週刊新潮2017年8月3日号『高校生が生きやすくなるための演劇教育』 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

演劇を教えるドラマティーチャー、生徒を生きやすくさせる“授業”

週刊新潮 2017年8月3日号

『高校生が生きやすくなるための演劇教育』

いしいみちこ著 立東舎

 

 

 つい最近、初めて演劇というものを観に行ったので、この書評について書いてみようと思った。

 

 少しばかり自分語りをするが、僕の演劇に対するイメージは、羨望と蔑視とが入り混じった、割とねじくれたものだったりする。

 自分で言うのもなんだが、十代の頃、僕は学業成績の良い方で、品行方正とは言わないが、とりあえず非行とは無縁の生徒だった。言ってしまえば、学校側からしてみれば「都合の良い生徒」であり、同級生からしてみれば「つまらないヤツ」という立場ということだ。

 これは単なるルサンチマンで、そんなことはないという反論はいくらでもあるだろうが、「勉強しかできないヤツ」の同年代での社会的地位は、「勉強はできないが他に特技があるヤツ」より低いと思っている。特技が「勉強」では尊敬を勝ち得ることは出来ない。

 幸い、特技がないわけではないので、スクール・カーストの最下位ではないのだが、だいぶ下の方に沈んでいる。 

 上位カーストの運動部の連中には嫉妬はない。あまりに別次元の存在だからだ。

 文科系部活動の連中は、おおむね同類なのだけれど、一部の例外がいる。たとえば、吹奏楽部だったり、軽音楽部だったり、そして演劇部だったりだ。

 あくまで、イメージの話だけどね。

 

 運動部のトップは輝かしき学園生活を謳歌するのみならず、進学、就職にも有利だったりすることがあるイメージなのだが、文科系のトップは学園生活はそれなりに光が当たっているのかもしれないが、その後の人生に特にアドバンテージがあるようには思えない。むしろ、我々のようながり勉クラスタの方が有利なような気がするぐらいだ。

 そのあたりに、どうしても羨望と蔑視がないまぜになったものを感じていたのだ。

 

 しかも、それを何とも思わないような、アングラなイメージも付きまとっていたり……。

 

 そんな僕なので、西田藍さんの書評で薦められなければ、この本は決して手に取らなかっただろう。

 学校で演劇を教科として教える、ドラマティーチャーとはどういうことか。

 演劇を学校で教わって何になるのか、そんなことを考えながら、kindle版をダウンロードしてみた。

 

「演劇」という教科はどのようなものなのだろうか。俳優を育てる専門カリキュラムというわけではない。当然、座学でもない。精神的にも身体的にもエネルギーに溢れた年代の彼らを、どう育てるか。考え抜いた結果、たどり着いたのが演劇だった。

 

 ここは、確かにそう書かれているけれど、どうして演劇なのか、は最初のうち僕には今ひとつピンとこなかった。

 多分、演劇でなければならない理由を探していたのだろう。どうしても演劇をしない言い訳を考えてしまう。

 

 西田さんも言及されている、表現のためにまず身体作りをするということ、については、僕も非常に納得できた。

 演劇における身体とは、音楽家の楽器であり、文筆家の文体だろう。これを自在に扱えなければ表現など出来るわけもない、と思えば、むしろこの考え方は僕の好みだ。

 西田さんには経験があるので、僕以上だろう。

 本書を読んでから、もう一度書評を読み返してみたとき、ここの部分が気になった。

 

イメージを表現するためには現実で格闘する必要がある。私も以前、映画に挑戦させてもらったことがある。端役の端役ではあるが、身体全てに神経を遣いながら、「表現」をすることは、簡単なことではなかった。演技掛かった表現をすることと、演じることは全く違うのだと痛感した。

 

 こういう感覚を培うこと、が目的だということなのだろうか。

 曲がりなりにも表現力を手にした生徒は、まず一人芝居による〈自画像〉と言う自己表現に取り組み、それがある程度見極めてから、初めて他の生徒との共演に挑むことになる、らしい。

 ああ、つまり、演技とは個を表す言語で、演劇とはその言語で個と個がコミュニケーションするもの、ということなのか。

 西田さんには言う。

 

ただ漫然と頭のなかでイメージをこねくりまわしていても、わからないことが、身についていく。私の高校時代に必要だったのは、このような教育ではなかったか。

 

 なるほど。

 自身の周りの世界から感じる目に見えない圧力と、自分の中にすがるべき芯のない頼りなさ、こういうものに対処するのに、これはもしかすると有効な手段なのかもしれない、ということか。

 始めに言葉ありき、だが、本を読んでいくらインプットを増やしても、世界との共通言語を持たなければ武器になり得ない。

 授業で演劇をするということは、本書の著者が試みているのは、そこに共通のプラットホームを提供しよう、ということなのかもしれない。

 

 小さなシアターで観劇したとき、舞台から押し寄せる濃密な情報量に驚いた。単に、ストーリーを舞台上の複数の人間で表しているわけではないのだと思ったのは、ひとつの場面に相当な奥行きを感じたからだ。

 僕の中には、おそらく充分な受容体があるとは言えないだろうけど。

 

 何度か書いているけれど、僕と西田さんは年代も性別も生い立ちも何もかもが違う。

 それでも、この結びの言葉には、やはり心から同意せざるを得ない。

 

生きていくための力、と聞くと、私は斜に構えてしまうが、この教育は、この物語は違う。

 

 ああ、いい本を読んだな。