無欲こそ、宝である | その先、ヒカリ♥

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無欲こそ宝である



菜根譚一日一言


人は只だ
一念貪私(いちねんたんし)なれば、
便(すなわ)ち
剛(ごう)を銷(け)して

柔(じゅう)となし、
智を塞(ふさ)ぎて昏(こん)となし、
恩を変じて惨(さん)となし、
潔を染(そ)めて汚(お)となし、

一生の人品を壊了(かいりょう)す。

 故に古人は
貪(むさぼ)らざるを以って
宝(たから)となせば、

一世に度を越する所以なり。




現代語訳

人間は欲を張ると、

強みは弱みとなり、
智慧は輝きを失い、
優しさは残酷さに変り、
潔白は汚れ、
品格は地に落ちてしまう。 

だから、昔の人は、
「清貧こそ宝」として一生を精進した。 

つまり、
強欲が人生を破滅させ、
清貧が成功をもたらすよ、
ということ。

 言い換えれば、活人が
福を追えば逃げ、追わなければ来るので、
「招く」という気持ちが一番ということ。

招福という発想。



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強みは時として弱みとなる
ということはよく言われる。

ここでは、
一念貪私が、
全てを曇らすと言われている。

親鸞の教行信証に

「貪愛(とんあい)の心
 常によく善心を汚(げが)し、
瞋憎(しんぞう)の心
 常(つね)によく
法財(ごうざい)を焼く」

とあります。

「貪愛の心」とは

自分の都合に合うものを
際限なく貪(むさぼ)り
求めようとする心であり、

この心が
「善心を汚す」

親鸞は言います。

「善心」とは、
私たち一人ひとりのうちにある
本当に自分らしく生きたい
という思いです。

意識するとしないとにかかわらず、
私たちの誰もが
その思いを持っています。

この点に  
仏教の人間のとらえ方があります。

ところが
その思いを覆い隠し
見失わせるものが、

ほかならぬ自らの
「貪愛の心」であると

親鸞は言うのです。



 また、
「瞋憎の心」とは

自分の都合に合わないものに対して
瞋(いか)りや憎しみの感情を
抱(いだ)いていくことを言います。

その心が「法財を焼く」と

親鸞は言います。


「法財」とは
自分という存在を表す言葉です。


自分という存在は
他の人との関わりを抜きには
生きていません。

しかし
「瞋憎の心」を抱くことが
原因となって、

人間にとって
何よりも大切な私と
他の人々との関わりが破壊され、

お互いがお互いを
傷つけ合っていくことにも
なっていく。

親鸞は 
このように見定めています。


 私たちは、
自分が自分らしく生きることと、
他の人と共に関わりながら
生きていくということとが、
矛盾なく成立するという事実に
なかなか気付けません。

自分らしい生き方ができないのは
周りの人のせいである
とさえ考えてしまいます。


そのために
自分の都合に合ったものや
自分にとって好ましいものに
愛着や貪りの思いを持ち、

一方で
自分の都合に合わないものには
瞋りや憎しみの思いをもって、
そのためにかえって
自分自身を見失っていくのです。


 本当に自分らしく生きるということは、
都合のよいものだけを求める
生き方からは
決して開かれてきません。


自分の内には
「貪愛の心」「瞋憎の心」が
いつでもわき起こっています。

その事実から目をそらさず、
それが何によって起こるのか
率直に見つめれば、

そこに都合のよいものだけを 
追い求める
自分の生き方が
浮かび上がってきます。

その生き方を
ひるがえしていこうとする時に、

初めて
自分らしく生きる道が
開かれてくるのです。


この点に、親鸞が
冒頭の言葉で

人間という存在を確かめていった
意味があるのです。

菜根譚のこの章句も、
人間の業のような
深い部分を見ているのです。



ありがとうございます