韓神 スサノオ 来訪神 | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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蛯原さまの考察
シェアさせて頂きました
ありがとうございます

 






『韓神』
〜宮中の御神楽、天岩戸は韓招禱
 
本歌
三島木綿(ゆふ) 肩に取り掛け 
われ韓神の 
韓招禱(からをぎ)せんや 
韓招禱

末歌
八葉盤(やひらで)を 
手に取り持ちて 
我れ韓神の 
韓招禱せんや 
韓招禱
 
上は現行の歌詞で、
以下は『楽家録』卷之三所収の歌詞です。


「神楽歌」第十四《韓神》

本歌
みしまゆふ 
かたにとりかけ 
われからかみの 
からおぎせんや 
からおぎ

末歌
やひらてを 
てにとりもちて 
われからかみの 
からおぎせんや 
からおぎ

韓神(からかみ)は
朝鮮から渡来した神の事で、

古代より宮中の神殿には、

北に百済神である韓神(からのかみ)、
南に新羅神である園神(そのかみ)

祀られていました。


 



また『釈日本紀』『伊予国風土記』
逸文-越智郡御島の条)に

「大山積神は
百済から渡来して
津の国(摂津国)の御嶋(三島)に鎮座、
のちに
伊予国に勧請された」

とあり

大山祇神社の祭神 
大山積命(オオヤマツミ、三島大明神)は、

伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、
磐長姫命と木花開耶姫命の父

とされますが、

 




スサノオの系譜において、

オホヤマツミ神の娘である
神大市比売神(かむおほいちひめ)との間に
大年神と宇迦之御魂神(うかのみたま)を
もうけていて、

また、
クシナダヒメとの間の子、
八島士奴美神(やしまじぬみ)は、
オオヤマツミの娘の
木花知流比売(このはなちるひめ)と結婚し、
布波能母遅久奴須奴神
(ふはのもぢくぬすぬ)
を生んでいるのです。

天孫降臨の後、
邇邇芸命は
オオヤマツミの娘である
木花之佐久夜毘売と出逢い、 
オオヤマツミは
コノハナノサクヤビメと
その姉の石長比売を差し出し、
ニニギが
容姿が醜いイワナガヒメだけを
送り返すと、
オオヤマツミはそれを怒り、

「イワナガヒメを添えたのは、
天孫が岩のように
永遠でいられるようにと
誓約を立てたからで、
イワナガヒメを送り返したことで
天孫の寿命は短くなるだろう」

辺境の隼人の女神
『木花開耶姫』や
百済や新羅に由来する
『オオヤマツミ』や『スサノヲ』、
つまり
隼人や扶餘(豊、渡来人)が
大和の人々にとって、
如何に呪術的な存在だったかを

邇邇芸の神話は
物語っているんです。


更に何故?
天孫邇邇芸が
日向に降臨する必要があったのかも、

神武天皇東征と同じように

『筑紫』という境界と
『日向(ひむかし、東)』が倭国
という国の領域を
示す事になっているのです。

*おそらく、オオヤマツミは
木花開耶姫や石長姫を娘とし、

人間の生死を司る点では
中国の泰山に住むという神、
泰山夫君をモデルとしているようで、

後に日本では
素戔嗚尊と同一
考えられるようになったようです。

オオヤマツミが
田の神、山の神として信仰されるのは、
スサノヲが来訪神であったから
と推測できるのです。



【韓神(朝鮮から渡来した神の意) 】

守護神として
宮内省の中にまつられていた神。

「古事記」には
大年神(おおとしのかみ)と
伊怒比売(いぬひめ)との間の子とし、
「大倭神社註進状所引旧記」には
大己貴命(おおなむちのみこと)、
少彦名神(すくなひこなのかみ)の両神
とする。
平安時代には、
園神(そのかみ)とともにまつり、
韓神祭(からかみのまつり)が
盛大に行なわれた。

【韓招】
韓(から)の神を招くこと。
或いは韓風(からふう)に神を招くこと。

『境界の祭祀と渡来人と隼人』

真蘇我(まそが)よ 蘇我の子らは 
馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 
太刀ならば 呉の真刀の 諾(うべ)し 
蘇我の子らを 大君の 使わすらしき 

〜推古天皇紀20年(612年)
正月丁亥(ていがい・七日)
条(日本書紀巻二十二)

偉大な蘇我氏の人は、
馬なら有名な
日向の駒
(譬武伽能古摩・ひむかのこま、
隼人の馬)、
太刀なら有名な
呉国(南朝、或いは百済経由の太刀)の
名刀にたとえられるほど優れている。
大王のわたくしが
使いになるのはもっともなこと。

