ユリイカ 2013年10月号  『遊覧しよう』(改訂版) | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

『ユリイカ』2013年10月号の武田百合子特集。

 

 ユリイカの2015年10月号に、西田藍さんが武田百合子『遊覧日記』についてのコラムを載せている。

  西田さんが、当時の自撮りをTwitterで公開されていたので、今日はこれを。


 不勉強で恥ずかしい話だけれど、これを読むまで、僕は武田百合子という人を知らなかった。Wikipediaを見て、ああ、武田泰淳の奥さんだったのか、と知った次第だ。『ひかりごけ』ぐらいは読んでいる。

 そこで初めて、この『遊覧日記』を手に取ったのだけれど、第一章を読みはじめてすぐ、みるみる引き込まれた。

 軽妙洒脱、テンポ良く奔放に筆が走り、市井の何気ない光景を撫でてゆく様子は、たまらなく気持ちがいい。

 文体フェチの僕は、すっかりこの文章に魅了されてしまった。いいなあ、これ。

 

浅草観音温泉の二階の窓ぎわに、立派ではない松の盆栽が二鉢置いてあるのが見える。もう少しで落ちてきそうだ。その並びの硝子窓を開けて、マッサージ嬢らしい人が首すじをのばして五重塔の方の中空を睨み、すぐ閉めた。

 

 くっきりと場面が浮かぶ。少しくたびれたフィルムの、ざらついた映像。何かが起こりそうな、漠然とした不安感。

 漢字とひらがなの使い分けもいい。これは手書きの原稿ならではかもしれない。こうやって引用すると良くわかる。あとがきも最高で、雲の下へ行きたくて追いかけて行ったお婆さんが、草笛を吹くおじいさんがいるだけなのにがっかりして、「可哀そうになって百円玉一つくれてやって、とっとと帰ってきただ」と語るのとか、まるで『夢十夜』みたいだ。

 こんな文章をこれまで知らなかったとは。

 

 要らない前置きはこのへんにして、本題に入ることにしよう。

 さて、西田藍さんの書評だ。

 武田百合子文体の影響か、西田さんの文章も比較的軽やかだ。

 

わたしの記憶は数年後にふっと立ち上がる。そのとき、はじめていつの間にか焼き付けていたことに気付く。今朝のことも曖昧。昨日のことも曖昧。それなのに、数年前のなんでもない日のなんでもない匂いだけ、くっきりと覚えている。

 

 この『遊覧日記』には、匂いの描写がしばしば出てくる。路地や温泉の便所のアンモニアの匂い、どぶ川の匂い、地べたの匂い。決してきれいなものばかりではないのだけれど、強い印象はあるものの不快感はない。

 西田さんも「生々しい匂いがある」とは書いているが、ネガティブには読めない。この書評では、ことあるごとに匂いに言及している。それが、暮らす人々の生活を伝えてくるというのだ。

 

そんなぴかぴかの空間ではない、整えられていない人間の営みにほっとする。彼女が遊覧するのは、そんな場所だ。正しさを示さず、存在意義も求めてこない。だから彼女の視線と同化できる。他人の営みに視線を向けられる。一人で歩くのは、楽しい!

 

 この『遊覧日記』は面白いことに、武田百合子が見たものを緻密に描いてはいるものの、そこに評価や解釈が一切入っていない。ジュースを飲みながら気を取られて張りぼての虎につまづいた男性、着物を汚すまいと、舗道に頭をぶつけた女性などを見ても、それについて何かは言わない。

 批判も揶揄も共感も同情も、一切の感情移入がない。ただ、淡々と眺めるだけだ。でも、決して無関心な冷たい視線には感じない。これが読んでいて気持ちがいい。

 だからこそ、西田さんの書かれているように、視線に同化できるし、いつしか同じようにあちこちを旅しているような気分にさせられる。ああ、なるほど。「遊覧」か。

 西田さんも、こんな風に書いている。

 

そしてわたしも、彼女になら仔細に記されても構わないと思う。なんでもない日常を過ごすなんでもない人間、でも色濃い実体を持った、生身の人間になる。

 

 武田百合子が娘の花さんと「藪塚ヘビセンター」に出かけたときのことを描いた章は、この本の中でも特にいい。冒頭の東武電車に乗るところは最高だ。ちょっと引用しよう。

 

浅草発、東武電車準急あかぎ。黒レースの服を着た中年の女が駈け入ってきて、通路をへだてた右隣りに腰かける。財布から一万円札をとり出し、何度も息をふきかけては膝の上で折目をのばし、香典袋に入れると黒い手提袋にしまった。乗客の大半は出張の会社員らしい男たちで、二人三人、組になって発車まぎわに乗り込んできた。坐るとすぐ缶ビールをあけ、会社の話か野球の話をはじめる。

 

 何度も繰り返し読んでしまうような良い文章だ。

 西田さんもここが気に入ったらしく、それなりの行を割いて言及している。

 

わたしには見えないものを見てくれる。喪服の女、缶ビールをあける会社員の男たち。木造の藪塚駅構内の、矢車草。麦の匂い。わくわくしながら、うんと嗅ぐ。

 

 ここの文章はとてもいいなあ。読者の視線をうまく言い表していると思う。この文章の良さを再録したくて、あえて原文の一部も一緒に引用してみた。こうやって取り出して、併せて読むと味わい深い。

 ああ、いつものことだが、全文引用したい。

 

 武田百合子の眼で見る世界は昭和60年ごろ。今ではもうこれらの光景は残ってはいまい。その時代の浅草や上野に行ったことはなくても、この『遊覧日記』を読んだ後では、なんとなく懐かしく思い出せるような気がする。本を読んだ記憶ではなくて、本の中の光景が自分の記憶に差し込まれたような。

