卑弥呼と、土公神の変化 | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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蛯原さまの考察
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ありがとうございます
 



『纏向(まきむく)と卑弥呼』総集編・完全版


〜鴨は蛙・纏向と星の巫女・
天空の井戸はオリオンの玉井・
神話が伝える卑弥呼の姿

崇神の時代、

宇陀の「墨坂神」に
赤色の盾八枚・矛八竿を
「大坂神」に
黒色の盾八枚・矛八竿を
献納したのは

『土公神』なんです。


(土公神を鎮めるのは
坂や国の境界、
国境に埋める酒を入れた甕は
土公の供物、
盾や矛は辟邪・防御で
八は方位であり、四方八方)

東の墨坂は
木気で季節は春、色は青で、
季節の移り変わりの
土用(土気)を祀ると
春から夏に変わり、色は赤になります。

西の大坂は
金気で季節は秋、色は白で、
季節の移り変わりの
土用(土気)を祀ると
秋から冬に変わり、色は黒になるんです。


季節の移り変わり(土気による再生)を
盾や矛の色であらわしたのです。




古代では
陰陽五行の解釈から
季節と方位は同調していて、
四季の変わり目には
前と後の季節のギャップを調整するために
緩衝する期間を
土用としていました。

土用は土気で
五行の中心にある死と生の再生であり、
季節の変化による流行病は
悪神(鬼の仕業、鬼は祖霊であり、
竈門神、土公神とされていた、
或いは神道の荒御魂)の仕業
としていたため、

国の出入口である場所に
土公神(塞の神でもある)を祀り、

季節の移り変わりが
スムーズに行われるようにしたのです。

また、
水気は五行の最終段階で
安定した状態をあらわしていますが、

大和の東西の坂は
分水嶺に祀られる配水の神を指す
「水分」と称する諸社が祀られ

臨時祭式「祈雨の神の祭八十五座」中に、
大和国の西に「葛城(木)水分社」
北に「都祁水分社」
東に「宇陀水分社」、
南に「吉野水分社」
がありました。

これらの水分社は
農耕の水に関係し、
古くから雨乞いの祈願がされていて、

陰陽五行の土剋水により、
天から与えられた水を
国土に保水する意味から、

土公神の原初の姿と
深く関係していくのです。

また、盾と矛を置くのは、
武器としての
神宝、威儀具としてだけでなく、
境界の防御(辟邪)の思想が伺えます。




【三輪山神婚譚】

百襲姫は
大物主神の妻となったが、
大物主神は夜にしかやって来ず
昼に姿は見せなかった。

百襲姫が
明朝に姿を見たいと願うと、
翌朝
大物主神は
櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、
百襲姫が驚き叫んだため
大物主神は恥じて
御諸山(三輪山)に登ってしまった。

百襲姫が
これを後悔して腰を落とした際、
箸が陰部を突いたため
百襲姫は死んでしまい、
大市に葬られた。

時の人は
この墓を「箸墓」と呼び、

昼は人が墓を作り、
夜は神が作ったと伝え、
 また墓には
大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の
石が
築造のため運ばれたという。

(大物主は
玉櫛笥の蓋を開けられ、
恥をかかされた、
つまり、土師は隠す、土師は葬送する、
箸は土に刺す斎串、
玉櫛笥の玉は玉井、つまり井戸の蓋、
古墳を作ることは
犯土という禁忌になるので、
祀りの儀礼が必要となる。)

櫛笥に入っていた『小オロチ』は
大物主の事で、
水祭祀に使う『櫛』です。

故に
大物主の別名は
『倭大物主櫛甕魂』になります。

また、
土公神は白い蛇が御神体
ともされています。


『土鴨と青蛙神』
〜土鴨は青蛙、三足烏と三足蛙

【土鴨 とおう】
あおがえる(青蛙)の異名。
中国では
月に青蛙神がいるとされている。
蝦蟇仙人は
この三足の蛙を捕えるために、
金貨で釣り上げて従えた
といわれている。 
家の庭先に青蛙神がでると、
その家に金運があり、
幸せが訪れるとも言われている。


【青蛙神(せいあじん、ちんわせん)】
中国の妖怪。
ただ「青蛙」とも。
蝦蟇仙人が従えている
三本足の蟾蜍(ヒキガエル)の霊獣
とされる。
3本の内訳は
前足が2本、後足が1本で、
後足はお玉杓子の尾のように中央に付く。

