平安さん・星月夜虹霓綺譚 四十五 《 海獣 》 | yuz的 益者三楽

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星月夜虹霓綺譚
(ほしづくよこうげいきたん)


四十五 《 海獣 》



その国は大陸の東南東、くの字型に大きく反り出た半島の大部分であり、内海に面した部分は豊かな漁場、外海に面した部分は諸外国との交易に費やせる港を抱え、この国の繁栄の象徴であった。
だが、本当のこの国に繁栄の源は別の所にある事を国人達は皆知っている。
さほど大きくもないこの国が長い歴史と伝統を有し、多くの国々と接触と交渉と羨望と嫉妬を受けながらも、何の内憂外患も受けずに平和を謳歌している。それは一つの独特の、宗教に近い心情の上に王家も庶民も同じ方向を向いていたからだろう。

外海に面した海上に巨大な岩が一つ突出している。赤と黒の渦を巻く様な縞模様を写す巨岩は生け贄の岩、もとい「花嫁の岩」若しくは「婚姻の岩」と言われる祭壇である。
この国の人々の始まりは外海の向こう、その下に広がる深海の海宮から来た海人、海神であったと言う。深い深い緑の海の生活に飽きた一人の海神が海を捨て陸に上がった。彼は海神族の公子であり海人の掟を破った彼に対して海の同族達は非情であった。

毎年の海祭りは順当温和な美々しい祭りであるが正儀の大祭は五十年に一度行われる。
五十年に一度と言うのが非情であるのか温情であるのか判断に苦しむ所であるが、彼らの平均的な寿命を考えれば、一生の間にこの正祭を見ることが出来るか出来ないかは運次第である。だが、もっと運が良ければ幼いときにこの大祭を目にした老人はこの祭りの顛末を子や孫に話して聞かせ、再びこの祭りを目に焼き付けてこの世を去る事が出来る訳である。子や孫は老人の言った事が嘘偽りや例え話ではなく真実である事を、目の前で繰り広げられる惨劇から学ぶのだ。彼等は又それを次の世代に言い聞かせて行く。

『我等の先祖は海神族の一公子であった。海王は公子の出奔に激怒したが後の祭りである。仕方なく王は公子の恥ずべき行為を許したが、その代わりに海斎宮を建て海神を祀る事を約束させた。そして五十年に一度、斎宮に仕える巫女を一人海に捧げて還す事。生け贄とも花嫁とも称されるその乙女達は海獣の餌食となり青い海を紅く変えるだろう。あの『花嫁の祭壇』の赤さは今まであそこに磔にされてきた娘達の血なのだよ。だが、五十年に一度、こうして海神に乙女を捧げる犠牲祭よってこの国は海神に守られ、許され祝福されている。我々の繁栄の源とはこの海神との契約によるものなのだよ』

生贄の乙女は正式には『神女』と呼ばれ、幼き頃より斎宮に奉仕している娘巫女の中から選ばれる。それは王侯も庶民も例外ではなく、一代の王君に対して一人の王公女が斎宮に入る事実からも伺える。

どこからどこまでが真実であるか、とっくりと眼(まなこ)を見開いて眺めるがいい。



海が僅かに荒れ始めた。
突き抜ける様な真っ青な空に射る様な眩しい太陽が燦々と輝いている。が、つい半刻ほど前から東から風が流れ始めた。それでも秋の空はこの大祭に相応しく抜ける様に高く、海と空の境目もはっきりと掴めないぐらいだ。
砂浜の向こうには満場の人だかりで、豪壮な物見の桟敷櫓には厚い錦の幌や薄布の紗を幾枚も重ねてある。その下には王家の面々と高位の貴族達が贅をこらして席に着いていて、今日の日和を汲みあったり、其々の家の近況を語り合ったりするのに忙しい。

「今年の神女はどこの娘御であったのかご存知か?」
「ああ、確か……先々君の十弟、…細羅王の孫女らしい」
「それは、何と符の悪い…いや、ゴホンッ……名誉あるお役目を…細羅王家はそれなりの特謝を受けるだろうて」
「末端の貧乏王家だからの…。旨味の方が大きいのではないか?まあ、我々の血族でなくて良かったと思うべきか……フフフッ………次は五十年の彼方じゃて…」
「まあまあまあ…それはそれ…。ところでそちらにも幾人(いくたり)娘御がおられたはず、幾つになる?」
「ハハハハッ…まだ小さい」
「あら、私共にも小さい息子がいましてよ」
などと政事の裏表を渡り歩きながら社交にも余念がない。
生け贄の惨劇も、身近な当事者でなければそれ程恐怖するものでもないのか、人々の心は祭りの高揚の弾んだ声だけに支配されている。そしてその後ろに控える民衆は言わずもがなであった。
海からの日差しを直に浴びながらも稀有な大祭に残酷な歓声を上げる。

