出羽三山神社に参拝✡ スターゲートOPEN!その1 | 最強運貯めガイドブック♥古事記、黄泉の国を知る事が大事だよ♥カミコトは記紀の歴史の真実を知る事

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黄泉の国を知ることは、あなたを早く変容させます!
記紀を正しく知る事は、日本人として非常に大事です。
拝読感謝❤
漢方養生指導士で
ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!
伊勢神宮と高野山の会員です。
主人のご先祖様は、羽黒山山伏です。

 

21日

山形道

奥羽山脈を越えて

 

 

寒河江SA

 

 

紅葉が始まっていました

 

 

紅葉ではないんです

ナラという樹木に虫がつき

枯れた状態なんです

いわゆる、ナラ枯れ

 

 

まもなく、月山インターで見える

右から、月山、姥ヶ岳、湯殿山

 

 

右から、姥ヶ岳、湯殿山

 

 

右から、月山、姥ヶ岳

 

 

月山

すっかり八合目より上は

雲の中ですね

 

 

 

湯殿山有料道路入り口あたりから

雨降り

 

 

 

 

月山インター下車

国道を走り

ふたたび、湯殿山インターから入り

庄内あさひで下車

 

日本海からの湿った雲が

どんどん内陸に入り込む

 

 

庄内平野は、晴れているようです

 

 

 

そば畑

 

 

 

見えてきました!

 

 

月山は見えず

 

 

 

 

羽黒山有料道路に入ります

 

月山は、ここから

約1時間の山道

急坂があったり

すれ違いが難しい場所あり

くれぐれも

スピードは出さないように

 

クマなど、野生動物も

轢かないように

 

 

 

 

ギンヒキ

 

 

 

 

エゾトリカブト

 

 

 

 

開祖 蜂子皇子さまの墓所

 

 

 

 

まずは、ご挨拶してまいります

 

 

 

 

天宥社

 

 天宥社は

羽黒山中興の祖と言われる

天宥法印を祀った神社です。

天宥法印は

寛永7年(1630)、25歳で

第50代羽黒山別当に就任、

 

当時出羽三山は

戦国時代の争乱や兵火により衰微し、

各登山口が

別個の勢力として統一制を欠き

往時の勢いはありませんでした。

 

天宥は

幕府の実力者である天海大僧正が

天台宗だった為、

真言宗だった出羽三山全山を

天台宗に改宗し

幕府の庇護を得ようと画策、

寛永18年(1641)には

天海僧正に弟子入りし、

天海の「天」の字を賜り

宥誉から「天宥」に改称しています。

 

天宥は

布教制度を確立し、

日光東照宮(栃木県日光市:徳川家康の霊廟、

創建には天海大僧正が

大きく関わっています。)の

分霊を勧請し

東照社を創建

さらに堂宇の再建と改修、

参道の石段の整備た石灯籠の設置、

須賀の滝の造園など

数々の実績を残しています。

又、新田開発や植林など

産業にも力を入れ

羽黒山の発展に尽力を尽くしました。

しかし、半ば強行に

改革を進めていた事もあり、

寛文8年(1668年)、

反対派からの工作などで

幕府の裁定で敗訴、

さらに外護者だった庄内藩主酒井氏とも

対立した為に

新島(東京都新島村)に流され7年後、

新島で82歳で入寂しています

(天宥が出羽三山から排斥後は

記録が無く長く不詳でしたが、

昭和に入りようやく

新島に流された事が判明しています。

新島では

島民に学問などを教えていたそうで

文化的発展に尽力しています)。

 

現在の社殿は

平成4年(1992)に

建てられたものですが

古くから崇敬され

神仏分離令前は

御霊社に祀られていたそうです。

社殿の前には

新島より寄進された

石灯籠が立っています。

 

と、あります。

 

 

 

 

 

 

1689年、6月5日(新暦7月21日)、

2人は出羽三山の羽黒権現に参拝。

明治時代の神仏分離令以後は

仏教色が廃されて出羽神社となり、

社殿は出羽神社の他、

同じく神社となった

月山神社、湯殿山神社の祭神を

一緒に祀る

出羽三山三神合祭殿となっています

(ただし、仁王門は

随身門、羽黒山五重塔は

千憑社として

神仏習合の名残が

随所に残っています)。

 

「奥の細道」によると

 

「 五日、権現に詣。

当山開闢能除大師は、

いづれの代の人と云事を知らず。

延喜式に羽州里山の神社と有。

書写、黒の字を里山となせるにや。

羽州黒山を中略して、

羽黒山と云にや。

出羽といへるは、

鳥の毛羽を此国の貢に献ると

風土記に侍とやらん。

月山、湯殿を合て三山とす。

当寺武江東叡に属して、

天台止観の月明らかに、

円頓融通の法の灯かゝげそひて、

僧坊棟をならべ、

修験行法を励し、

霊山霊地の験効、人貴且恐る。

繁栄、長にして

めで度御山と謂つべし。」

とあります。

 

 涼しさや 

ほの三か月の 羽黒山

 

6月3日、

暗い夜道を

月明かりだけで参道を登り、

宿所となる

南谷別院(高陽院紫苑寺)に向う最中

とされます。

句の意味は、

出羽三山の羽黒山にかかる

三日月の月明かりは、

神聖で霊気が漂い

身が引き締まる思いだ

といった意味と思われます。

二の坂を登り終えた場所が

発句の地と推定され

明和6年(1769)には

「三日月塚」が建立され、

周囲には複数の石碑と石燈篭が

同じく建立されています。

 

 

と、あります。

 

 

 

 

 

大雷神社、健角身神社、稲荷神社、

大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社

 

 

 

身を清め

 

 

 

さあ、いざ!