天災を予知する力を持つ
霊獣もしくは神。

大変に縁起の良い福の神とされ
「青蛙将軍」、「金華将軍」
などとも呼ばれる。
道教徒の間で特に信仰されていた。

奈良県桜井市の
「纒向(まきむく)遺跡」から
カエルの骨が出土したことが
新聞などで報道されました。

これは祭りに使用した
道具などを処分する
「祭祀土坑(さいしどこう)」
といわれる穴から発見されたもので、
カエルの骨は117個あり、
ツチガエル(94個)、
ナゴヤダルマガエル(13個)、
ニホンアオガエル(10個)
と確認され、
少なくとも計12個体を確認されました。

また、出土した穴は、
纒向遺跡の中枢とみられる
大型建物跡(3世紀前半)の
南側で検出され、
建物の解体後に掘られた
と考えられています。

さらに、カエルの骨の8割以上は、
モモの種をはじめ
動植物や土器、木製品と
同じ土層で見つかっています。

これらの骨は、
神聖な生き物であるカエルを
神前に供えたあと、
参列者がそれを食べて
骨を捨てたものだと考えられています。

これは現代でも行われている、
神饌・御饌(神様に献上する食事のこと)の
お下がりをいただく
「神人共食(しんじんきょうしょく)」
に繋がる行為です。

奈良県吉野郡吉野町南国栖の
「浄見原神社(きよみはらじんじゃ)」で、
毎年旧正月の14日に行われる
「国栖奏(くずそう)」という歌舞では、
山菓(栗)、醴酒(一夜酒)、
腹赤の魚(ウグイ)、土毛(根芹)
などとともに、
この地方の人々が
「毛瀰(もみ)」という名で呼ぶ、
ヤマアカガエルが神前に供えられます。

カエルを神前に捧げる祭祀としては、
諏訪大社の「蛙狩(かわずがり)神事」
も有名です。

国栖地方では
アカガエルは食用であり、
最高の珍味であったそう。

かつて
応神天皇が
吉野離宮を行幸した際、
歌舞を披露した国栖の人々が
カエルを煮た上等な食べ物を
献上したことが
『日本書紀』に記されています。

この時、応神天皇に奏された歌舞が
「国栖奏」の起源となっています。

この他、
縄文時代には土器に、
弥生時代には銅鐸や銅剣に
カエルの文様が描かれています。

おそらく、
土公神の贄が蛙であり、
蝦は蛙でもありますので、
土蜘蛛の贄でもあるんです。


【蛙と女性】

カエルは
「女性」「水」「月」などを象徴する
生き物であるとも考えられていたようで、
ですから
縄文晩期の土器には
女性器と思われる文様が
カエルの背中に象られています。

女性器が意味するものとは
「豊穣」であり、
「生命を産み、育む大地」でもあります。

カエルは
「月の不死性」を表しており、
「死から生が生まれ、生から死が生ずる」
という、
「死と再生のサイクル」をも
表しているのです。

参考
死と再生を象徴する、猿田彦大神の使い「カエル」『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界(第二十一回)』
久保多渓心 ( ライター・占術家 )

『神道辞典』国学院大学日本文化研究所(編)弘文堂 
『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監修)二見書房 
『神様になった動物たち』戸部民生(著)だいわ文庫 
『東京周辺 神社仏閣どうぶつ案内 神使・眷属・ゆかりのいきものを巡る』川野明正(著)メイツ出版



蛙は
雨の予兆を知らせる重要な生き物で、
特に農耕をはじめた縄文時代から、
土器に描かれているように
神聖視されるようになったといえます。

また、殷では、
10個の太陽が存在して
それが毎日交代で上り、
10日で一巡りすると考えられており、
十干は
それぞれの太陽につけられた名前
と言われています。

この太陽が10日で一巡りすることを
「旬」と呼び、
上旬、中旬、下旬と言う呼び名も
これに由来します。

中国には、
『堯帝』の時代に
10個の太陽が一度に出、
草木が燃えるほど暑くなってしまったので
堯帝が
弓の巧みな『羿ゲイ』という者に命じて
9つの太陽を撃ち落とした、
という神話があり、

この太陽は
烏によって運ばれていて、
烏は
日本では『八咫烏』のモデル
となっています。

また、羿の妻は
『嫦娥』といい、

『淮南子』覧冥訓によれば、
もとは仙女だったが
地上に下りた際に
不死でなくなったため、
夫の后羿が
西王母からもらい受けた
不死の薬を盗んで飲み、
月(月宮殿)に逃げ、
蟾蜍(ヒキガエル)になった
と伝えられています。
 
『淮南子外八篇』によると、
羿が狩りの最中に
月桂樹の下で嫦娥と出会っており、

道教では、
嫦娥を月神とみなし、
「太陰星君」
さらに「月宮黄華素曜元精聖后太陰元君」
「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、
中秋節に祀っています。

