『にゅうもん!』第十三回『火星年代記』 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

「にゅうもん! 西田藍の海外SF再入門』

2016年12月号 第十三回はレイ・ブラッドベリ『火星年代記』

 いつの間にか、もう十月だ。
 十月と言えばレイ・ブラッドベリである。『十月はたそがれの国』は言うに及ばず、『十月の旅人』というのもあるし、『なにかが道をやってくる』も冒頭で十月は特別な月だと言っている。
 というわけで、今回は「にゅうもん!」で西田藍さんが取りあげているブラッドベリの『火星年代記』について語りたい。
 これの掲載されたSFマガジン2016年12月号は、10月25日発売なので、一応は十月のブラッドベリではあるな。

 ブラッドベリは『霧笛』とか『いかづちの音』とかは好きだ。あと、『華氏451度』も印象深い。『刺青の男』もいいよなあ。
 だけど、この『火星年代記』は、どうも何か違う。

 文体は大好きなのだ。僕が読んだのはずいぶん前なので旧版だけど、「ひとときはオハイオ州の冬だった」という冒頭はすごくいい。
 ただなんというか、ずっともやもやした読後感があって、再読しないでいたのだ。

 西田さんは、このように書く。

夢のように美しい火星と、その住人。芸術の都は輝くばかり。しかし、地球人の上陸によって、その繁栄は終わりを告げた。これは、宇宙を駆ける新・アメリカ開拓史である。
(中略)
想像が膨らむ火星人文明は、アメリカ開拓によって破壊された先住民文化と重なる。ひとの精神を尊び、芸術と美を愛する社会。産業革命以後の物質主義的人間社会(とされるもの……基本的に、私は文明批判はあまり好きではない)とは対照的だ。社会批判の矛先も、ノスタルジアも、全てアメリカ的なものである。

 そうなんだよな、アメリカ的なんだよな。
 繊細でデリケートな文化を、自分たちが破壊してしまった、などと考えるのは傲慢だ。アメリカ人、というか白人男性は(僕の数少ない交流関係の中でも)割とナチュラルに自分たちが常に主体的立場だと信じて疑わないところがあって、この『火星年代記』の中にもそういう空気が感じられる。

 僕の大好きな『ヴァーミリオン・サンズ』とは似ているけれど、だいぶ違う。


 美と芸術を重んじる火星人文明がナイーブなものとするのも、それが大量生産、大量消費的社会によってつぶされてしまうというのも、なんというか、上から目線的なものを感じてしまう。


 ここらへんの感覚は、たぶん西田さんと共有できているんじゃないかと思う。ノスタルジーは、なんだか物知り顔の年寄りどものもので、あまり共感できるものじゃない。いや、西田さんから見れば僕も充分に年寄りの範疇ではあるけれど。 

なぜだか、フィリップ・K・ディックの社会批判と比べると、あまり興味がそそられない。ブラッドベリはディックの八歳上。描かれる時代が大きく異なるわけでもないのに。
 
 これはたぶん、立ち位置の問題なんだろうな。
 ブラッドベリは、たぶん無自覚に典型的な(当時の)アメリカ人的な考え方をしていた。ディックは社会にうまく馴染めていない。少なくとも、自分はそうだと思っていた。ブラッドベリが(少なくとも火星年代記で)見ていたのはノスタルジーを感じる過去だし、ディックは自分が属せないと思っている現在を見ていた。
 そうなると、その違いは八歳の年齢差によるものではないと思う。
 
 掌編がたくさん詰まった作品群の中で、西田さんが取り上げたのは『第二のアッシャー邸』だ。
 タイトル通り、エドガー・アラン・ポーの小説がモチーフになっているので、ある程度ポーを読んでいないと面白くないのではあるが(あのミステリーのオチまでネタにしてるし)、逆にパロディとして読むととても面白い。
 主人公のスタンダールが(自分が嫌悪する割には)やっていることが直接的すぎるのが若干気になるところではあるのだけれど。もう少し、謎に包まれたような行動をとって欲しかったかな。
 まあ、このゴシック風味の惨劇は西田さんのお好みではあろうと思う。ここでも社会批判はあるけれど、いわゆる表現規制によるものだから少し毛色が違う。


