最期の日まで⑤ | ヒルシュっ子の育児日記と母の闘病記録とその後

ヒルシュっ子の育児日記と母の闘病記録とその後

生まれて間もなく息子がヒルシュスプルング病という先天性の腸疾患であることが判明。その頃の記録と、実母が膵臓癌を患い2月の大雪の日、旅立ちました。母の闘病中の記録とその後の日記です。

下顎呼吸が始まり、手足のチアノーゼも進んでいましたが唇にチアノーゼはなく、実はまだ大丈夫なのではと思っていました。思っていたというか、まだ大丈夫であってほしいと思いたかったのだと思います。

朝6時。小学生の娘とは事前に話をしており、もしもの時は起こして欲しいと言っていたこともあり、いつもより少し早めに起こしました。


母の呼吸の様子を見て、今のうちに軽くでも食事を摂った方がよいとなり、子ども達と父に簡単に食事を用意。前日に買っていたロールパンは、買っていて大正解でした。父はまだ大丈夫だからと言いながら、慌てることも急ぐこともなく食事。急いでいる私に、「そんなに急がなくても大丈夫だって」と声を荒げました。そんな父に、ここ数日腹が立つことも多かったのですが、今はそんな場合ではないと思い「後悔したくないから」と静かに言い母の元へ戻りました。


母のところにいた姉たちにもロールパンを持っていき、母の呼吸も先程と変わらないことに安堵しました。


午前8時頃、徐々に呼吸の間隔も短くなり、浅く速い呼吸で苦しそうにも見えました。口もあまり開かなくなってきていました。

管に繋がることを嫌がり、点滴の管を残すこともしぶしぶだった母。最期は点滴を抜いてあげようとなり、8時半頃、少し早めに訪問看護師さんに来て頂き、点滴の管も抜いてもらいました。

看護師さんに一通り診てもらった時、オムツがなくなってしまった話になると看護ステーションに余っているものがあるので是非使って下さいと言って下さり、看護師さんはオムツを取りに戻りました。

今思えば、最期の時を家族だけでという心遣いで看護ステーションへ戻って下さったのかもしれません。


午前9時30分頃、更に母の口は開かなくなり、苦しそうに息をしていると、少しずつ呼吸の間隔が開いてきて、その後2~3度ほど呼吸の停止と再開。その後、完全に停止しました。家族に囲まれながら、天国へ旅立ちました。


私たちはまだ温かい母の顔や手、足をみんなで撫でたりギュッとしながら、しばらくの間、大声で泣いていました。