太宸殿の真ん中に緑衣は小さくうずくまり地に額を擦り付けて泣き咽(むせ)んだ。
「御赦し下さい、金母娘娘。奴婢は公主を御守り出来ませんでした……。奴婢は…奴婢は…!」
金母娘娘は重き玉座に座り表情を崩さず緑衣を見つめる。頭の玉勝冠は、灯りを控えた太宸殿の中で鈍く揺れる。左脇に次期を立たせ、階下には黒衣の玄女が眉根を寄せて佇む。
「御赦しを……いえ…。罰を…どうか奴婢の罪に罰を御与え下さい。身を引き裂き、皮を剥ぎ、地に捨て、魑魅共の餌に…!」
ッ…ああ…‼︎と緑衣は泣き伏した。
それでも金母は顔色も変えずに緑衣を見つめ続ける。
「その様な姿でこの地に舞い戻る程、耀天は……如何様な死に様だったのだ?」
誰もが口に出せぬ核心を突く。
緑衣は瑶池の門を叩き、姉妹達を大声で呼ばわった。昔日、耀天と共に瑶池を降りて行った時の雲雀(ひばり)の様なコロコロとした愛らしい声ではなく、地の底の怨みを乗せる金切り声とも、銅羅の声とも…それは聞く者によって幾らも違うだろが、どちらにしても気味の悪い禍事を運ぶ声であった。
紅衣や青衣に支えられて玄女の前迄やって来た時、辿り着いた興奮と安心で声を上げて狂った様に泣く事しか出来なかった。
只ならぬ緑衣の姿に玄女も何かを理解する。
取り敢えず、湯と新しき衣の用意を急がせ声を張り上げたが、緑衣は…。緑衣は頑なに拒んだ。その実、身に触れられるのもどこか慄き気味で、湯はおろか腐った臭いのする衣を着替える事さえ出来なかったのだ。
只ひたすら金母娘娘への拝謁を望む。
その様な姿では……と玄女達がいくら諭しても激しく頭(かぶり)を振り、うわ言の様に金母娘娘へ…と繰り返す。公主を…、公主の…、金母娘娘は…、何かを言いかけては口をつぐみ、玄女に訴える。玄女の両腕にしがみつき爪を立てる。
悪臭放つ緑衣の姿は、ここ迄の道行きが決してただではなかった事を容易に想像させる。
玄女は緑衣の姿を何一つ改めぬまま、金母娘娘の前へ伺候させた。
金母娘娘は全てをお知りになりたいだろう。
そして、娘娘は率直に切り出した。
漸く緑衣は全てを語る場所を得て、尚搔きむしりすぎて爪の剥がれた手を瑶池の太宸殿の玉床に突き立てる。
「……!…公主は…何侠に……殺されました…」
玄女の顔が蒼白に固まる。
「…何故……」
金母はまだ、感情の乗らぬ顔で促す。
「…公主は、謀られました。………公主は情を尽くされました。一国の君主として駙馬を信頼なさいました。……一人の女人として、夫君に尽くされました」
「ならば何故ッ⁈」
カッとなった玄女が緑衣に詰め寄った。
「続けよッ!」
金母の声に緑衣はビクリッと小さくなる。
「何侠は、…何侠はその全てを利用しました。何侠の忠義は雲常には無く、父祖の野望の為にありました。その情は公主ではなく昔日の帰楽に向けられておりました。公主がその事に気付いた時は…既に、手足はもがれておりました」
そこには、母后もいなければ貴丞相もいはしない。
「公主は……身重の身を打ち捨てられ、御子(おんこ)共々、血海の…」
「何としたッッ⁈」
玄女にとって耀天は彩雲の袂より生まれ出でた父天の申し子である。緑衣の言葉はあまりにも禍々しすぎる。
緑衣はそれこそ血の滴る程に唇を引き結んだ。
「血海の中………果てまして…………ござい…ぅッ…ッ」
最後まで言い切る事が出来ずに再び小さく丸くなり、声を押し殺して泣いた。
「緑衣!しっかり致せッ!それは…誠かッッ⁈」