 漫画の規制から始まって、「実用的でない」小説はみんな焚書になってしまった世界。
 ネタを割ってしまうと、そういった書物をこよなく愛する大金持ちが、ポーの小説そのままの屋敷を火星に作り、地球からやってきた取締官たちを、ポーの小説そのままに惨殺して鬱憤を晴らす、というそれだけの話だ。※1
 この取締官は、「有名な社会学者」「かしこい心理学者」「おそろしく重要な地位の政治家」「細菌学者」「神経学者」たち。いちいち特定の職業を悪役にしているのが面白い。だけど、彼らが焚書にどういう役割を果たしたのか描かれていれば、惨劇がもっと盛り上がったのに。
 西田さんも解釈を試みている。
 
政治家は悪役に入るだろう。そして、社会学者が入っているのもわかる。心理学者も、まあわかる。新しい理屈、心理学の学説で焚書を正当化してきたのだろう。神経学者も、ぎりぎり、脳みそ関連だし、わからなくもない。でも、細菌学者は? 細菌学者が何をしたっていうんだ! と叫びたくなった。彼らは華麗なる惨劇の犠牲者に選ばれる。ポーのパロディ満載でとっても楽しい! しかし、細菌学者の扱いは、ひどい。細菌学は超絶ロマティックだぞ!
 
 この、熱い細菌学者擁護。僕は細菌学には明るくないので良くわからないのだけれど、西田さんは細菌学に大そう魅力を感じられているらしい。
 別に作品中で、細菌学者が細菌学者であるがゆえに惨殺されるわけではないのだが。
 確かに、表現規制に対して、細菌学者が果たした役割は謎だ。たまたま、道徳風潮局の中に細菌学者がいただけかもしれない。むしろ、細菌学がロマンティックだという理由で規制の対象になっていないことに、ほっとするべきなのかもしれない。物理学だって、数学だって、とてもロマンティックでセクシーなものだし。

 主人公が細菌学のロマンティックさに理解がなかったのは不幸だな。
 ポーの愛読者なら、『黄金虫』のあの暗号解読の美しさには萌えたはずなので、数学者だったらきっと助かった。

 はっ? まさか『赤死病の仮面』を細菌学の見地から叩いて発禁に追い込んだ、とか? もしかして『アンドロメダ病原体』も『復活の日』も『12モンキーズ』も? 
 おのれ細菌学者。

 話を戻そう。
 やっぱり西田さんも惨劇は楽しんだようで、思わずにやにやしてしまった。焚書運動の広告塔として活躍したアイドルでも混じっているとさらに面白かったかもしれぬ。
 しかし、さすがにポーはないだろうが、こういう規制側を蹂躙する漫画とかは現代でもありそうだよな、とは思った。
 
 西田さんが紹介しているもうひとつのエピソードが『沈黙の街』だ。
 ひどさナンバーワン。とのことだが、これも一種のパロディだよな。七十年も前に書かれた小説だけど。
 
火星から人は消えていった。終わりゆく都市に独りぼっちの男が、同じように独りぼっちの女がいることを偶然知る。運命の彼女になんとか出会おうとするが……というストーリーだ。ひどさ、というからには、オチはなんとなく読めると思う。すっかり週末の美しさに浸っていたら、これだ。突然挟み込まれる滑稽噺にびっくりである。でも、どんな状況でも人間はそうそう変わらない。こんなものだろう。
 
 だいたい同意だけど、再読してみて、これって同じブラッドベリの『霧笛』としても読めるよな、と思った。
 言わずと知れた名作『霧笛』は、霧笛を鳴らす灯台を、生き残りの同族と思い込んだ首長竜が、霧笛そっくりの鳴き声で呼びかけ、ついには抱きついて灯台を壊してしまい、すっかり傷ついて深海に帰ってゆく、という物語だ。
 このセンチメンタルな名作も、同じ構造で滑稽噺になる。
 幸いにして、いや不幸にして、『沈黙の街』で男が出会ったのは、灯台のような偽物ではなくて、本物の女だったわけだが。
 霧笛に相当するのが電話のベルだ。『霧笛』のラストで主人公たちが、もう怪物は霧笛を聞いても戻ってこないだろう、と語らうシーンがあるが、それとこの『沈黙の街』のラスト一行は良く似ていると思う。
 
