蛯原春比古さまに帰属します。
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蛯原さまの考察
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ありがとうございます
『甕は参、出雲と大和は陰陽』その一
〜出雲信仰とは
井戸のなかからは、
木簡や土器、瓦が出土しました。
なかでも注目されるのは文書の軸です。
この木口部分に、
天平2年 (730) の年紀が記してありました。
井戸の埋没は
出土した土器や瓦の年代から、
奈良時代の中頃とみられます。
土器は須恵器の壺や食器類、
土師器の杯皿などが含まれていました。
とくにめだって多いのは
煮炊きに使われた土師器の甕です。
その他、須恵器の壺類が
多く含まれて いました。
陶硯や奈良三彩も小片ながら出土し、
「右相撲□」、「□撲司」などと記した
墨書土器も出土しました。
これらの遺物から、
奈良時代の前半期に
井戸の周りには、
公的な機関が存在していたと思われます。
今回、
井戸の西では工房等がみつかり、
これに該当する建物群がないことが
確認されましたので、
東側に展開する可能性が高くなりました。
〜国立奈良文化財研究所 参考
【相撲の起源はいつ?】
日本において
「相撲」がいつから行われていたのかは、
定かではありません。
しかし、古墳時代の埴輪には、
明らかに力士の姿を想起させるものがあり、
このころすでに力くらべとしての
相撲が行われていたことが想像されます。
また、古事記の中の「国ゆずり神話」に、
「建御雷神(たけみかづちのかみ)」が
力くらべで国ゆずりを遂行した様子が
語られていることから、
相撲の起源は
神話の世界にまで遡ることがわかります。
実際に、
日本書紀の
「野見宿禰説話(のみのすくねせつわ)」
には、
垂仁天皇7年7月7日に
天下一の強力として名を轟かせていた
大和国の当麻蹴速(たいまのけはや)を
諌めるため、
天皇の勅命で
出雲国の野見宿禰が
招聘(しょうへい)され、
相撲が組まれたとあるのです。
この相撲に勝った宿禰には
蹴速の領地が
朝廷により授けられたとあり、
相撲による力くらべが
いかに重要な位置を占めていたかが
想像されます。
【祭りの儀式として発展していく】
「野見宿禰説話」を起源として、
奈良時代になると
毎年7月の七夕祭の際に、
天皇や貴族たちを前に
相撲が執り行われるようになり、
これが平安時代には
「相撲節会(すまいのせちえ)」として、
宮中の年中行事となっていきます。
このように奈良時代以降、
宮中で相撲が行われるようになったのは、
日本各地でその年の農作物の収穫を
占う儀式として
相撲が盛んに開催され、
これを宮中での五穀豊穣、天下泰平を
祈念する神事として
発展させたことが原点であると
考えられています。
〜日本文化の入り口マガジン和樂webより
『甕は参、出雲と大和は陰陽』そのニ
〜六角井戸の水は力水
「四股(しこ)」を踏み、邪気を祓う
土俵上の所作で、
最も目につくのは
力士が踏む「四股」。
力士にとっては
大切な準備運動でもありますが、
四股とは本来
「醜いもの」という意味があり、
力士は四股を踏むことで
地中に潜む邪気を祓っている
といわれています。
「力水(ちからみず)」で
身体を清める。
土俵の赤房(あかぶさ)と
白房(しろぶさ)の下には桶があり、
ここに「力水」と呼ばれる水があります。
一度塩をまきに行った後、
前の取組で勝った力士から
水をつけてもらい、
口をすすいで身体を清める。
その後、桶に備えてある
「力紙(ちからがみ)」で
顔や身体をめぐって
再び土俵へと向かいます。
ちなみに、
「赤房」「白房」というのは、
俵上の吊屋根の四隅に
備わっている4色の房のこと。
それぞれに四季と、
そこに祀られている四神を表しています。
青(北東)は
春で青龍神(せいりゅうしん)・
赤(南東)は
夏で朱雀神(すざくしん)・
白(南西)は
秋で白虎神(びゃっこしん)・
黒(北西)は
冬で玄武神(げんぶしん)
を表しています。
〜日本文化の入り口マガジン 和樂webより
本来なら
赤房は
朱雀(朱雀門の井戸)ですから、
対になる黒房である玄武に
水桶があるのですが、
白房、白虎となっているのは
『西方白虎七宿に参宿、
觜宿(オリオン座)』
があるからでしょう。
『甕は参、出雲と大和は陰陽』その三
〜火継式(神火相続式)と大国主は星神
火継式は
出雲国造が代替わりの際に
行う儀式であり、
神火相続式とも呼ばれる。
前国造が帰幽(死去)した際、
新国造は
喪に服す間もなく
ただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、
燧臼(ひきりうす)
・燧杵(ひきりきね)を携えて、
熊野大社に参向する。
そして熊野大社の鑽火殿にて
燧臼・燧杵によって火を起こし、
鑽り出された神火によって
調理された食事を神前に供えると同時に、
自らも食べる。
その後、神魂神社において
饗宴を受けた後、
出雲大社に戻り、
奉告の儀式を行い、火継式は終了する。
この儀式にて
鑽り出された神火はその後、
国造館の斎火殿にて保存される。
国造は 在任中
この火によって調理したものを食べるが、
国造以外は
たとえ家族であっても
これを口にすることは許されないという。
火継式の「火」は
「霊(ひ)」であり、
その火をもって
調理されたものを食べることによって、
