自分の感受性くらい、自分で守れ | その先、ヒカリ♥

その先、ヒカリ♥

拝読感謝♥
開運行動があなたを変える!
黄泉の国、記紀を正しく知る事は、日本人として非常に大事です。
漢方養生指導士
ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!




 

渡部正仙さまから
この言葉を
教えていただきました

ありがとうございます






画像は
ある方の投稿に載っていた

茨木のり子さんの著書
『自分の感受性ぐらい』

からの引用です。




今の時代と言うのは、
とかく
コンプライアンスやハラスメントが
ピックアップされる時代で、

何事も
人や環境、時代のせいだと、
決めつける事に

汲々と
プログラミングされているものが
ある様に思えてなりません。

ただでさえ
人間と言うのは

自分が一番、自分が正しいと
考える生き物で、

原因は
外部(他者)にあると投影し
ドラマを作り上げて行くもので、

内面の深い気付き、
心の平和を嫌う
狡猾な自我(エゴ)の思惑に
それは合致するものです。

失敗や人生の蹉跌から、
地べたを這いずり回る様な
苦労や辛酸をなめ、

形やケースを変えても
立ち直り
頭を持ち上げてくる人
と言うのは、

茨木のり子さんの言葉の様に

人生とは全て
自分発信、自己責任であると
深い部分より
気付いている場合が多い様に
思えるものです。

勿論、事象の上では

100%自分が正しいなんて事は
往々にしてあり、
泣き寝入りが美徳などと
言ってるわけではありません。


でも、総じて
何事にも
正義やジャッジメントを持ち込む人は、

繰り返し
上塗りさせられる様な
人間関係のトラブルに見舞われ、
人生に落ち着きを得る事が出来ず、

病気やケガ、トラブルに
見舞われる事も
また多い様にお見受けできるものです。

破壊と再生の
サイクル止む事の無い地球。

それはよく知られた
諸行無常と云う
消滅変化の因果法則を
表した言葉にも同様で、
完璧に行かぬ事ばかりが多いのは
当然で、

ただでさえ、
自らの快適さや怠惰に
あぐらをかきたい自我は、

感情に噛みつかれるままに

他者に原因があると
攻撃の矛先を向けて行くもので
(苛む様に自分自身にも)

当然、思考として
繰り返し蓄積されたものは

その人の世界に
押し出されて行くのであり、

対立や緊張、
些細な口喧嘩から
大きな争いの原因にさえ
成り得るものです。

ドタバタと感情のままに生きるのも、

ある面
『感情の生き物人間』らしくて
良いのかも知れませんが(笑)

でも、
怒りや葛藤を生きる
エネルギーに転化出来るのは
若い内だけで(笑)

年齢と共に、
そんな事に費やしている時間が
勿体なく思う様になり、

自らが発した事を訂正したり、
取り繕ったり、詫びたり、
逆に謝罪されたりと、

そんな事に
身体や時間を取られるのは
真っ平ごめんと、

煩わしいと感じる様になるのも

気付きの進化
というものかも知れません。

原因に気付き、
通り過ぎる術を学ぶと云う事が

心平和にして
人生を楽しむ上で
大切な事は言うまでもなく
 
『自分の感受性ぐらい』にある文章は、

安易や怠惰に
ただでさえ流れやすい人間の
退路を断つかの様な

厳しくも慈しみのある言葉
として響くものです。



合掌



この言葉はすごいな
と思いました

特に
日本人は
「こころの病」に
罹る人も多くなり

そのきっかけは
他人や親兄弟から
受けたものであり

若い時は
その処理方法がわからず

引きこもったり
誰かに
八つ当たりして
解消しているものの

それが
いい歳になっても

その調子で
人のせいにするので

誰も助ける事ができず

結局、自力で
気づかない限り
手出しができない状態に
なってしまう

下手すれば
「死ななきゃ治らない」
までいってしまうのだ


「こころの病」は

人の言葉も
受け付けないけど

茨木のり子さんのような
本を読むことすらにも
拒否反応を起こす

もし、自分が
変わりたいという
思いが少しでもあるなら

いろいろな本を読み
自分の、今のこころに
落とし込んで
どうなのか、と、問いただす

外へ飛び出し
独り暮らしして
自分だけの生活をする

その事により
早く立ち直りが可能となる

しかし、それが
できないのだ
「こころの病」は

家族にしてみれば
コロコロ変わる天気のように
屁理屈ばかりで
苦しめられる

屁理屈を論破する
「師」が
現実、居ないのだ

カウンセリングも
精神科の医師も
精神薬を与え
抑え込もうとする

薬がないと
コントロールできない

誰かのせい
堂々巡り
がんじがらめ

病気のせい
堂々巡り
がんじがらめ



わたしは、そう思うと

父方祖母が
3歳から、わたしを
教育してくださったのは
運が良かったと思います

祖母は
小さなわたしに

「花壇の花になるな
野の花で良い」

現実で生きるという事は
「あらゆる傷を受ける」
それでも
根っこがしっかりと
大地を掴んでいるならば
雪が降ろうと
干ばつとなろうと
生きていけるのだと


この一言で
あとの人生の苦しみを
乗り越える事が
できたのだから

「つ」のつく年齢の
子どもの頃に愛情を注ぐ
正しい躾と
日常生活の善し悪しを
教える事は
非常に大事だと思いました

まあ
わたしには
子どもはおりませんが

居たなら

たくさん教えたでしょうね

それがこの世での
「悔い」でしょうか

こうして、この歳になっても
勉強することは
たくさんあるし
まだまだ知らない事が
あり過ぎます

渡部さま
ありがとうございます