(蘇我氏を褒め称えた内容)
*日向の駒とは
隼人が飼育していた馬

境界(坂)の祭祀は
渡来人や隼人らが境部を構成し、

その境部を統轄していたのが
蘇我氏の一族の境部臣ですから、

葛城や丹後との繋がりなどは、
東漢氏や日置部(海部)や日置造、

神話では
久米部から阿多・大隅の隼人に
繋がるんです。

つまり、
呪力のある習俗を持つと
考えられていた
九州の辺境の隼人や、
渡来系のシャーマン
(おそらく朝鮮半島の扶餘、高句麗、百済)は、

大和朝廷では
特殊な能力を持つ人々と認識されていて、
大王や有力な豪族の配下におかれ、
その特殊な呪力を
如何なく使ってきたのです。
 
また、呪力だけでなく
渡来の天文観は
鬼神祭祀の根幹になり、
製塩、酒造り、織物とも関連し、
来訪神、田の神、神仙の思想さえも
包含していったのです。

*因みに
シャーマンの語源は
満州族のシャマン、
満州族は
高句麗や百済の王族と同じ
扶餘族といわれている。



境界の祭祀はいわゆる
土公神や土地神となっていきますが、
その源流は
竈門神や祖霊(鬼神)、
天文観や農耕から
方位神や星神もあり、
家宅の神や塞の神(道祖神)とも
なっていきます。


境界を意味する言葉には
伽耶や香具山、カゴヤマ、カゴ、
国の大きな境界は
陸地が行きつくした場所としての
筑紫、宗像の沖ノ島は
正に海の境界の祭祀なんです。
 
崇神紀の墨坂や大坂は
陰陽五行による土用の祭祀、

推古朝での海石榴市での祭祀は
海外からの穢れの侵入を防ぐ祭祀
でもあるのです。


*蘇我 境部摩理勢
(そがのさかいべのまりせ)
飛鳥時代の豪族。
蘇我稲目の子、馬子の弟
(一説に馬子の従弟ともいう)。
軽の境部
(現在の橿原市白橿町、または大軽町)に
居住したために
境部臣と呼ばれた。




『蘇志摩利(そしまり)と曾尸茂梨(ソシモリ)』
〜スサノヲと蓑笠(箕)

雅楽。
高麗楽こまがく。
高麗双調の中曲。
舞は四人舞。
舞人は蓑笠みのかさをつけ、
高天原を追われた
素戔嗚尊の苦難を写すという。
長久楽。
蘇尸茂利(そしもり)。

雅楽の曲名。
高麗楽双調の曲。
中曲。
右方舞。
舞人は蓑笠をつけて舞う。
雨乞いのときに舞われた
といういい伝えがある。
長久楽。
そしもり。

「日本書紀」神代巻の別伝で、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が
高天原を追われて行った
という古代朝鮮の地名。

今の大韓民国江原道春川郡牛頭山か
という説もある。


※書紀(720)神代上

「素戔嗚尊、其の子五十猛神を帥ゐて、
新羅の国に降到りまして、
曾尸茂梨(ソシモリ)の所に居します」




参考
デジタル大辞泉 、精選版 日本国語大辞典

*ソフル、ソウルという
新羅の都という説もあります。

高麗楽は、
新羅楽・百済楽とあわせて
三韓楽と総称なんですが、
7世紀に日本に伝わったとされています。

蘇志摩利という曲が成立したのは、

『教訓抄』高麗部に記載がある
近衛天皇の久安年間(1145年-1150年)に
此樂今者絶とされていて、
『日本紀通證』(谷川士清)において、
高麗曲に
樂名 蘇志摩利 又樂具蘇志麻理あり
とされています。

高麗楽のソシマリ成立は
平安時代末期ですが、

スサノヲ神話の
蘇尸茂利(そしもり)
何処の地名なのかは、
はっきりとはしないんです。




蓑笠を付けるのは
確かに雨乞いなんですが、

これは
神武東征神話に登場する
オトウカシやシイネツヒコを
雨師や風伯と見立てたもので、

古代中国では
星神でもあり、風雨を司る神
と混同されています。

中国の最も初期の風神は
箕星(きせい、箕宿)
あるいは
箕伯(きはく)と呼ばれました。

『風俗通義(後漢末)』では、
”風師は箕星である。
風を起こせるので箕伯と称した。”
とあります。

本来は
スサノヲの天降りの際に
天海の涯に出て来訪神となる姿
なんですが、


来訪神という括りの中で
同一とされたのでしょう。

日本では
陰陽や宿曜に取り入れられ、
川の上流で雨乞いなどの祈祷する
『雨師』となっていくのですが、

本来は
降雨だけでなく止雨の祈祷もあり、

スサノヲが
出雲で八岐大蛇を退治するのは
止雨であり、

夏の明け方、
昴、畢、参が揃う
『土用』の禍いを鎮める神話
でもあるのです。




文、蛯原春比古さまに
帰属します
マネはできません


ありがとうございます

 





暦会館さんより
暦は、天文観、陰陽道