青蛙(蝦蟇)になった嫦娥、
羿が射落とした太陽の烏は
共に三本足であり、

八咫烏の別名は
鴨建角身命、鴨なんです。

三本足の烏が運ぶ
太陽を九つ射落とした羿、
仙薬を盗み
三本足の蝦蟇になった羿の妻女媧。

3×9+3=30、
これは
地の数(偶数)の合計の30になります。

偶数は陰ですから、
1カ月を30日となることを
暗示しているようですね。

(月を意味する数字)

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/mainichi.jp/articles/20190425/k00/00m/040/046000c.amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

『邪馬台国と纏向』

崇神は
ミマキイリヒコです。

ミマキは三輪山、
イリヒコはミマキに入った男です。

邪馬台国の官には
弥馬升(ミマショウ)がいます。

この人物がミマキ、
崇神になる
と推測しています。

卑弥呼の弥呼は
ミフ、ミカ、イフ、オウ、

これらの名前は
甕、意富、大、鴨でもあり、
同じ発音になります。


卑弥呼の鬼道は
家宅神、竈門神、土公神祭祀
と考えています。
つまり、祖霊祭祀ですね。

土公神は
土地神から農耕、天文から星神に
なっていきます。

日本では
土用三郎、
つまり
オリオンの三つ星であり、
三つ星は甕星、かせ星です。

『かせ木』は
糸巻きですから、
三輪の伝説(綜麻)があるんです。


それに
龍宮は
針(仕掛け)を失った山幸(浦島太郎)が
針を探しにいく話しです。


つまり、天空では
龍宮はオリオンになり、
道教ではオリオンを
五色の海亀に見立てています。

龍宮の入口にあるのが
桂の井戸で、
六角形の井戸であり、

奈良の東大寺では若狭井、
若狭は永遠に年をとらない
浦嶋太郎と乙姫の「若さ」
からきている名前です。

(若は
「髪をふりだし我を忘れて
神意を聞き取る巫女」の象形から、
神意に「したがう」を意味します。
また、
狭はシャと同じで
稲の古語、神の稲(食物)を意味します)

ですから
若狭から水を送っているんですよ。

(日吉大社の樹下宮の井戸や
聖武天皇玉井頓宮の六角井戸、
住吉大社大海神社の玉井)

また、平城宮跡朱雀門の近くでは
六角形の井戸が発掘されていますし、
聖武天皇が
恭仁京遷都のおりにいた
玉井頓宮には
現在でも六角形井戸があります。

さらに天智天皇が
大津京遷都の時に
三輪山より大己貴命を勧請した
日吉大社にも
樹下の井戸(六角形井戸)があります。

因みに
大己貴命の字は
オオミ(己と巳は同じ字と認識されていた)
という名前に改名されています。

纏向にある箸墓は
土師墓で
土気を表す甕で
甕は近くの河川に向いて
水を流すような位置に作られています。

三輪の大物主は
水気のオリオンになるんです。


ですから
土気を持つ陶邑出身の
意富多多泥古(オオタタネコ)
しか祀れないんですよ。
(土剋水)

鴨(オウ)媛は
これより
水祭祀の中心になるんです。

また、甕は
雍という字と同じ意味があり、
雍は水に囲まれた土地で
鉄が採れる場所を意味し、
中国の伝説の五帝を祀る場所、
つまり
祖神を祀る場所
という意味があるんです。

https://www.facebook.com/100008023930727/posts/3241656906111742/?d=n



『土公神と倭迹迹日百襲媛』
〜蠅はハエではなく
青蛙

古代中国の書物の『詩経』
(全305篇からなる中国最古の詩篇。
儒教の経典である経書の一つに数えられる)
の詩の中に
『蒼蠅』または『青蠅』の記述があり、
文字学的な考証によると、
それらは『蝦蟇』であり、
『周礼』の記述によると
蝦蟇は古来食用であり、
魚などの水性動物と同じで、
祭祀のための犠牲(供物)だ
としているのです。

つまり、古代では
魚(玉)や蠅(青蛙)は、
水や土の中において多産であり、
女性の出産に対する
予祝儀礼や婚姻儀礼としての呪物であり
祭祀供物として使われていたんです。


【蝿伊呂泥(ハエイロネ)】
倭迹迹日百襲媛の母とされる女性

古事記に登場する女性の名前で別名が意富夜麻登久邇阿札比売(オホヤマトクニアレヒメノミコト)。
蠅はハエではなく、青蛙だったんです。

『ハエイロネとハエイロヨ』
〜蠅伊呂杼は伊杼(イヨ)

