土公神さまについて | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!

 

 

 

蛯原さまから

シェアさせて頂きました

ありがとうございます

 



興味深い!

 

 

『土公神と歳神(大年神)は習合体』その一

〜卑弥呼から続く鬼道と

中世の方位神

 

☆大年神は

他に多くの神の父及び祖父とされる。

 

1.伊怒比売(いのひめ、

神活須毘神(かむいくすび)の娘)

との間の子

 

2.大国御魂神(おほくにみたま)

国土の神霊の意。(国魂、大国主)

 

3.韓神(から) 

百済からの渡来氏族が信仰した神。(園韓神社)

 

*『大倭神社註進状』では、

園神社は大物主神、

韓神社は大己貴命・少彦名命を祀る

とするとともに、

これらの神は

素戔嗚尊の子孫であり

疫から守る神であるとしている。

 

4.曾富理神(そふり) 

西田長男は、

曽富理神が祀られたのは、

平安京に遷都の行われた

延暦13年10月20日以後のこととして、

古事記の成立は平安遷都以後とした。

また、新羅からの渡来神ともされる。

 

5.白日神(しらひ) 

明るい太陽の神。

 

6.聖神(ひじり) 

日を知る農耕神。

 

7.香用比売(かぐよひめ)との間の子

大香山戸臣神(おほかぐやまとみ)

 

8.御年神(みとし)

天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)

との間の子

 

9.奥津日子神(おきつひこ) 

熾の神。

 

10.奥津比売命(おきつひめ) 

同上。

別名 大戸比売神(おほへひめ)。

竈神(かまど)の女神。

 

11.大山咋神(おほやまくひ) 

別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。

比叡山の山の神で

日吉大社・松尾大社の祭神。

 

12.庭津日神(にはつひ) 

庭を照らす日の意。屋敷の神。

 

13.阿須波神(あすは) 

屋敷の神。

 

14.波比岐神(はひき、はばき、箒)

 

15.香山戸臣神(かぐやまとみ)

 

16.羽山戸神(はやまと) 

山の麓を司る神。

 

17.庭高津日神(にはたかつひ) 

庭を照らす日の意。屋敷の神。

 

18.大土神(おほつち) 

別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)。

土の神。

 

19.羽山戸神と大気都比売神との間の子

若山咋神(わかやまくい) 

山の神。

 

20.若年神(わかとし)

 

21.若狭那売神(わかさなめ) 

田植えをする早乙女の意。

 

22.弥豆麻岐神(みづまき) 

水撒き・灌漑の神。

 

23.夏高津日神(なつたかのひ) 

別名 夏之売神(なつのめ)。

夏の高く照る日の神の意。

「夏」の文字は

記紀の神話全体で季節の名としては現れず、

この神の名として現れるのみである。

 

24.秋毘売神(あきびめ) 

秋の女神。

久久年神(くくとし) 

稲の茎が伸びることの意。

 

25.久久紀若室葛根神

(くくきわかむろつなね) 

別名 若室葛根(わかむろつなね)。

新しい室を建てて葛の綱で結ぶの意。

新嘗祭のための屋舎を

建てることと考えられる。

 

 

 

毎年正月に各家にやってくる

来訪神である。

 

 

地方によっては

お歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、

大年神(大歳神)、年殿、トシドン、

年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。

 

現在でも残る正月の飾り物は、

元々年神を迎えるためのものである。


門松は

年神が来訪するための依代であり、

鏡餅は

年神への供え物であった。


各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、

そこに年神への供え物を供えた。

 

*トシドンは鹿児島県薩摩川内市の下甑島に

伝わる年神である。

 

また陰陽家では、

娑伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)の娘、

女神・頗梨采女(はりさいじょ)のことを

年神といい、

元旦に来訪する神霊という。

のちに、これに先祖霊が加えられ、習合した。


頗梨采女は牛頭天王の后。

 

また一方で、年神は

家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として

祀られている地方もある。


農作を守護する神と家を守護する祖霊が

同一視されたため、

また、田の神も祖霊も

山から降りてくるとされていたためである。

 

柳田國男は、


一年を守護する神、農作を守護する田の神、

家を守護する祖霊の3つを

一つの神として信仰した

素朴な民間神が

年神であるとしている。

 

葛木御歳神社 (奈良県御所市、

全国にある御歳神社・大歳神社の総本社)