そして、長い年月をおいて、ごくときたま、電話が鳴るが、ウォルターは、けっして返事に出たことはない。
 
 物語というのは、残念ながら、暗黙の了解として美男美女であることになっているようなところはある。『君の名は』だって、そうでなければ全く趣の違う話になってしまう。※2 ※3
 しかし、全体の中で異色なこの短編を取り上げるのは、さすがというか、やはり「にゅうもん!」ならではだな。
 この『火星年代記』の紹介をする時に、「沈黙の街」を取りあげることは、なかなか無いんじゃなかろうか。
 これもまた、「にゅうもん!」の魅力なんだよな。
 
 さて、今回の『火星年代記』について、西田さんは「乗りきれなかった社会批判?」というようなことを書かれている。

 「にゅうもん!」は、必ずしも良いと思った作品ばかりを紹介しているわけではなくて、それが面白いところでもあるのだけれど、本作もカウントするのであれば、1年2ヶ月(7号)ぶり4回目、ヴォネガット『猫のゆりかご』以来のイマイチ、ということになる。
 
 西田さんは、自らこう分析する。
 
アメリカ人が描いた、アメリカという国の、アメリカたる部分。私は決して他人事ではない。私の祖先はアメリカ移民だ。モヤモヤを考えた結果がこうだ。ブラッドベリは、優しくて真面目なおじいちゃん。ディックは、本家に勘当されている伯父さん感がある。どっちも大好き。おじいちゃんを尊敬しているけど、窮屈に感じるときもある。伯父さんは、ややこしいし面倒だけど、おもしろい。

 アメリカにルーツを持つ、西田さんらしい考え方だろうか。
 おじいちゃんが言っていることだと思えば、多少旧弊で偏った考え方が見え隠れしたとしても、「はいはい、しょうがないなあ、おじいちゃんは」で流せる、ということだろう。
 確か、全く同じことを『宇宙の戦士』時のハインラインについても言っていた。あれもそうだな、かなり保守的な思考に凝り固まったものではあるのだけれど、おじいちゃんが盆正月に親戚が集まった席で振るうご高説だと思えば、まあ……ということか。
 そういえば、ブラッドベリの小説にはよく優しいおじいちゃんが出てくるしな。
 なんというか、「アメリカのおじいちゃん」と聞いて思い描くような、大柄で白いひげを生やして、白いシャツの上にニットを着ている、白人男性のイメージだ。
 そういう「アメリカ的」な印象なんだよな。※4
 
 僕は旧版の印象で語っているのだが、改訂版で「空のあなたの道へ」が削除されたのが良くわからない。黒人差別を扱った話ではあるけれど、それが何だというのだ。これは、黒人を侮蔑する話ではなく、黒人を差別的に扱う白人を悪者として描いたエピソードだ。
 白人たちが、単なる暇つぶしで黒人をリンチしていたことを匂わせる描写もある。
 これを、この美しい叙情的な短編集の中の染みと考えるのは、白人にとって都合が悪いから、などというのは邪推が過ぎるだろうか。
 そんな改訂をした奴は、火星のアッシャー邸に放り込んでしまえ、と思ったのだけれど、そういえばこれはブラッドベリ自身による改訂だった。
 なるほど。では、ブラッドベリ翁には是非とも火星のアッシャー邸にお越しいただきたい。モチーフはもちろん「ウィリアム・ウィルソン」だ。
 
 
 


※1 蛇足ではあるが、『ハイペリオン』のビリー悲嘆王で、このエピソードを思い出したが、似たようなことをしている割に、だいぶタイプが違う。

※2 調べたら『君の名は』の公開が2016年8月6日となっているから、同年10月25日発売の本号の少し前だ。
 
※3 関係ないが、この手の、滅びた世界にたった二人だけ残った男女、の物語の白眉は森奈津子『西城秀樹のおかげです』だと思う。ちゃんとハッピーエンドだし。
 
※4 そういえば、黒人SF作家ってサミュエル・R・ディレーニーしか思いつかないな。アジア系なら、ケン・リュウとかテッド・チャンとかピーター・トライアスとか、最近多いけれど。