オホヤマトネコヒコフトニ(七代孝霊天皇)は、
黒田の蘆戸(いおと)の宮に坐して、
天の下を治められた。

この大王は
十市の県主の祖オホメの息子、
名前はホソヒメを妻として、
生まれた御子は
オホヤマトネコヒコクルニ、
一柱だった。

また、この大王は、
春日のチハヤマワカヒメを妻として、
生まれ御子は
チチハヤヒメ一柱であった。

また、
「オオヤマトクニアレヒメ」を妻として、
生んだ御子は
ヤマトトモモソビメ、
次にヒコサシカタワケ、
次にヒコイサセリビコ、
またの名をオホキビツヒコ、
次にヤマトトビハヤワカメヒメの
四柱だった。

また、この大王は、
「アレヒメ」の妹の
「ハエイロド」を妻として
生まれ御子は
ヒコサマメ、
次にワカヒコタケキビツヒコの
二柱であった。

〜古事記より



【意富夜麻登玖邇阿礼比売命
(おおやまとくにあれひめのみこと)】
別名は
蝿伊呂泥(絙某姉、はえいろね)。

意富倭国香媛は、
古代日本の伝承上の人物。
孝霊天皇の妃で、
『倭迹迹日百襲姫命』と
吉備津彦命の母親とされる。
別名は
絙某姉(はえいろね)。

妹の
絙某弟(はえいろど)も
孝霊天皇の妃とされる。

『日本書紀』には出自の記載がないが、
『古事記』では
安寧天皇の曾孫で
淡路島出身の
蠅伊呂泥(はえいろね)
またの名、
意富夜麻登久邇阿礼比売命
(おほやまとくにあれひめのみこと)
と記されている。


*意富、大、多、甕、鴨は
全て『おう、おお』と発音します。

【絙】
古代中国で、
官吏がその身分や地位を示す
しるしとして
天子から賜った、
印およびそれを下げるための組紐。

卑弥呼は
親魏倭王の印を授かる。

〜象形文字の秘密より

某姉=姉、年長の女性を意味する。
卑弥呼、歳は長大。

蝿伊呂杼は蠅伊呂姉の妹です。
『いろよ』と『いよ』




『卑弥呼と纏向』

鴨も卑弥呼も
月(蛙)なんです。

(玉櫛笥は玉井の事、つまり井戸、
ホトを箸[土師、斎串]でつくのは
蛙狩りの串刺し[土公神へのお供え])。

魏志倭人伝の記事で
卑弥呼の特徴といえば、

1.宮室の中に篭っている。
つまり家宅の中で御告げを得ていた。
(家宅神、竈門神、祖霊、
鬼神、土公神、星神)

2.倭国大乱で亡くなった
祖霊を祀っていた。

卑弥呼を女王として
共立した理由がここにあります。

祖霊は家宅神であり、
鬼神、つまり卑弥呼の鬼道。

(古代中国では家宅神、
つまり竈門に集まる祖霊は鬼神であり、
天王などの天上の神々より、
神格の低い神という認識があったので、
魏志倭人伝では
卑弥呼の名前を卑しい字にした。)

3.歳が長大で
鏡を命の再生手段として
得ようとしていた。

桃や蛙をお供えにしていた。
(纏向で出土している。)

4.お墓の話しがある。
前方後円墳は
甕の形(土器、土気)で
再生を意味している。

5.人前に出てこない、
つまり昼間は寝ていて
夜に御告げを得ていた。
となります。
(土公神は土地神なので
農耕や天文の影響で
星神の性格を持っている。
つまり、夜にしか星はみえない。
星神は昼間は土中を移動している)


6.倭迹迹日百襲媛は
夜にしか
大物主(土公神)とは会えない。
箸墓は昼間は人が作り、
夜は神が作った。
秋から冬(死)に季節を移動させた
大坂山から石を運んだ。



 『三輪山伝説』
〜三輪山の神をめぐる神婚説話・
アマテラスと倭国魂

活玉依姫(いくたまよりひめ、鴨玉依姫)に、
夜ごとに通う男がいた。
その正体をつきとめるため、
糸巻の糸を通した針を
そっと男の衣に付けておくと、
翌朝糸は鍵穴から抜け出ていた。
辿っていくと
〈美和山〉の社に着き、
正体は神とわかる。

糸巻に糸が
3勾(みわ)(3巻)
残っていたことから、
その地を三輪と名づけた。

生まれた子は
三輪氏の祖
〈大田田根子(おおたたねこ)〉
となり、
三輪山の神、大物主神を
斎き祭ったと《古事記》は伝える。

〜百科事典マイペディア参考

『日本書紀』
崇神天皇7年2月15日条では、

国中で災害が多いので
天皇が
八百万の神々を
神浅茅原に集めて占うと、
大物主神が百襲姫に神憑り、
大物主神を敬い祀るように告げたという。

同書崇神天皇7年8月7日条では、
倭迹速神浅茅原目妙姫・
大水口宿禰(穂積臣遠祖)
・伊勢麻績君の3人は
ともに同じ夢を見て、

大物主神と
倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主を
それぞれ
大田田根子命と
市磯長尾市にするよう
告げられたといい、