 

向日神社 (京都府向日市)

 

大歳神社 (京都府京都市西京区)

 

大歳御祖神社(静岡県静岡市葵区)

 

飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)

 

朝熊神社 (三重県伊勢市)

等全国に多数。 


また、特に西日本では

田の畔の祠などに

大歳神社・大歳様として多く祀られている。

 

大和神社(おおやまとじんじゃ)右殿でも、

中殿に日本大国魂大神、

左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。

ただし、

日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の

祭神については

文献によって諸説あり、

『神社要録』では左殿を須沼比神。

『社家説』『元要記』では

左殿を三輪大明神(大物主)

・右殿を天照大神。

『元要記一説』では

右殿を稲倉魂神(ウカノミタマ)としている。

 

参考文献

古事記岩波文庫、

第30版,1980年、54-55頁「大年神の神裔」より。

 

上田正昭「神楽の命脈」

(『日本の古典芸能』 第一巻「神楽」、平凡社、1968年)。

 

国安洋「平安時代の「遊び」:

「古今和歌集」をめぐって」『横浜国立大学人文紀要 第一類 哲学・社会科学』第35巻、横浜国立大学、1989年10月、 129-140頁。

 

西田長男「曽富理神:古事記の成立をめぐる疑惑 (PDF) 」 『宗教研究』第39巻第1号、日本宗教学会、1965年6月、 1-40頁。

 

上田正昭「神楽の命脈」(『日本の古典芸能』 第一巻「神楽」、平凡社、1968年)。蘇志摩利参照。

 

三井寺「いのりの原景」

 

村上健司編著 『妖怪事典』毎日新聞社、

2000年、240頁。

 

 

 

 

ナマハゲやマメハギ、トシドンなどの

仮面の来訪神は、

土公であり、星神でもあり、

箒星の長髄彦や荒脛巾と同じなんですよ。

 

 

 

 

 

『土公神と歳神(大年神)は習合体』そのニ

〜気比神宮の土公


 


 

当神宮境内地全域11,253坪。

東北部にある「土公」は

当神宮鎮座にかかる聖地である。


社殿家屋建立の時、


「この土砂を其の地に撒けば

あしき神の崇りなし」と

信ぜられる伝説と神秘に富む神代の述霊、

古へ最澄、空海もここで大行を修した。

 

又、菅原道真公献木の「菅公の梅」が

近年迄あったが昭和の大造営により

四季桜とともに氣比の杜に移植した。


年中行事「御砂持行事」の起源をなす

一遍上人が参道修理を物語る

蓮池の不思議があり、「多宝梅」がある。

又、延元元年当神宮宮司氣比氏治が

御醍醐天皇を奉じ旗挙げした一名

「旗掲の松」の旧根が

朱塗中島居前に残っており

その二代目が既に成木として

雄々しく育っている。

 

氣比の社は

創祀二千有余年の歴史に培われた

日本有数の古社であり元の宮幣大社である。


敦賀の地は

往古より良質の水が豊富に湧き出ており

中でも当神宮の神域はその水脈の中心である。


故に江戸時代初期には

日本庭園歴覧にも記された名池が誕生し、

明治四十二年東宮殿下(大正天皇)御参拝の折

お茶の水に用いられた一井が

その由来を物語っている。

昭和の大造営につづき

同池に大規模の神水苑築造が成され、

各方面より拝観と神水を求めて

訪れる崇教者は後を絶たない。

 

【氣比宮古殿地の事】

氣比神宮境内東北部に位置し

当神宮鎮座にかかる聖地として

古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と

社家文書に云い伝えられているが、

嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ

更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は

氣比之大神降臨の地であり、

傳教大師・弘法大師が

ここに祭壇を設け

七日七夜の大業を修した所とも伝えられる。

土公は

陰陽道の土公神の異称で 

春は竃に夏は門に秋は井戸に冬は庭にあり

とされ、

其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが

此の土砂を其の地に撒けば

悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた。

 

戦後境内地が

都市計画法に基づき学校用地として

譲渡の已む無きに至ったが

土公と参道は

かろうじてそのままの形で残された。

大宝2年(702)造営以前の

氣比宮は

此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた。

此の聖域を通して

氣比之大神の宏大無辺の御神徳を

戴くことが出来るよう

此のたび篤信者の奉賛により

遥拝設備が立派に完成されるに

至った次第である。


〜気比神宮社頭掲示板より

 

