に産ませたのが
酒呑童子だという伝承もある。 

その証拠に、
父子ともども無類の酒好きであることが
挙げられる。 
まさに、土公神ですね。 

伊吹山は
ヤマトタケルが『草薙の剣』を持たずに
山の神と闘い、負けたところですね。 


 5.土地神・とち 
和納村(現・新潟県新潟市西蒲区)では、
村付近の小川に棲む
『とち』という魚を
妊婦が食べると、
その子供は
男なら大泥棒、女なら淫婦になる
といわれ、
その魚を食べた
ある女の胎内に16ヶ月宿った末に
生まれた子供が酒呑童子だといい、
この地には
後に童子屋敷、童子田などの
地名が残されている。

 wik参考 


 『酒呑童子は土公神、酒を入れた甕』
番外編、資料編
 〜イケメンだった若者(外道丸)

 昔、修験道の
神融解聖人
(泰澄大師 682年7月20日 - 767年4月20日)は
法華経の修行を行い全国を行脚した。 

ある時、
神融解聖人が
国上山(クガミ山)に
立ち寄ることがあった。 

住人がこの山に塔を起て
供養しようとすると、
雷電が空から下って来て、
塔を蹴壊して、
空に上っていった。

 住人は落胆したが、
再びまた、改めて塔を建てた。
 神融解聖人は、
住人に向かって、
法華経の力で
雷電からこの塔を守ってやろう
と誓い、
住人ともども塔の下で、
一心に法華経を唱えた。 

すると空は暗くなり、
雨が降ってきたが、
なお法華経を唱えると、
身体を五所縛られた
15.6歳の雷が、
神融解聖人のもとに落ちてきた。 

 神融解聖人は
雷から、供養の塔を壊す理由を
問いただし、仏法によって戒めた。 

また、この寺は
水の便が悪かったことから、
水を出すよう命じた。
 雷は、
堂塔の保全を誓い、清水を湧出したので、
神融解聖人はこれを許し、
雷は空に上っていった。 

この後、雷が誓ったように
数百年の間塔が壊るることはなかった。

 また、この山の東西南北四十里四方、
雷の音を聞くことはなく、
清水(雷井戸 )も枯れることなく
湧出したという。 

〜今昔物語 
 酒呑童子の出生地は
越後とされているが、
新潟県には、
酒呑童子出生にまつわる伝説が
多く残されている。 
 平安初期(8世紀)、
恒武天皇の皇子桃園親王が、
越後に流罪となったとき、
石瀬俊網は
妻と共に皇子に従ってきて、
砂子塚(燕市 旧分水町大字砂子塚)に
城を築き城主となった。
 妻との間に子ができなく、
信濃戸隠山に参拝祈願すると懐妊し、
16ヶ月間母の胎内にあって
酒呑童子は誕生した。 

 この地には
酒呑童子誕生の地と伝えられる
「童子屋敷」が今も存在する。 

 幼名は外道丸、
手のつけられない乱暴者だったので、
8歳の頃、
新潟市楞巌寺(旧岩室村)で勉強し、
国上山国上寺へ
稚児として預けられた。 

神仏混淆で、
国上寺は弥彦神社の別当寺と
なっていたので、
外道丸は
弥彦神社の稚児も兼ね務めた。

 稚児の仕事は、
国上寺と弥彦神社を往復し、
書簡を運ぶことであった。

外道丸は
母が亡くなったことを機に改心し、
仏道修行と学問に励んだ。 

 外道丸は
類まれな美貌の持ち主で、
多くの女性たちに恋慕された。 
近郷近隣の娘たちから
行李が一杯になるほどの
恋文が届いたが、

仏門にあり、一心に修行に励む
外道丸はそれらに見向きもしなかった。

 そうしたうちに、
外道丸に恋した娘たちが、
次々と死ぬという噂がたった。

 ある日、叶わぬ恋を悲観した
ひとりの娘が淵に身を投げ
自殺してしまうが、
これを聞いて驚いた外道丸が
これまでにもらった恋文を
焼きすてようと行李を開けると、
中から娘たちの怨念が
白い煙となって立ち昇り、
外道丸は気を失ってしまう。