同年11月13日条では
その通りにしたところ
果たして国内は鎮まったという。

この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は
百襲姫と同一視される。

百襲姫は
大物主神の妻となったが、
大物主神は夜にしかやって来ず
昼に姿は見せなかった。

百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、
翌朝大物主神は
『櫛笥』の中に小蛇の姿で現れたが、
百襲姫が驚き叫んだため
大物主神は恥じて
御諸山(三輪山)に登ってしまった。

百襲姫がこれを後悔して
腰を落とした際、
箸が陰部を突いたため
百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。

(女性の陰部は
蛙に例えられていますので、
蛙を斎串にさして
神前に供物とする事を
意味するのかもしれません)

(倭迹迹日百襲媛が葬られた箸墓は
大市という場所ですが、
大市氏は
新羅のツヌガアラシトの後裔一族
といわれており、
角の生えた鬼神[つのがあるひと]
という伝説もあり、
垂仁天皇 の時の帰国の際、
天皇は
阿羅斯等に
崇神天皇の諱
[御間城<みまき>天皇]の
「みまき」を国名にするよう詔した。

また、任那、弥摩那の語源になった
としています。

また、敦賀の気比神宮の気比大神が
降臨した場所は
土公という場所になっています。)

時の人は
この墓を「箸墓」と呼び、
昼は人が墓を作り、
夜は神が作ったと伝え、
また墓には
大坂山
(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が
築造のため運ばれたという。

また、倭迹迹日百襲媛の占いで
崇神は武埴安彦命の反乱を討伐します。

天香具山の土を取ったのが
いけなかったのでしょうね。
土公の禁忌に触れたと言えるのです。

*崇神期に渡来したとする
ツヌガアラシトは額に角がある、
つまり
「ツノがある人」なんですが、
これはおそらく創作された人物で、
福井県敦賀の名前の由来にもなっています。

敦賀には
気比神宮が天筒山の麓に鎮座しており、
この境内には
ツヌガアラシトを祀る角鹿神社もあり、
古伝では
天筒山麓の『土公』に
御祭神の
イザサワケ命
(気比大神、伊奢沙別命、
御食津大神、去来紗別命)が
降臨したとされます。

イザサワケの意味は
別名の『去来』は
春秋去来の事で
『往来する稲(田)の神』
という意味だと推測されます。

つまり、
田の神であり、御食神、土地神
になります。

これは
土公神(竈門神)と天文、
農耕の星神が習合した存在
といえるのです。



【倭大国魂】
『日本書紀』の
崇神天皇6年の条に登場する。
宮中に
天照大神と倭大国魂の二神を
祭っていたが、
天皇は
二神の神威の強さを畏れ、
宮の外で祀ることにした。

天照大神は
豊鍬入姫命に託して
大和の笠縫邑に祭った。

倭大国魂は
渟名城入姫命に預けて祭らせたが、
髪が落ち、体が痩せて
祀ることができなかった。 

その後、
大物主神を祭ることになる件が
書かれている。

同年8月7日、
倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・
伊勢麻績君の夢の中に
大物主神が現れ、
「大田田根子命を
大物主神を祀る祭主とし、
倭国造の市磯長尾市(いちしのながおち)を
倭大国魂神を祀る祭主とすれば、
天下は平らぐ」
と言った。

同年11月13日、
大田田根子を大物主神を祀る祭主に、
長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。

これらの記事からも、
豊鍬入姫命が
祖神の天照大御神を祀り、
意富多々根古が
祖神の大物主神を祀ったように、
倭大国魂神が
倭国造の祖神であったことがわかる。


【三輪の活玉依姫(鴨玉依姫)】

「活」は生き生きとした
「玉」はユイで「魚」、或いは「水」を
意味する言葉ですから、
『新鮮な水の姫』と解釈していいでしょう。

夜な夜な通う三輪の大物主に
糸を付けてると、
糸は美和山に三巻残されたので
『三輪山』となり、
生まれた子が
三輪氏の祖『おおたたねこ』となります。
巻向、ミマキイリヒコ、纏向は
この伝承から生まれた
名前だったのかもしれません。

今でも
大神神社の御神体は
この三輪山で
山中には
古代の祭祀遺跡や磐座も残っている、
大和では
最も古い祭祀場所といっていいでしょう。

伝承の主人公の大物主(三輪山)はまるで、
糸を巻きつけた『糸巻き』のように
表現されていて、
土公神が星神となり
三ツ星を
糸(井戸、水)三巻き付けられついた
という事です。