白波が一際大きく立つ。

桟敷席の奇妙な喧騒とは裏腹に、沖合の紅い巨岩には白い衣を纏った妙齢の娘が一人、鎖に繋がれている。岩には波が容赦なく打ちつけ白い飛沫を作っている。彼女の長い黒髪はおそらく腰まで届くのだろうが折からの強風に煽られてわさわさと乱れていた。
斎宮の奥深くで育った高貴な白い顔は陽に照らされて赤くなったり、その黒髪の陰で海獣の恐怖を思い青くなったりしている。

娘…細羅王の孫女は飾り立てられた舟に乗せられて岸壁に辿り着くと屈強な王宮の甲冑兵達によって鎖に繋がれる。一際大きく太鼓が鳴り響き、その音に促されて大歓声が起こる。銅鑼と太鼓が正確なリズムを取って打ち鳴らされ細羅王の孫女を岸壁に残すと鮮やかに白波を作りグルリと沖を周り海岸に引き返して行った。

今、対岸では斎宮の巫女達の舞が華やかに繰り広げられ、数々の儀式が滞りなく繰り広げられていった。人々の興奮はその最高潮に向けてどんどんと上がってきている。そしてそれとは正反対に、沖に括り付けられた神女は風に吹かれる黒髪の間から虚な眼差しを岸に向けていた。対岸が盛り上がれば上がるほどに、己の感情が少しづつ毟(むし)られていくようで、最早己の命が今日この時終わる事に対して何の感慨も沸かなくなっていた。ただ願わくはその海獣殿が一撃で自分の命を断ち切って欲しいと、長く苦しく痛い思いはしたくないなどと、そんな思いを波に向けていた。

陽は中天をとうに過ぎた。風に合わせて流れる様な白い雲が空を泳ぎ始めている。神女は暑さに負くた汗か冷や汗か判らぬ粒を額にしっとりと出している。それと判る様な皺を眉間に作り目を細めて波間を見つめる。

一際高い銅鑼と太鼓の音が彼女の耳を裂いた。
わあああぁぁぁァァ……ァァァ…ッッ……
対岸の民衆が何か解らぬ声を上げた。

対岸に向って鎖に繋がれた彼女からは判らなかったが、それは怪獣の出現に沸いた歓声だったのだ。
彼女には背後でバシャッッ……ッッ…‼︎‼︎と鳴る水音だけが聞こえた。

観衆には真白い幾つもの大波と逆光の中跳ね上がる黒い影が映る。

そして海獣は毛か鱗かとさかか解らぬ体角を逆立て陽に縁取りさせて海面を蹴る様に宙(ちゅう)に体躯を晒す。
ヒレではなく明らかに手足を感じさせるモノが鉤爪を光らせて輝く。
鯨を思わせる尾を見せてドプンンッッ…ンッ…ッッ……ッ‼︎と溺れる程に水飛沫を降らせて波間に消える。
神女の頭上にも雨の様にその海水が降りかかった。
神女の口が言葉を形作る。
「ア……」
風になびいていた筈の黒髪がベッタリと胸元に落ちる。彼女は二、三度フルフルと首を振り閉じていた瞼を開けた。
そこに彼女が見たのは獲物を見つけた鮫の様にぐるぐると弧を描き、赤い巨岩の周りを泳ぐ黒い大きな影だった。
時折ザブンと現れる背には鋸型(のこぎりがた)の角か背びれかギザギザと鋭く光り、深く窪んだ眼(まなこ)が表情なくギョロリとこちらを睨みつける。ナマズの様な長い髭が見え、その海獣は、海獣は…、怪獣は……ッッ!
そう思った時その怪獣はザブリッッッと顔を水面から上げ裂けた口を一杯に広げて何重にも連なる肉食獣らしい牙歯を見せつけて威嚇した。
グググッ…アアアァァッッ……ッ…‼︎‼︎
はっきりと現れたその身体は巨岩と同じ血の様に赤い色をして、全身の鱗らしきものを病的に逆立てる。
グギャァァ…ッッ………
けたたましい咆哮は硫黄を思わせる悪臭を撒き散らしながらドボンッ……ッッ…‼︎とまた波に潜った。
改めて、神女の顔に恐怖が走った。
この恐獣は一撃で私を死に導いてくれるだろうか?
それとも、のたうち回り飛び上がり噴き出す血に全身を傷だらけにしながら苦悶の表情を向ける私を弄ぶのだろうか?
何にも喩え様のない海獣の恐ろしい姿に神女は解けない鎖を精一杯引っ張って初めて逃げたい素振りをみせた。
対岸の観衆は生涯に一度、見るか見ないか判らない海獣の姿の真実に最早正常ではいられない。民衆とは両手を挙げて国策へと誘導される大衆である。

