先日、堺三保さんと池澤春菜さんのトークイベントに行って来たのだが、堺さんが「ガルむす」に西田藍さんを訪ねて行った時のことを話されていた。まさか、そんな話題が飛び出すとは思っていなかったので、咄嗟に反応できなかったのだけど、乗っかっておけばよかったかな。※1
まあ、ガルむすには大森望さんも行かれてるし、一度は行ってみようと思うものだったのだろう。僕は一再ではなかったけれど。
さて、5/31発売の『眼鏡Begin vol.24』に、西田藍さんのコラムの連載2回目が掲載されている。
眼鏡を掛ける少女 眼鏡っ子アイドルの眼鏡は修羅の道!?
前回(vol.23)からもう半年経ったのか。早いものだ。
眼鏡とアイドルという視点で書かれたこのコラム、なかなか興味深いのだが、内容に触れる前に若干の苦言を呈しておこう。物足りない、もっと長い文章が読みたい! 面白いんだよ、これ。
前回、西田さんはミスiDでデビューされた頃、『サンリオSF文庫総解説』のカバーガールを務められた頃の思い出として、「文学少女というキャラクターゆえに眼鏡を掛けることを周囲に求められた」ということを語られている。※2
今回は、その流れのままに「眼鏡っ子アイドル」についてだ。
実用性とファッション性を兼ね備えているのが眼鏡の魅力だが、眼鏡っ子アイドルのそれはそうではない、と西田さんはいう。アイドルとしてオンの状態で必要な眼鏡と、プライベートなオフの眼鏡では全く異なるということを指摘する。
オン・眼鏡は、所謂「眼鏡っ子アイドル」における眼鏡。礼服の一部、キャラ付けとしてのオン・眼鏡と、礼服を脱いだあと、私服として身につけるオフ・眼鏡は違うものなのだ。
視力矯正もしくは紫外線防止の機能はなく、眼鏡を掛けているという属性を付加するためのアイテムだということだ。実際、「眼鏡っ子アイドル」の掛けている眼鏡は、レンズを外してフレームだけのものらしい。
前回のコラムで西田さんも書かれているが、近視用の眼鏡は凹レンズなので目が小さく見えるという欠点がある。逆を言えば老眼鏡であれば目が大きく見えるわけで、撮影の際には使われたりするようだけれど、ライブに出るようなアイドルの場合は光の反射を考えればレンズ無しが適当だろう。
しかし、西田さんはそれにも問題があるという。
光の反射を防ぐためレンズは外され、フレームだけのことが多い。過激眼鏡っ子支持者は、それを偽の眼鏡と呼ぶ。
こういう原理主義者の主張は、どのジャンルにしろあまり共感できない。
まあ、映画のキスシーンで本当に唇を合わせていないとか、入浴シーンで本当に脱いでないとか(どうせ映っていないのに、だ)騒ぐ人は割といるので、偽の眼鏡という人も結構いるのだろう。
冒頭で触れたイベントで、池澤春菜さんは眼鏡を掛けてらしたのだけれど、それは度の入っていない伊達眼鏡なのだそうだ。つまり純然たるおしゃれアイテムとしての眼鏡だ。そういえば、伊達眼鏡を否定する人もそれなりにいるんだよなあ。
ちょっと気になるのだけれど、リアリティ追求派はレンズに光が反射して瞳が見えなくなったりする方を良しとするのだろうか。それならまあ、少しはわからなくもない。僕のようなめんどくさいSF好きがストーリー展開よりも科学的考証の正しさにこだわってしまうのに似ている。
ただ、きっとそういうのは少数派なのだろう。西田さんはそこに触れてはいないが、こんなふうに書いている。
お茶の間に登場するアイドルは、デビューから一定期間は、ナチュラルメイクを保持する。眼鏡っ子も、ナチュラル眼鏡で登場し、保持しなければならない。「ナチュラルに見せるしっかりメイク」がナチュラルメイクなのと同様、ナチュラルに見える、眼鏡っ子をイデアをキープする、実用性とファッション性をアイドル方向に全振りしたものがナチュラル眼鏡なのだ。