糸巻きはカセ(桛木)であり、
オリオン座の和名には
『かせ星』があります。

また、大物主と倭迹迹日百襲媛の神婚譚は
祖霊である大物主(大国主)が憑依し、
予言を得る事であり、
祖霊がたびたび憑依し、
その本質(正体)を知ることは、
ある意味では
死の世界へ行くことともとれます。

常世の国(死の世界)は
龍宮でもあり、
その入口は
玉櫛笥や玉手箱、
つまり
参宿(オリオン座)の星官『玉井』に
ほかならないのです。

ですから、大物主の別名は
『倭大物主櫛甕魂命』で、
『甕』は海では亀で、
天空ではオリオン座(参宿と觜宿)であり、
龍宮でもあり、
そしてそこには六角形の井戸
『桂樹の井戸、玉井』あり、
清純な水を得られる井戸を意味します。

また『櫛』は
井戸や水祭祀に欠かせない
呪術的なものであることも
紹介しましたね。

つまり
『倭大物主櫛甕魂命』は
三輪山の水祭祀であり、
祖霊を意味する
神の名前なのです

(櫛笥は
お化粧道具を入れる箱で
玉手箱と同じです。)

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『卑弥呼は老女?』鏡と死生観



魏志倭人伝で
卑弥呼は既に年長大であり、
夫はいない「年已長大、無夫壻」
と描かれています。

また、その死に関して
「卑弥呼以死 大作冢 
徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」と
記述されているように、
「卑弥呼の老・死」というものが
クローズアップされているようにも
とれます。

魏から大量に送られた鏡、
これは卑弥呼が老女で
死期が近いから
再生を意味する
「鏡」が必要だった

ともとれるのではないでしょうか。


知らんぷりもしかして
八咫鏡は、「終わりであり、始まり」
なのではないか?
日本国の再生を意味しているのか?
単に
アマテラスの、太陽信仰だけではなく
日本独自の、死生観なのではないか?


塚と鏡、塚を取り上げているのは
塚が特徴的であり、

卑弥呼の祭祀、信仰と
深く関係するからであり、

銅鐸から鏡へと
土中への鎮めもの変化ともとれるのです。





 『猿田彦と土公神』
〜神と神、習俗は繋がる


【土公神(どこうしん)】

陰陽道における神の一人。
土をつかさどるとされ、
仏教における「堅牢地神」
(けんろうちしん=地天)と同体とされる。

地域によっては
土公様(どこうさま)とも呼ばれ、
仏教における
普賢菩薩を本地とするとされる。

土をつかさどるこの神は、
季節によって遊行するとされ、

春はかまど
(古い時代かまどは土間に置かれ、
土や石でできていた)、
夏は門、秋は井戸、冬は庭にいる

とされた。

遊行している季節ごとに
かまどや門、井戸、庭に関して
土を動かす工事を行うと
土公神の怒りをかい、祟りがあるという。

また、土公神は
竈門の神(かまど神)ともされ、

かまどにまつり
朝晩に灯明を捧げることとされる。

この神は、
不浄を嫌い、
刃物をかまどに向けてはならないとされる



【竈門神】

火の神であると同様に
農業や家畜、家族を守る守護神ともされる。
竈神、『久那土神』とも
呼ばれることがある。


ちょっと不満東北では、かまどで火をくべる
と言いますね。燃やすとは言わない
なんと、甲州弁なのだそうだ


一般には
かまどや炉のそばの神棚に
幣束や神札を祀るが、
祀り方の形態は地方によって様々である。

東北地方では
仙台藩領の北部
(宮城県北部から岩手県南部)では、
竈近くの柱に
カマ神やカマ男と呼ばれる
粘土または木製の面を
出入口や屋外に向けて祀る。

新築する際に
家を建てた大工が
余った材料で掘るもので、

憤怒の形相をしており
陶片で歯を付けたり
アワビの貝殻を
目に埋め込んでいるのが特徴。

信越地方では
釜神といって、
約1尺の木人形2体が神体であり、
鹿児島県では
人形風の紙の御幣を祀っている。

竈近くの柱や棚に
幣束や神札を納めて祀ったり、
炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある。

島根県安来市につたわる安来節も
火男を象徴している
ということが言われている。

沖縄、奄美群島では
ヒヌカン(火の神)といって、
家の守護神として
人々には身近な神である。

日本の仏教における尊像・
三宝荒神は、
かまど神として祀られることで知られる。
これは、
清浄を尊んで不浄を排する神
ということから、
火の神に繋がったと考えられている。