わあああぁぁぁァァァァ……………ァァァァ…

赤い海獣の速度が速まる。

ザザザザザザッッッ……ッッッ…ッ…

白い大波が幾つも巨岩に当たり神女はその度にずぶ濡れになっていった。

神女は水に濡れる度に恐怖の感情を覚醒させていき、ガクガクと手足を揺らしてジャラジャラと鎖を鳴らせる。
「あ、ァ…ああァァ……助け………たす…た、す、け……ッッ…‼︎」

一瞬、白く熱い雲が海の波間に濃い影を作った。が、それよりも濃い影が神女の前に立ちはだかる。

ザザザザザザッッッ……ッッ…ッ…‼︎‼︎

それはもう一度、怪獣が喉の向こうまで見える口を開けて三重にも五重にも重なる剣山の歯列を神女目がけて覆い被せてきた影で、鉤爪は岩の端に置かれ、明らかに神女を食いちぎろうという動作を始める。

…ッッ…‼︎…ググギャァァ………

わあぁぁァァァぁぁァァァァァ………ァァァァァァ……ァァ…

ギュッと目を瞑り出ない声を振り絞る。
助けて……………‼︎……‼︎

ドッッガガッ…ドッゥオォッッ…ッ…ンンンンッッッ…‼︎…ッッ‼︎‼︎

雲間から白銀の大剣の様な雷光が走る。
「翠雨ッッ‼︎」
神女はここ数年来呼ばれた事のなかった自分の名を呼ばれ驚きながら目を開けた。

雷に打たれた怪獣が波の上にポッカリと浮いていた。
対岸はその反動で起こった大波に飲まれて無惨な惨状を晒し、命ある人々が逃げ惑っていた。
何が起こったのか判らず神女はもう一度海に浮かぶ海獣に目を向ける。
真っ赤な鱗は所々黒く焦げて燻っている。
生きているのか死んでいるのか判らない。
私は?
ジャラリと鳴る鎖に目を向けて、無傷で生きている事を確認する。

誰かが、私を呼んだ。
誰が?

「翠雨!」
ビクリッと声のする方に顔を上げた。
そこには海獣の裏返った腹に乗りこちらに笑顔を見せる男がいた。
彼は…
「文曲」
もう一度、彼は笑う。
それから海獣の腹をひと蹴りすると懐から鞭の様にしなる光の帯を出しクルクルクル……と器用に海獣の身体を巻き取っていった。それは鞭自体が意志を持って海獣に巻き付いていった様な動作だった。
「雀伽、起きてくれ」
鞭は紐の様になり、今瞬く間に手綱の様相を呈する。
死体の様に浮いていた怪獣がむっくりと起き上がり文曲を背に乗せた。

これは……
背に跨った文曲はグイッと手綱を引き、海獣は「グゥ…」と唸り、プルルルル……ッッ…と首を振った。逆立っていた鱗は畳まれて、幾分冷静な様子で忙しなく周りを見回す。
「雀伽。大丈夫だ、帰るんだ」
ドゥドゥ…と文曲は焦げた鱗を叩く。
「翠雨、行こう」
最後の一句と共に赤い巨岩がガラガラと音を立てて崩れ、神女は鎖から外されて彼の腕の中に収り、怪獣の背に乗せられた。
海獣はまだ己の状況を理解していない様で、手綱の調子が解らず二、三度激しく暴れたので神女は思わず文曲の胸元を強く握りしめた。
ギュッと神女を抱きしめて、彼は再びこう言ったのだった。
「大丈夫。翠雨、行こう!」
ハイッと手綱を揺らした途端、海獣はグッ‼︎と薄色の空に向かって高く高く駆け上がった。


翠雨。
そう、私の名。
誰も口に出してくれなかった私の名。

翠雨。

何と心地いい名だろう。
ねぇ、文曲。