緑の歳時記 柳津虚空蔵尊 七不思議 | その先、ヒカリ♥

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ご本堂から向かって左側にある松は、

ご本堂お屋根替えの時に、

一夜にして虚空蔵菩薩様が

曲げたといわれています。

 

元和元年、今より約400年程前、

虚空蔵尊が建立され、

当時は若木だったのか、

一次才に成長して

枝がお堂の屋根をおおい、

傘のようであったので、

村人は「虚空蔵尊の傘松」として珍重し、

地方の名物になりました。

 

幾年かが過ぎて、

お堂のお屋根替えとなった時、

和尚、職人、村人達が心配したのは、

この松の木が邪魔になることでした。

協議が幾日となく続きましたが、

ついに名案はうかばず、

いよいよ明日切られるとなり、

その夜、和尚が眠りにつくと、

夢の中で、仏のお告げを受けました。

 

「あの松は今まで

虚空蔵堂を雨風から守ってきたのだ。

明日までには

屋根替えの邪魔に

ならぬ様にしてやるから、

幾久しく大切にする様に」

と言うのです。

夜明けをまって和尚は、

お堂の前に立ち、松を見ると、

木は幹の中断からよじれ、

お屋根替えの差障りのないように

なっていました。

まさに、 お仏のお告げの通りに

なっていたのです。

 

 

 

葛西公奥方お手植の桜です。

葛西晴信の奥方が

日和山の名木「しだれ桜」の鉢を

ここで割り植えました。

その後伊達家に追われ、

佐沼に落ちていきます。

 

晴天の日でも

葉先からしずくを落とし、

それがさながら奥方を慕う涙か、

はたまた奥方の悔し涙かと

言われています。

現在は枯れてしまい

幹のみとなりましたが、

樹令は400年になります。

 

※源頼朝から地頭に任ぜられる。

伊達氏に滅ぼされるまで

鎌倉時代から、

桃生、牡鹿、本吉地方一帯を

治めていた。
※天正18年、

豊臣秀吉の臣、

木村春貞、蒲生氏の軍に

まず石巻で大敗した葛西晴信は

佐沼城に移り、

力戦甲斐なく自害し、

ここに葛西家は

17世紀約400年にして滅亡した。

 

 

ここにあるものは、

ほとんど絶えてしまっているので

残念ですね

 

 

 

 

 

平成18年に一部焼失し、

現在は炭化した状態に

屋根をかけ保存。

燃えた時は、青光りする炎が

木の中から煙突のようにあがり、

普通の炎とは違っていました。

炭はあらゆる空中の

無機物を吸収する性質をもっており、

炎焼後の今、

神々しさを尚、

増しているように見えます。

 

 

これは放火だったのですが

非常に残念です

 

 

 

 

弘法大師が

黄土山より下山して

此の地に来た時、

「 かかる仙境に水なきは不便なり」と

錫杖をふって経を読んで、

法をねること7日が経ちました。

ある夜杖が地底に徹して、

湧水が天に沖しておさまった時、

昼間にもかかわらず

月影をのぞんで

星のまたたくのがみえました。

大師はこれをみて

「これ、仏尊の興えし水なり」

と言って去って行かれました。

 

現在の井戸は

土砂にうづもれて

その深さは昔の数分の一ですが、

数十年前までは夜、

月を見る事ができ、

その美しさはたとえようがなかったと

いわれています。

 

 

 

 

 

境内に一本の松がありました。

いつの間にやら

幹の間に杉が生えてきて、

それが子を育てる松の姿に

見えました。

今はその松は

枯れてしまいましたが、

子の杉のみ、

亭々として一盛観をそえています。

 

(松が枯れたのは約百年前です)

 

 

 

 

行基菩薩が、

黄土山頂上で秘法を行い

湧き出た水で

大衆の飲料水に指定された

無病息災の水です。

現在でも遠方より

多くの方々が黄金水を

汲みにいらっしゃいます。

この水は、

山門の仁王堂との

深い関わりの物語があります。

 

 

 

今からおよそ250年程前、

千葉某という人がおり、

日頃から虚空蔵尊を

信仰していましたが、

あるとき病気になり、

 病状が日毎に悪化して

死を待つのみとなってしまいました。
 
そんなある夜、夢の中で、

 虚空蔵菩薩が枕辺に立って、

「柳津虚空蔵尊の境内に

二又人参あり。 

これに手持ちの薬草を混ぜ、

黄土山より流れる黄金水を以って、

煮じ飲めば

一夜にしてたちまち治癒す。」 

と、いいました。
 
すぐに人を使わして、

これを用いたところ、

さしもの大病も薄紙をはぐ様に

数日を経て全快したので、

千葉某は、その恩にむくいるため、

本堂前の御霊木のけやきで 

仁王一対を刻んで、

奉納しようと思いたちました。