〜wik参考

家宅(家の中)は
人間にとって重要な空間であり、
そこで活動する人々が
生活の平安や幸福のために、 
家宅の中心にある竈門に
鬼神(祖霊)を篤く祀ることは
古代中国において始まり、
東アジアの広い範囲へと
伝播していきました。

他の神と同じように、
家宅の神 も歴史の中で変遷し、
祖霊から鬼神、
竈門神から土公神(土地神)となり、
現在の中国においては
信仰が衰退した神であります。

土公神が土地神となり、
農耕儀礼や天文暦象などと結びつき
星神の要素をもつようになったのは

蕭登福(道教、道家研究者)によると

「漢代に社公より小さな土地神が現れた。
それは僅かに一つ
家の土地を司るだけであり、
『土神』や『土公』と称される」

と述べています。

土公神が土地信仰の流れの中で、
漢代に新しく現れた土地神だと
指摘していますが、
「僅か一宅の土地を司る」
土地神は、
漢代ではなく秦代からすでに存在していて、
それは、すなわち
『中霤』(祀の一、室中をいふ。
上古穴居の時、上にまどをあけて明を採る、
故に霤〈アマダレ〉が其の所より落つ、
よりて室中の義とす、
古、卿大夫の家、土神を祭る所、
五祀の祭神は
「戸」・「竈」・
「中霤」・「門」・「行」)
であると考えられるのです。

中霤は
土地神の神格が色濃い一方で、
五行神の色合いも強く、
中霤と土公神は
複雑かつ内的な関連性があり、
土公神は
土地神の性格だけでなく、
星神の性格も持っていて、
実際に
土公は
古代の天文記録や星経の中においても
星の名称として散見され、

「営造及び稼穡起土の官」

という星神とみなされているのです。

余欣
(中古時代的礼儀、宗教与制度の研究者)は
敦煌文献における
土公に関わる記録を分析して、
土公神と土地神との区別であることを
以下のように指摘した。

「土公神は星神であるが、
土の中において運行し、
その神の来源、神格としての特色、
そして出遊して動くその方法など、
すべての点で
太歳とよく似ているのです

つまり土公神は
土地神の神格を持ちながら、
星神の神格を持つことが
明らかになっているのです。


〜中国古代における土公信仰の由来について 
張 麗山 参考



【久那土と猿田彦】


久那土神は宿神であり、
道祖神となり、猿田彦大神と
習合しています。

畢宿であった猿田彦は
伊勢の海、アザカで
三つの泡玉を海の中で吐き出して、
狭田に鎮まります。

アザカ(阿射加、阿佐介アサケ)で
本来の田の神に戻ります。
つまり、
土用三郎となるのです。


阿は海人、佐、射、
狭は稲の古語、或いは神の稲。

別名、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀。


【東国三社】

東国三社(とうごくさんしゃ)
関東地方にある
鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の総称。

三社はいずれも
関東地方東部の利根川下流域に
鎮座する神社である。
古代、この付近には
「香取海(かとりのうみ)」という
内海が広がっていた。
これら三社の鎮座位置は
その入り口にあたり、
うち鹿島社・香取社は
大和朝廷の東国開拓の拠点として
機能したと推測される。

また、三社はいずれも
『古事記』『日本書紀』における
葦原中国平定に関する神を祀っている。

うち
息栖社主祭神・
岐神(クナト、久那土)は、
記紀に記載はないが
東国に導いたと伝えられる神であり、
同社では天鳥船神を配祀する。

〜wik参考

鹿嶋は武甕槌、
香取は経津主、
息栖は久那土、

これは武甕槌が水局、
経津主が火局の三合で、
二つの三合を合わせる
六合は
六角形で
真ん中は『土』、
つまり
久那土になるんです。
これが
『三合の理』ですね。


【三合の理】


生・旺・墓の三態を
具備しなければ、
万物は
生々流転、輪廻転生を
行い得ない。

これが三合の理である。




ものごとはすべて、
始まりがなければ
壮んにならず、
壮んになることのうちに
終りが兆し、
終りなくしては
何事も始まらないのである。


三合の理は、
季節の推移のなかに認めることができるが、
さらにひとつの季節を超えて、
三つの季節にわたっても考えられている。

*三合が二つ重なると
見かけは籠目(六芒星)の図形となり、
六合(四方と天と地の六つの方向)、
つまりクニを意味する言葉となり、
図形の中心の六角形は
土気であり、死と再生を意味します。