 目を覚まし、異変に気がついた外道丸が
鏡井戸(「童子水鏡の池」)を覗くと、
水面には鬼の形相に変わった
自身が映っていた。 

 鬼になった外道丸は
国上山の中腹にある
断崖の穴(「岩屋」)に身を潜め、
自らを「酒呑童子」と
名乗るようになった。 

 国上から逃げ出して
弥彦へ移ったが、
弥彦大神の住まいで
安住が許されず、
ついに峰づたいに西へ向かった。

 まず向かったのは
長岡市軽井沢(旧栃尾市)である。

 ここは、国上寺で
一緒で一の子分と言われた
茨城童子の出身地であった。

 熊袋(旧栃尾市)からは、
虎熊童子が子分に加わった。 

 次に、松之山の金剛童子をはじめ
各地で同士を募り、
石熊童子ややなきた童子の子分らと、
戸隠山の方へ姿をけしたのち、
仲間を増やして 
丹波の大江山に辿り着いた。 

 そして何年か経つうちに、
国上や弥彦の人達は、
丹波の大江山に酒呑童子がいることを
語り聞いたということである。 

 大江山の酒呑童子たちは、
徒党を組み、金棒や刀を奮い、
配下の鬼と共に
夜な夜な平安京を荒らしまわり、
若い娘たちを誘拐し、
乱暴したりその血肉を喰ったという。 

その傍若無人ぶりは
まさに鬼の所業であった。 

 この行いを見過ごすことが
出来なかった時の天皇は
源頼光に対し、
鬼たちを討伐するよう勅令を出した。 

頼光は
藤原保昌と、
頼光四天王(渡辺綱、卜部季武、
碓井貞光、坂田金時) を
引き連れて、
神仏の協力を得て
山伏に身をやつして
酒呑童子の住処へ潜入する。 

 自分たちは
鬼たちの仲間であると信じさせ、
鬼の力を封じるという
神酒を呑ませ、
身の上話を語りながら
気をゆるした酒呑童子の寝首を掻いて
討伐した。 

 一方で、悪鬼として
逃亡の果てに
大江山で成敗された酒呑童子であるが、

実は京で晒された首は
本物ではなく、
本当の首は
「首塚神社」に手厚く葬られ、
今も信仰を集めているという。 

 頼光の騙し討ちにあい、
討伐された酒呑童子たちであったが、

本当は京の都で、
人々に崇められ、
慕われていた酒呑童子に嫉妬した
都の貴族たちが、
鬼の話を作り上げ、
殺してしまったともいわれている。 


 『国上寺と五合庵』

 和銅2年(709)
弥彦大明神の託宣によって
金智大徳を開山とし、
勅願寺として創建された。 

真言宗豊山派の寺院で、
開山1300年の越後最古の古刹である。

 12世紀の前半に成立した
「今昔物語集」にも、
国上の仏塔を破壊し、
その造立を妨害した雷神を、
神融解聖人(泰澄大師)が
法華経の霊力で制圧し、
雷神に清水を湧出させ、
堂塔の保全を誓わせたという話が
残っている。 

 現在の堂宇は
客僧万元上人が中心となり
享保3年(1718)に再建し、
県内最古といわれている。 

代々弥彦神社の別当寺として
古記に分明されている。 

酒呑童子や源義経・弁慶伝説も残る。

 良寛ゆかりの五合庵は
この寺の敷地内にある。 
本尊は 阿弥陀如来像で
縁起等によれば、行基作、
婆羅門僧正の開眼にして、
聖武天皇の后光明皇后により
賜った霊仏であると伝えられている。 

 文治3年(1187)、
源義経が平泉へ逃れる途中に
国上寺本堂に隠れていたといわれている。 

 義経自作といわれる
大黒天木像が奉納された。 

この大黒天木像を祀った
『六角堂』が
文化13年(1816)に建立された。 

 承久3年(1221)、
承久の乱の時、
後鳥羽上皇・順徳上皇方についたため
北条氏によって全山を焼き尽くされ、
当山の僧重範は
紀伊国へ流罪となった。 

知らんぷり紀伊国は、「黄泉の国」だもんね!