天穂日命以来代々の国造の霊魂を
自らの中に取り込むのだとされている。
wik参考
杵築の『杵』の意味は、きね。
臼(うす)に入れた穀物をつく道具、
「杵柄(きねづか)」 、
または、つち(槌)、
物をうつ道具とされています。
槌は筒であり、星を意味し、
杵築(出雲大社)の別名は
『厳神の宮』、
厳は「いかめ」ですから、
甕(カメ、ミカ)となり、
参宿、觜宿を意味するのかもしれません。
火継ぎは日嗣であり、
『火局、を継ぐ』に当てはまり、
火局(觜、陽)に対して、
水局(参、陰)、
つまり冥界の祭主である『大国主』と
一体となり、
六合(りくごう)、
四方天地(天の下の国、葦原中国)を
治める意味がある
のではないでしょうか。
また、大国主とは
倭国(日本)の各地域で
国づくりをした
(今は祖神となった)人々の総合神であり、
人々が望む
常世の神に他ならないのです。
*『日本書紀』の斉明5(659)年には、
出雲国造に
「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」を
修理させたと記述があり、
これを出雲大社とみれば、
7世紀半ばには
存在していたことになる。
*賀茂の厳神
平安時代に都を守る神様、
つまり
王城鎮護(おうじょうちんご)の神
として、
東の「賀茂の厳神(かものげんしん)」、
西の「松尾の猛霊」
と呼ばれていました。
*厳と甕は同義。
『甕は参、出雲と大和は陰陽』その四
〜葛城と出雲
淤美豆奴神(おみづぬのかみ)、
賀茂の神としては、
味耜高彦根命であり、
賀茂別雷神、
出雲神話では
八束水臣津野命
(やつかみずおみつぬのみこと)
になります。
アヂスキタカヒコネ命は、
別名賀茂大神と呼ばれていて、
その本拠地は
大和の葛城(高鴨神社)といわれています。
〜雄略天皇が
葛城山で狩猟をしたとき、
土地の猟師が
天皇と獲物を取り合って争いました。
怒った雄略天皇は
その猟師を他国に追放しましたが、
のちにそれが
葛城山に宿る神霊だったことが分かり、
その地に手厚く祀りました。
『続日本紀』
この猟師は
葛城の豪族の鴨氏の祀る高鴨神だとされ、
この話は
大和朝廷の勢力と、
鴨(出雲?)の神を信仰する人々との
衝突を反映したものと考えられています。
出雲国造の氏神は
出雲国一宮の熊野大社。
祭神は櫛御気野命とされ、
須佐之男命の別名とされています。
櫛御気の御気は御食であり、
新嘗祭や大嘗祭、天皇の食事を意味します。
スサノオは
高天原で田の畔を壊したり、
糞尿を撒き散らし、
他の神々から反感をかい、
アマテラスだけが庇いますが、
スサノオが
機織り小屋に馬を投げ入れたため、
機織りが亡くなって、
ついにアマテラスも
岩戸に籠ってしまいます。
これはスサノオが
新しい治水や農耕をはじめたり、
(農耕を太陽の軌道だけでなく、
天文、星の運行で農耕時期を知る)
また、「熊野の三体月」で
ご紹介しました
「蚕女」の伝承が機織りが亡くなる、
つまり機織り技術の刷新と
結びついているのです。
これらは、
古い農耕や機織りなどの技術革新が
スサノオ(渡来文化)を通じて、
アマテラス(天皇)の元で行われ、
スサノオもまた
本来の渡来地である出雲に戻っていく、
つまり
先進的な技術を
出雲神を信奉する葛城や三輪から
受け継いだとも取れるのです。
『甕は参、出雲と大和は陰陽』その五
〜甕は鉄、水に囲まれた土地は
地上のオリオン、武甕槌誕生!
【雍】
鉄を産する場所という意味。
(出雲や他の地域か?
或いは製鉄技術が伝来した地域か?)
青帝・赤帝・白帝・黄帝・黒帝を祀る
五畤(五つの祭祀場)があり、
太昊・黄帝以下、三百三もの祠があった。
扶風都尉の本営が置かれ、
俗に「雍営」と称せられた。
唐朝との日本の交流の中、
雍州が長安の所在地であることより、
日本の京師(平安京)である
山城国の雅称に転用し、
そこから「雍尋城州」という
異称も派生している。
『雍州府志』も山城国の地誌である。
甕(かめ)とは、
陶製・金属製の口が広く
底が深い腹のゆったりとした容器である。
貯蔵や運搬などに用いる。
瓶(かめ)とも書く
意味
かめ、土器のかめ、釣瓶、
という意味がある。
〔説文解字〕には
瓮の字が載っていて「罌なり」とある。
瓮について〔揚子・方言〕に、
甖の大なるものを
「關よりして東、趙魏の郊、
之れを瓮と謂ふ。
或ひは之れを甖と謂ふ」とある。
字形
形声で声符は雍。
音訓
音読みは、ヨウ、【オウ】、ウ、
訓読みは、かめ、みか、もたい。
「雍」の初文(最初の形)は
おそらく「雝(よう)」で、
「雍」は「雝」の省略形と思われる。
「雝」は
金文の字形では
「巛(川)(せん)
+吕(宮室の象形)+隹(すい)(鳥)」。
古代、璧雝へきようといわれた聖所・神殿。
水が池・沢となるところに、
渡り鳥が決まった季節に従って
やってくることから、
祖霊が鳥形霊となって
飛来するものと考え、
そこに吕(宮)を作って祀まつった。
水が璧のように四方を囲み、
その中島に祀所を建てたものを
璧雝という。
「璧雝」は、後に経籍に
「璧雍」「辟雍」「辟廱」と書く。
水流が壅ふさがれてできた沼沢を中心に
璧雝が作られるので、
水流の壅塞ようそくすることを
「壅」という。
増殖難読漢字辞典より
木津川の甕原は
水に囲まれた土地から
「甕」という字が使われ、
天上では龍宮を意味する
オリオン座(参宿)を甕星
としたんですね。
文、蛯原春比古さまに
帰属します
マネはできません