『気比宮社記』によれば、

当初の祭神は

伊奢沙別命(去来紗別命)1柱であったが、

大宝2年(702年)の社殿造営にあたって

仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、

周囲に日本武尊ほか4柱を配祀したとする。

 

上記の通り主祭神は

イザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、

氣比神宮特有の神である。

神名「イザサワケ」のうち

「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、

「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。

そのほかの名称として、

史書では「笥飯」「気比」「御食津」と

記されるほか、

『気比宮社記』では

「保食神」とも記される。

これらは、いずれも祭神が

食物神としての性格を持つことを

指す名称であり、

敦賀が海産物朝貢地であったことを

反映するといわれる。

このことから、

神宮の祭神は

上古より当地で祀られた在地神、

特に海人族によって祀られた海神であると

解されている。


一方、『日本書紀』に

新羅王子の天日槍の神宝として見える

「胆狭浅大刀(いささのたち)」との

関連性の指摘があり、

イザサワケを天日槍にあてて

新羅由来と見る説もある。

〜wik参考

 

*イザ(去来)は往来するという意味ですね。

 

【702年の出来事】

 

○大宝律を全国に頒布

 

○度器、量器を初めて全国に頒布

文武天皇が、日本で初めて

全国的に統一された

計量単位(度量衡)を定める。

 

○薩摩の隼人征討

 

○粟田真人、山上憶良を遣唐使に派遣

文武天皇によって遣唐使が再開され、

粟田真人を派遣して唐との国交を回復した。

 

○半布里戸籍が作成される

 

 

 

 

『土公神と歳神(大年神)は習合体』その三

〜気比大神

(伊奢沙別命・御食津大神・去来紗別命)は

春秋去来の神

 

【田の神(たのかみ)】

日本の農耕民の間で、稲作の豊凶を見守り、

あるいは、稲作の豊穣をもたらすと

信じられてきた神である。

作神、農神、百姓神、野神と

呼ばれることもある。

 

穀霊神・水神・守護神の諸神の性格も

併せもつが、

とくに山の神信仰や祖霊信仰との

深い関連で知られる農耕神である。

 

古代より日本では

農耕神をまつる習俗のあったことが

知られており、

8世紀成立の『日本書紀』や『古事記』にも

稲霊(いなだま)

すなわち「倉稲魂」(うかのみたま)、

「豊受姫神」(とようけびめのかみ)、

穀霊神の大歳神(おおとしのかみ)の名が

記載されている。

 

このうち、豊受姫神は

10世紀初頭成立の『延喜式』

「大殿祭祝詞」に、

稲霊であり、

俗にウカノミタマ(宇賀能美多麻)と

称するという註があり、

このことについて

柳田國男は、

稲の霊を祭った巫女が

神と融合して祭られるようになり、

それゆえ農神は

女神と考えられるようになったのではないか

としている。

 

民間では、こうした農耕神を

一般に田の神と呼称してきたが、

東北地方では「農神」(のうがみ)、

甲信地方(山梨県・長野県)では

「作神」(さくがみ)、

近畿地方では「作り神」、

但馬(兵庫県)や因幡(鳥取県)では

「亥(い)の神」、

中国・四国地方では

「サンバイ(様)」

また瀬戸内海沿岸では「地神」などとも

別称されてきた。

また、起源の異なる他の信仰と結びついて、

東日本ではえびす、

西日本では大黒を

それぞれ田の神と考える地域が多く、

さらに土地の神(地神)や稲荷神と

同一視されることもあり、

その一方で漁業神や福徳神とは

明確に区別される神である。

 

【春秋去来の伝承】

山の神信仰は、古くより、

狩猟や焼畑耕作、炭焼、

杣(木材の伐採)や木挽(製材)、

木地師(木器製作)、鉱山関係者など、

おもに山で暮らす人々によって、

それぞれの生業に応じた

独特の信仰や宗教的な行為が

形成され伝承されてきた。

 