求められているのが「ナチュラル眼鏡」であるならば、その眼鏡はリアリティを追求するものではないだろう。概念上の眼鏡とでも言おうか。
ナチュラルメイク関する女性と男性の意識の差は、昔から色々言われているのだけれど、どうしても女性側からの指摘ばかりで、なかなか溝が埋まっていないような気がする。
個人的には、イノセントなものを良しとする感覚は割と恥ずかしいと思っているのだけれど、我々男性は女性にそれを求めがちなんだよな。
化粧っ気のない感じを求めてナチュラルメイクを喜ぶように、おしゃれアイテムでない感じをナチュラル眼鏡に求めるのだろう。
理屈としては、わかる。だけど、やっぱり少しカッコ悪い趣味に感じてしまうな。
そこに個性があってはいけない、という個性。個性のない眼鏡が、眼鏡という個性を際立たせる。その個性は、正直、だ、さ、い……
なるほど。
眼鏡っ子アイドルの眼鏡は、「眼鏡を掛けている」という記号であって、それ自体が何かを主張するものではない、ということであれば、むしろ眼鏡は野暮ったいことに意味がある。眼鏡っ子の属性の中に、「おしゃれ」は含まれていないように思う。これは「文学少女」でも同じようなものだったから、そもそも記号としての眼鏡は「おしゃれ」を意味しないというわけだろう。
それはあんまり面白くないな。
西田さんが、身近なアイドルの方々にインタビューしたところ、全員が「眼鏡っ子アイドル」になれと事務所に言われたら断固拒否するとこたえたらしいが、それも宜なるかなという気がする。
確かになあ。一度その選択をしてしまうと、眼鏡を外すことはできなくなるし、にもかかわらず眼鏡で何かを表現することもできなくなる。没個性の眼鏡じゃつまらない。
修羅の道というのも、その語感ほど大げさではないのかもしれない。
僕は西田さんの眼鏡姿も素晴らしいと思っているのだが、一番気に入ってるのは『サンリオSF文庫総解説』のそれではなく、雑誌『SPUR』2014年12月号に掲載されたグラビア&インタビューのそれだ。※3
この時に西田さんが掛けている眼鏡は、決して没個性的なものではなくて、とてもおしゃれなものだ。
前回の『眼鏡Begin vol.23』が掲載された当時、ガルむすで西田さんにその事を伝えたところ、西田さんは自分もSPURの写真は好きだとした上で、「そもそも、お金のかけかたが違う」と笑われた。「SPURのセンスと比べちゃダメですよ」とも言われてたな。
ま、実際そういうもんなんだろうな。
このコラム、前回は西田さん自身の体験を基に、今回はよりアイドル全体に広げて、「アイドルが眼鏡を掛けることで求められるもの」について語られている。
僕はその一歩先が読みたい。このままでは物足りない。
かつて、西田さんは『Studio Voice vol.409』で、モラトリアムな存在としての〈少女〉として崇められつつ職業人である事を求められるというアイドルの二重規範を指摘してみせた。そして、アイドル達がその二重規範をうまく利用して、その枠を飛び出しつつあると。※4
この構造は、眼鏡とアイドルについても言えるのではないだろうか。
だから僕は、物足りなさを感じると同時に期待せずにはいられないでいる。
西田さんなら、そこから何らかの示唆を引き出してくれるに違いないと思うからだ。
このコラムがどういう方向に進むのか、これから先を期待したい。
とはいえ、次はまた半年後かあ。いや、待つけどね。
※1 2018.5.12「池澤春菜&堺三保 SFなんでも箱 #55」にて。このイベントで堺さんが開始前に出てきて、時間まで雑談するのはいつものことなのだけど、その雑談の中で出た話題だった。
※2 前回のコラムに関する僕の感想は、ここ。
※3 『SPUR』の記事については、ここに書いた。
※4 『Studio Voice』の記事の感想はここに書いた。