五行の中心の土気と
家宅の中心(竈門)に集まる
祖霊、
習合しやすい状況とも言えますね。




『纏向の祭祀儀礼とチワン族』
〜倭人の源流と蛙と卑弥呼の葬送

カエルのこしを担いで練り歩く、旧暦の正月1日の夜明けになると、チワン族人々は銅鼓を叩きながら、一団となって水田にカエルを探しに行きます。

真っ先に見つけた人がその年のカエル祭りのリーダーになり、そのカエルは石棺に閉じ込められ、飾りのついたこしに乗せられ、村に運ばれます。

一日から月末まで、昼間、子どもたちはカエルを乗せたこしを担いで村を練り歩き、各戸に祝福を届け、夜になると、カエル亭でお香を焚いたり、カエルの歌を歌いながら、カエルのお通夜をします。

25日後、よい時間を選んで、こしをカエルの墓まで担いで行き、昨年にカエルを埋葬したお棺を開き、カエルの骨が金色であると今年は豊作だが、濃い灰色だと作柄が悪いことを示しているのです。

その場合には、人々はお香を焚いて災いを除き、福が天から下ってくることを祈ります。

その後に今年のカエルの埋葬式が行われ、人々は老若男女問わず銅鼓を叩いたりチャルメラを吹いたりしながら、たいまつを持って火の龍のように村中を回ります。
〜広西チワン族自治区河池市 
神聖なる銅鼓の音とカエルを崇める人々
参考

https://www.facebook.com/100008023930727/posts/3238741423069957/?d=n

*朝鮮半島の竈王(チュワン)も同じ土公神かもしれません。

*魏志倭人伝で倭国を南方の国としているのは、倭もイ族と同じ種族と考えていたため、呉人のいた中国南方の沿海部に近いと考えられていたため。

『纏向祭祀の意義』
〜縄文から続く人々の心

纏向の祭祀は記紀では鴨氏になっています
土鴨(とおう)は青蛙の事で、纏向遺跡では祭祀土坑で蛙の骨が出土しています。

古代中国では中国本土の海岸沿岸部の少数民族を倭人としていて、日本もその倭人の一部と見ていたようです。

チワン族などの習俗が似通うだけでなく、縄文晩期に既に生まれていた蛙や水性動物の多産に、農耕儀礼が重なり、土を再生の根源とする信仰は、呪術的な土器の生産だけでなく、亡くなった人の葬送(土中への埋葬)へと繋がり、社会階層化が進むにつれて、やがて弥生時代に大陸の道教や神仙思想がより鮮明に伝わることにより、儀礼も体系化され、やがて纏向は国を形成していく、古墳時代を迎えたのだと思います。

そして土は土公神、土地神、国土の神、つまり竈門に集まる祖霊と位置づけられ、家宅の神となり、中国では鬼神として扱われていたものを魏志倭人伝では、卑弥呼は鬼道で祭祀している解釈されたのです。

つまり、縄文晩期に稲作の伝播と一緒伝わった月信仰や土公神的(蛙信仰)な信仰が、卑弥呼の時代まで残っていて、やがて道教の星神(天文、暦、占い)や農耕、陰陽五行、銅鏡に見る神仙思想から土公神や水神として認識され、やがて日神へと変貌し、さらに儒仏の伝来により、祖神が成り立ち、神話が形成され、国の概念を作る思想の中核となっていったのです。

『鴨氏は土鴨(青蛙)』
〜縄文晩期に存在した月信仰

・・・さらに古い文献、例えば『山海経』によれば、月の信仰は非常に古い時代からのことであって、中国古代の太陽(三足烏)信仰の一族は月信仰の一族から分かれてできたものである。
言い換えれば、古代中国では先に月信仰が出現し、その後に太陽信仰が出現したものであって、このことは十九世紀末ドイツの人類学者の理論にも明らかに符合する。 

ドイツの民族学者レオ・フロベニウスの
理論によれば、

『狩猟及び低級農耕社会においては
生と死への関心は月信仰として存在した』

月信仰は太陽信仰に先行したものである。

この仮説は、かつて、中亜古代社会の実情から実証された。

中国において月信仰は太陽信仰よりも早く、太陽信仰は月信仰からわかれたという事実もこの理論を一歩推し進めるものである。〜

参考文献
蛙文化の発生その伝播論的一試論劉福徳

『詩經』靑蠅攷
― 蠅字の意味するもの ―
遠藤 寛朗

レオ ・フロベニウス(LeoFrobenius)1873 - 1938 ドイツの民族学者。
ベルリン生まれ。
アフリカを専門領域とするドイツの民族学者で、1904年より31年間に12回アフリカ各地を調査。
著書に「アフリカ文化史」(’33年)や「太陽神の時代」(’04年)などがある。

https://www.facebook.com/100008023930727/posts/3244733619137404/?d=n

文・蛯原春比古さまに
帰属します
マネは一切できません!