戦国時代には、
上杉謙信より祈願所として
十万石の格式を受け、
七堂伽藍が建立された。 

 天正11年(1583)に
上杉景勝からも保護を受け、
寺領を郡司不入とする安堵状が
出されている。 

しかし織田信長が
延暦寺を焼き討ちした頃、
国上寺も何度か焼き討ちにあった。 

 江戸時代に入ると、
慶長16年(1611)に
松平忠輝から寺領100石を寄進され、
元禄11年(1698)には
村上藩榊原氏より
新田高50石を除地とし、
年貢を免除された。 

 天和2年(1682)、
大和国吉野郡の出身の万元和尚が
諸国行脚の途中、
国上寺良長住職を訪ねたが、
寺は本堂も焼け落ちて荒れ放題であった。

 見かねた万元和尚は、
越後の隅から隅まで
30年という年月をかけて托鉢して歩き
国上寺の再建に尽くした。

再建がなったのは、
万元和尚の死後の
享保3年(1718)であった。 

 その間 
万元和尚が住んでいたのが、
良寛が仮住まいしたことで
有名な五合庵であった。 

 良寛は、
漂泊の旅から漸く
五合庵に定住の地を得て、
「いざここに 我が身は老いん 
足びきの 国上の山の 松の下いほ」
と詠んでいる。 

 現在の国上寺の境域は
約1万5600㎡、
麓の国上集落から東西二つの参道があり、
むかし東大門のあった東参道は、
杉木立の中の谷間を登る。
 西参道は途中に
良寛ゆかりの乙子神社・五合庵などがある。 
堂宇は
本堂、客殿、六角堂、大師堂、
一切経堂、鐘楼堂、宝物殿、
山門などを備える。 
 ほかに、
雷神が湧出させたという雷井戸、
建久年間(1190~99)、
ここに来て修行の日を送ったといわれる
修験者、曽我禅司坊の
戒壇跡・宝篋印石塔などがある。
 本尊には阿弥陀如来を祀っている。 
宝物殿には
良寛の屏風・枕地蔵・
京都大江にゆかりの酒呑童子絵巻等がある。

 参考
http://apple2004.fem.jp/kaguyast/toti/tera/kokujyoji.html 



 *外道とは 
仏教以外の宗派の教説を異端だと見なし
「外道」と呼んでおり、
仏教を「内道」と呼んでいる。 


 『鬼と仮面』
 〜纒向の仮面は異形の面

 中国では
鬼とは亡者に限らず、
この世のものでないもの、
化け物全般を指す言葉でもあり、

貝塚茂樹によれば、
鬼という字は
「由」と「人」から成り立っており、
人が由、
すなわち大きな面をかぶっている
形を表したもので、
古代国家の祭祀の主宰者であった巫が
降霊術を行うとき、
『異形の面をかぶった姿を象形化したもの』
であろうとされている。 


知らんぷりもしかして、「ナマハゲ」とか
そうなのかな?



 「鬼」(キ) という漢字の原義は
「死者の魂」である。

 例えば、
餓えた死者の魂を「餓鬼」、
死者の魂が泣き喚くことを「鬼哭」という。 

現代日本語の「オニ」も、
「鬼」の原義である
「死者の魂」として用いられる例もあり、

海外で死ぬことを
「異国の鬼となる」
「異境の鬼となる」と表現する。

 元々は死霊を意味する中国の鬼が
6世紀後半に日本に入り、 
日本に固有で古来の「オニ」と重なって
鬼になったという。

 ここでいう「オニ」とは
祖霊であり地霊であり、

「目一つ」の姿で現されており、
隻眼という神の印を帯びた
神の眷属と捉える見方や、
「一つ目」を
山神の姿とする説(五来重)もある。 

いずれにせよ、
一つ目の鬼は
死霊というより
民族的な神の姿を彷彿とさせる。

 また、『日本書紀』には
まつろわぬ「邪しき神」を
「邪しき鬼もの」としており、

得体の知れぬ「カミ」や「モノ」が
鬼として観念されている。


 〜wik参考

文・蛯原春比古さまに
帰属します
マネはできません