いっぽう、稲作農耕民の間には

山の神が春の稲作開始時期になると

家や里へ下って田の神となり、

田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、

稲作の順調な推移を助けて

豊作をもたらすとする信仰があった。

これを、

『田の神・山の神の春秋去来の伝承』といい、

全国各地に広くみられる。

ただし、去来する神が

山の神や田の神として

明確に特定されないケースも多い。

このように一つの神が

季節のうつろいとともに所在を変え、

神格を融通する信仰はめずらしい。

 

たとえば、

新潟県村上市中継(旧、山北町)の

民俗事例では、

3月16日に

田の神が天竺(インド)よりやって来て

家に降りるとされる。

つづいて4月16日には

家から田へと出て行き、

10月16日には

再度家に戻るといわれ、 

これらの日には

ぼた餅をえびす(恵比寿)に供えて送り出し、

出迎えの儀礼をおこない、

11月16日には

田の神は再び天竺に還るとされた。

すなわち、田の神は、

一年かけて

天竺・家・田を循環するわけであり、

この動きは、

ほぼ一年の稲作過程と重なり合うのである。

 

このように、去来伝承には

田の神が家を媒介として去来する

という伝承も多く、

それには、

 

○田から家へ帰る

○家から田へ出て行く

○山から家へ降りてくる

○家から山へ帰る

○家と田とを去来する

○去来せず留守神となる

 

などのパターンがあり、

上述の村上市の事例のように、

去来する先として

天竺などの異空間が加わることがある。

 

奥能登(石川県)に

今日まで伝わる民俗行事「アエノコト」

(国の重要無形民俗文化財)も、

秋の収穫後(12月5日、もと11月5日)に、

田から家へ田の神を迎えて

饗応(=アエ)をする行事である。

かつては、

春先(2月9日、もと1月9日)に

家から田へ田の神を送り出す行事もあった。

「アエノコト」では、

種籾俵が神体としてまつられる。

 

【かかし、屋敷神、祖霊神】


大国主の国づくりの説話に登場する

「久延毘古」(クエビコ)は、

かかしが神格化されたものであるが、

これもまた

田の神(農耕神)であり、地神である。


かかしはその形状から

神の依代とされ、

地方によっては山の神信仰と結びつき、

収獲祭や小正月行事のおりに 

「かかしあげ」の祭礼をともなうことがある。

また、かかしそのものを

「田の神」と呼称する地域もある。

なお、かかしは

「かがし」を原義とする言葉と考えられ、

これは稲作に害をおよぼす鳥獣が

嫌悪する臭いをかがせ、

それによって鳥獣を追い払う目的で

つくられたという。

 

さらに、春秋去来の伝承は

屋敷神の成立に深いかかわりをもっている

とみられる。

屋敷神の成立自体は

比較的新しいが

(家宅神は古くから成立している)

神格としては農耕神・祖霊神との関係が

強いとされ、

特に祖霊信仰(鬼道、竈門神)との

深い関連が指摘される。

 

日本では、古来、

死んだ祖先の魂は

山に住む?と考えられてきたため、

その信仰を基底として、

屋敷近くの山林に

祖先をまつる祭場を設けたのが

屋敷神の端緒ではないかと

説明されることが多い。

 

古代にあっては一般に、

神霊は一箇所に留まらず、

特定の時期に特定の場所に来臨し、

祭りを受けたのちは

再び還るものと信じられていた。


また、現在ならば

「姓」と称されるものも、

かつては

「同苗(どうみょう)」や

「苗字(みょうじ)という用法があったように、

東北地方の民俗例でみられる

播種の際の戸別の「苗印(なえじるし)」は、

田の神の依り代であると同時に

家ごとに異なり、

その点ではまさしく

祖霊の神、家々の神であった。


ー屋敷神の祭祀の時期も、

一般に春と秋に集中し、

後述するように

農耕神(田の神)のそれと重なっている。

その一方で農耕神もまた

祖霊信仰のなかで

重要な位置を占めるようになった。

こうして

屋敷神・農耕神・祖霊神の三神は、

穀霊神(年神)を中心に、

互いに密接なかかわりをもつこととなった

のである。

 

【年神様・年頭の予祝・左義長】

家中の掛軸をかけ、机をおいて、

その上に酒食を供えて

年神(大歳神)をまつることは

今日でも広くおこなわれている。

ナラセ餅(餅花)の小枝を

供えるところもある。

 

