猫と一緒にカツオを食べた。 | 結月美妃の“あれアレこれコレ”

猫と一緒にカツオを食べた。

 結月でございます。

 

 九段下の法務局で、

 

 「暑ッ!」

 

 と、タオルを取り出して、顔を拭いたら、

 

 「痒ッ!」

 

 顔にはたくさんの猫の毛がついていて、タオルを見たら確かに猫の毛がいっぱいくっついていた。

 

 夏は枕の上にタオルを被せて寝るわたしだけど、その枕によく猫が香箱座りをしていたり、腹を出して寝ていたりする。

 

 そうか、それでタオルに毛がいっぱいくっついて、猫の毛は洗濯機で洗っても全然取れないから、猫タオルになってた。コロコロでないと取れないよね。

 

 ともかく、顔に張り付いた猫の毛をつまみながら、法務局で番号札を持って待つわたし。

 

 猫は家で留守番をしているのに、いつでも猫が一緒にいる気分。

 

 そう言えば、先日も洗車して、フロントガラスを内側から拭いたら、ガラスに猫の毛がくっついていて、洗車用のタオルを洗って干したものを置いておいたら、早速猫のラッキーがそこで寝てた…

 

 昨晩はスーパーでカツオのタタキが半額だったので、2柵買った。そして、それをまな板で切り始めたら猫たちが群がって来て、一切れにするたびにその場で食べていく。

 

 どうにか大皿に盛ってテーブルの上に置くと、三匹の猫がお皿に顔を突っ込んでモシャモシャ食べる。

 

 今回はたくさん買ったから、わたしの分はちゃんと残るだろうと余裕な気持ちで、猫と猫の隙間に箸を伸ばし、ゆっくりと食べる。

 

 お刺身は猫と一緒に食べるのが好きで、それは猫ぎらいのひとが見れば、おぞましいとしか言えない光景に違いない。

 

 でも、もし猫が家にいなかったら、わたしの生活はもっと殺伐としている。そして、猫それぞれに性格がはっきりしていて、魂があるから、現世で出会い、生活を共にすることは宿命だろうし、猫たちはわたしの精神的サポートをするためにこの世に生まれ、そしてわたしのところにやって来たのだと思う。

 

 すべての出来事には意味がある。

 

 良くないこと、大変なこと、失敗、そういったものすべてにしっかりとした意味がある。

 

 それらがいくら面倒であっても、なぜそれが自分に訪れたかを考え、それを理解できれば次のステップに確実につながる。しかし、それを不運だとだけ捉えてしまっては生かすことはできない。

 

 メンドクセーことがあるからこそ、ひとは進化するわけで、苦労なくしては成功はない。それはちゃんとあちらの世界で組み込まれているもので、逃げることはできない。

 

 ひととの出会いもそうで、出会う意味があるから出会う。この世には偶然はなく、すべて組み込まれた現象。

 

 もちろん猫との出会いもそうで、どんな些細なことでも前もって決められたことであり、それから逃げようとしても結局は同じ試練を与えられるようにできているのだから、与えられた意味を理解して行動しなければならない。

 

 ただし、その意味を理解するのが難しく、理解できるようになるのも訓練で、その訓練をしていないと遠回りで無駄が多く、同じことばかりやる羽目になる。

 

 乗り越えたものが多ければ多いほど、人間は立派になっていくので、その成長は死ぬまでやめるべきではない。

 

 自分に降りかかるあらゆる事象を歓迎すること。

 

 いいことも悪いことも、幸運なことも不運なことも、あらゆる事象を歓迎する。どんな些細なことにでも意味がそこに隠されている。

 

 それを捉えて、とにかく飛躍すること。これに尽きる。