 もちろん、描写をそのまま写し取ったような、娘さんで写真家の花さんのモノクロ写真が添えられていることも大きいのだろう。

 そのあたりについて、西田さんの書いているところは、とてもわかりやすい。

 

 武田百合子の文章の、くっきりと映し出された景色一枚一枚が、鋭い視線が連なって、振りかえれば別の景色が覗けそうなほど、空間の中に入り込める。わたしも歩き出している。読んでいるのに歩いているのは不思議ね、そう、わたしは読んでいるのに歩いて食べている。人を見て、人が話すのを聞いて、そして人と、話している。

 わたしは苦手なのだ、会話が。そうあるべき会話が正しい会話があるはずだと手のひらに汗が滲む。しかし彼女はアッサリ飛び越えわたしを連れて行ってくれる。

 

 話し言葉が少し混じる、描写しているような語りかけるような文体は、武田百合子に寄せて書いているのかもしれない。

 前にも、整えられていない人の営みに安心する、というようなことを書かれているけれど、なにかを押しつけてこない、ただあるがままを切り取ったような視線に、西田さんは安心感をおぼえるようだ。

 キルケゴールの『死に至る病』に、「自己とは他者との関係を措定するところの関係そのものである」と書いてあった。つまり他人の目に関係のない自己などありはしない。他者との関わり合いの集合体が自分自身だ。その、他者から視線の圧が耐え難く感じられてきたときに、この『遊覧日記』のフラットで透明な視線は、きっと心地よく感じられるに違いない。

 この文章には、すごく共感できる。

 読書体験で得た情景を共有できるような文章を読めるのは、とても幸せなことだと思う。

 

 昭和60年代、少しうらぶれて雑然とした浅草や上野の街並みを、武田百合子の洒脱な言葉が料理する。武田花の情感のあるモノクロームの写真が飾りつける。その最高の一皿を、西田さんの文章で丁寧に給仕してもらった感じだ。

 なんて上質な体験だろう。

 

 『遊覧日記』は、ちくま文庫30周年記念のコラム『クリーム色の彼ら』でも取りあげられていて、くすんでぼやけた景色が鮮やかに見え、砂利道をパンプスで歩くのすら苦にならなかった、というようなことが書かれている。「整えられていない人間の営みにほっとする」というのも、本にメモされていた言葉らしい。

 このコラムによると、西田さんが『遊覧日記』を読んだのはアイドルを始めてから読んだ本、とある。※1

 アイドルにはなったものの、まだ地方在住で日雇い派遣でモデルルームの受付をしていた時に読んだそうだ。「正しさに潰されそうになっていた」と書いてある。

 そのあたりをふまえて終盤を読んでゆくと、色々な妄想がはたらく。

 

あっちへ行き、こっちへ行き、娘が窘めたくなるほどうかつなことを言い。食べ物の話は、ずるい。わたしの強張った顔がほぐれていく。なんだ……一人でなくとも、楽しい!

 

 なるほど。「強張った顔」か。

 それと「一人でなくとも、楽しい!」は、前段の「一人で歩くのは、楽しい」との呼応だ。

 ちょっとこのあたり、前半の楽しげな感じとは少し雰囲気が違うんだよな。

 

 これは西田さんの、ユリイカに載った初めての文章だ。その後のユリイカでの「乱歩」「古屋兎丸」について書いた文章は、作品が作品だけに、わりとダークな雰囲気から入っているので、少し趣を異にする。ただ、共通点もあって、終盤では感情が高ぶってくるのか、文節の短い、句読点の多めの文になるのだ。

 

人の匂いが重なって、はじめて都市の景色は、見える。全部人間の足あとだ。虚像を恐れる前に、ただ、見てみるといい。ガタガタ正気の振りをするぐらいなら、えいやっと飛び込んでしまおう。きっとわたしは、ただ、その場所にいる生身の人間して、ちゃんと景色の一部になる。

 

 前半にあった「濃い実体を持った、生身の人間になる」という文。ここでは、生身の人間として景色の一部になる、という。ここにも呼応関係があった。

 

 こうあるべき、こうしなければならない、という思いにがんじがらめになり、世界から乖離してしまったような現実感のない状態のときに、『遊覧日記』を通して眺めた世界は、クリアで穏やかで、居心地がよく、そして何よりも現実よりも、ずっとリアルだった。そのリアルさを与えているのは、匂いだ。

 恐れていた他人の視線だが、武田百合子の視線は怖くない。見られてもいい。そうすることで、自分が自分で感じられるようになり、さらには自分と世界の繋がりも感じられる。居場所があると感じられる。

 そんな目で、あらためて自分の世界を見てみる。ちゃんと自分が世界に属せるように。

 

 なんてな。ちょっと大げさかもしれない。でも、僕にはそんな風に読めた。

 まあ、いつものように僕の身勝手な解釈だ。

 

 そんなことより、何よりも、結びの言葉がポジティブなのが嬉しい。

 この『遊覧日記』での武田百合子の遊び方には、憧れる。自分もこうしてみたいと思う。とりあえず、その一点では西田さんも同じだろうと思う。

 いい本だ。僕はきっかけとなった西田さんのこの書評に、感謝したい。

 

 武田百合子と歩いたのは、私が生まれる前の街。

 この本を片手に、現在の街へ向かおうか。遊覧しよう。日常は、怖くない。一人でもいいし、同行者を募ってもいい。まだ残されているはずの、生々しい匂いがある場所へ。

 

 

 

 

 

※1 ちくま文庫30周年のコラムは『ちくま』2015年4月号に掲載。webでも読める。Link