Netflixで〖もう終わりにしよう。〗という映画を観ました。









まず、原作の本は読んでなくて
Netflixのあらすじと予告編だけを頭に入れて観たのでなかなか難しかった、、


ネタバレになると思うけど感想を書こうと思う。

















あらすじを読んで、主人公は女の人なんだなぁと思っていたので

終始その目線で観ていて、だからこそ頭がごちゃごちゃになったような気がする。

原作をしっかり読んでいたらそうはならなかったのかもしれない。

タイトルの、もう終わりにしよう。というのも女の人がしきりに言うので恋人との別れ話をずっと考えているものだと思ってた。




彼の両親に会いに行くまでの雪の降る道を走り続ける車内のシーンから始まる。

ところどころ噛み合わなくなる会話がなんとなく不思議。


彼の家に着くと両親が何やら不気味で、少しずつ場面がおかしくなっていく。


少しでも瞬きすると両親の年齢が変わっていたり
無かったはずの料理が一瞬で出てきたり
主人公の女の人の服装が変わっていたりしはじめて、
このあたりから完全に?の状態で観ていた私。



彼女が車内で話していたことが、まるで彼の人生の出来事かのように存在している世界。

その家に飾られている幼い頃の彼の写真、彼女はそれを見るなり自分だと言う。ここはもう完全に?だった。

彼が彼女を呼ぶ時に名前がたまに変わることも不思議だった。


彼の家に居たはずなのにいきなり場面が変わって学校のシーン。


用務員のおじさんが掃除をしている。

途中からこの男性が彼の将来なのかな?となんとなく思った。


それでも点と点が繋がらないままずっと不気味で意味がわからなくて、

声に出して、え、どういうこと?と何度も言いながら観た。


とにかく場面が飛んで、いったりきたりして
車内の2人の会話がひたすら続くような映画だった。






観終わってから少し調べていくと、

まず主人公だと思っていた
彼に別れ話をしようと思っていた彼女、というのが

彼の妄想で作り上げられた人だということがわかった。


というより、用務員のおじさんが現実世界の彼、であって

学校以外のシーンは全てその男性の妄想世界の話、だったのかなと思う。


妄想だから存在はしていないってことだよね、、?



現実世界の用務員のおじさんはひたすらに孤独で、妄想の中では彼女を連れて両親に会いに行く。


私は本当になにも知らないまま観たから、まさか妄想で作り上げられた女の人の目線で観ていたとは思わないし、おかげで話が掴めず本当に頭おかしくなりそうだった。


そもそも妄想世界の彼女、というのは現実世界で1度でも会ったことのある実在する人なのか(叶わなかった恋の相手とか)
それとも1から作り上げられた妄想世界の架空の人物なのか、、?

とにかく、私だったら妄想の中くらいはずっと幸せで居たいのに
それはそれでうまくいくことばかりじゃなくてなんだかリアルだなあと思った。



最終的に用務員の孤独なおじさんは雪降る車の中で鍵をかけることなく自分で死を選んだ。
そのおじさんの死に際の走馬灯を観ていたような気持ち。



妄想なんてもう終わりにしよう、
なのか
人生なんてもう終わりにしよう、
なのか


とにかく、
タイトルのもう終わりにしよう。
は少なくとも彼女目線の別れ話のことではなかった。

英語だとニュアンス変わるけど、意味はそんな感じだよね、、?





そもそも原作を読んでないので理解するのが難しかった。

読んでわかったのかも謎だけど、、


監督の解説と何人かの考察ブログみたいなものを観て、さらっと2回目流し観して話の流れはなんとなくわかったような気でいるけどもしかしたら全くの見当違いかもしれない。





確かに観るタイミングで人によってはドン底まで気持ちが堕ちてしまうかもしれない。



絶望してしまうかもしれないし、
極論、人生とは、みたいになりそうだなと思った。

果てしないというか真っ暗闇というか。




孤独って、
人生の終わりに誰も、何も、無い、というのは今の私にはあまり想像つかないけど
生温いものじゃないと思う。




最期は誰かと生きて居たいなと確かに思った。