予祝行事としては、

東京都板橋区にのこる田遊びや

和歌山県かつらぎ町花園の

御田舞(ともに重要無形民俗文化財)が、

年頭や小正月におこなわれるものとしては

古い形態をよくとどめており、

今日では4月におこなわれる

宮城県仙台市秋保の

田植踊(重要無形民俗文化財)も

元来は厳寒の小正月期におこなわれていた

予祝芸能である。

秋田県横手市吉田の「雪中田植え」や

青森県八戸市の「えんぶり」をはじめとする

庭田植の行事、

さらに、田の神そのものではないが、

それと深くかかわるものとしては、

東日本に広く伝承されている

小正月の鳥追い行事、

かまくらなど水神の祭礼、

どんど焼きをはじめとする左義長の行事、

また、

ナマハゲ・サイノカミ・トシドン・

アマハゲなど

日本各地に広がるトシノカミの訪問も、

予祝の性格をもつ民俗行事である。

 

『田植前後の祭礼』

 

【サオリ】

サオリとは、

田植の開始時に田の神を迎える祭りで、

家の床の間などを祭壇とし、

苗代から苗を3把もってきて供える

形態をとることが多い。

地方によっては、

サビラキ・サイケ・ワサウエ・

サンバイ降しなどともいう。

 

【サナブリ】

田植の終わりに田の神を送る祭りを

サナブリといい、

サノボリ、シロミテなどの別称がある。

苗を田からもってきて

荒神やカマド神などに

酒や食事とともに供える神事をおこない、

早乙女はじめ田植に参加した人々を

招いて祝宴をもよおした地方が多い。

太平洋戦争後は

家ごとの祭りになっているが、

それ以前は

地主や親方衆の家でおこなわれ、

各家庭ではおこなわれなかった。

家ごとでサナブリが

おこなわれるようになって以後、

集落全体あるいは市町村単位、

県単位で

大サナブリ(サノボリ)大会を開き、

互いに郷土芸能を披露し合う行事が

各地で生まれたが、

農村における共同体意識が

急速に失われつつある今日では、

大サナブリ、各戸別のサナブリともに

顧みられなくなってきているのが

現状である。

 

参考文献

 

青山幹雄 『宮崎の田の神像』鉱脈社〈鉱脈叢書〉

 

池土廣正「霊と神の種類とあらわれ方9 農と神」 『日本民俗学大系8 信仰と民俗(2)』平凡社

 

井之口章次「農耕年中行事3 田の神と山の神」 『日本民俗学大系7 生活と民俗(2)』平凡社

 

大島暁雄、佐藤良博、宮田登 『図説 民俗探訪事典』山川出版社

 

直江廣治「田の神と稲荷」 『講座 日本の民俗宗教3』弘文堂

 

湯川洋司 著「山の神や田の神はどんな神様か」、新谷尚紀 編 『民俗学がわかる事典』日本実業出版社

 

柳田國男(監修) 著、財団法人民俗学研究所 編 『民俗学辞典』東京堂出版

 

大間知篤三・川端豊彦・瀬川清子・三谷栄一・大森志郎・大島建彦(編) 編 『民俗の事典』岩崎美術社

 

 

 

 

亡くなった人の魂は

山に住むのではなく、

山へ運ばれて(海にも運ばれる)、

天地の涯や天海の涯から

天の川を遡って天上に至るのです。

また、

不慮の事故や不運な死となった魂は

土中に潜って禍いをもたらすと

信じられていたのです。

 

気比神宮の隣には天筒山があり、

ここが地上と天を繋ぐ

筒(坐、星穴)としていたのでしょう。

気比大神

土公から『春秋去来の神』へと移行し、

北陸道から東北にかけて

伝承されている

年神様・年頭の予祝・左義長や来訪神になる

原点だったのです。

 

*去来紗(イザサ)とは

往来する稲(サ)の神の事です。

*季節によって移動するのは、

まさに土公神なんですよ。

 

*ヤツカハギ、アラハバキ、

ナガスネ彦などは

土蜘蛛と呼ばれていますが、

これらは箒星(ハバキ)であり、

土中を移動する悪い土公神でもあるんです。

その名前の名残りが

ナマハゲ、アマメハギ、スネカ、

カセドリ(かせ星はオリオン座)なんですよ。

 

 

 

 

文、蛯原春比古さまに

帰属します

マネはできません



ありがとうございます





土公神さまのことが

詳しく分かりました