金母は目を瞑り、次期はその金母の肩に白き手を乗せる。感情を乗せぬ顔に隠して、その肩は震えていた。
金母はやおら重たげに立ち上がると次期に手を許しながら階を降りる。
歩を進めながら思い巡らす。
己の血海の中で果てたか。
それが君上として戦場で倒れたのであればどんな栄光であったろう。
玉座の上から反逆の徒に剣を突き刺されたのであったらどれだけ潔かったろう。
愛しき夫君にその肩を抱かれての別離であれば何と美しかったろう。
己で己の血に溺れたか。あまつさえ我が子を道連れにしなければならなかったか。
それは、何と無残な死に様であったろうか。
「よう、戻った。よう、最期まで仕えた」
金母は緑衣の前に腰を落とし、うずくまるその背に両手を回す。
「金母娘娘…」
太母の胸内の温かさを思い出し、緑衣は涙に汚れた顔をもう一度上げる。
そこで初めて緑衣は傍に立つ女子に気付いたのだった。
「案ずるでない。次期じゃ」
「次期様…」
次期……。
その場所は数年前まで公主の場所であった処だ。緑衣の眸が複雑な光を宿しチラチラと動いた。次期はその光を感じたか袂を合わせ小さく控えめに礼をする。慎ましやかなその姿に緑衣は恥ずかしげに瞳を逸らし玄女と目配せをした。
「そなたが生きながらえ、ここ迄の辿り着いたのも老天の意思じゃ。誠、倖(さいわい)であった。耀天の最期を我等に伝えてくれた。共に耀天を弔おうぞ」
金母の動じぬ言葉に玄女と次期は跪く。
誕生の祝福の一切を覆して耀天は冥府へ逝ってしまったのだ。
それから、玄女はいたたまれぬ口惜しさに嗚咽する。
次期は思案する。
玄武真君の嘶きはこれであったか…。霊亀は己が老天の祝福を伝えた愛し子の帰還に狂喜したか?
愛し子の黄泉路を賑わしたか?
だが、公主の魂魄を告げる物は何一つ無い。
玄武真君は一体何を待ちわびていたのか?
玄武真君に捧げる物は何一つ無いというのに…。
玄冥。
貴殿(そもじ)はこれを待っておったか。
耀天の死を待っておったか。
人として真っ当に死ねなかった耀天の死に様を待っておったか。
裏切りと慟哭の中で人の血を吐きながら、老天に手綱を握られて息絶えた耀天を祝ったか?
老金母は緑衣を愛おしみながら深く皺を刻む。
玄冥。
貴殿(そもじ)は何と残酷か。
いや。
老天は何と残酷か。
緩く緩く、金母は緑衣を愛おしみ続けた。
何度も何度も息詰まる程に唾を飲み込み、握った手を食い込ませた緑衣は、どれ程の刻(とき)を震わせていただろうか。
漸く何事か思い立ったか、穏やかに肩で息をし始め、その赤い双眸を不躾に金母娘娘に射し向ける。
「娘娘、今一つ倖(さいわい)を…」
「今一つ?」
緑衣は初めて微笑んだ。汚れた顔に涙を殴りつけてニィッ……と笑む。
それから、うずくまった裳の中にパフンッ…と隠し持ったあの薄汚れた布包みをズズズッッ…と勿体ぶって抜き出した。そして恭しく金母の御前に差し出す。
得意げに緑衣は言う。
「雲常の嫡子、最後の血脈でございます」
「なッ⁈」
瞬間、玄女が顔を上げる。
「何と…」
「‼︎」
金母は緑衣の微笑みを見、その汚(きたな)らしい包みを見、両の手で徐ろに開け放した。
何とも形容しがたい臭いが辺りに充満する。
旅路の泥に汚れ、血に汚れた布、…いや、緑衣があの日、あの血海の中から掻き取ってきた水蛭子(ひるこ)は自らの血をその布に沁み込ませ絞らせる。
玄女は思わず袂で顔を隠す。
あの日、己と耀天の血を吸ってこの世に現れた嬰児の魂魄は、緑衣に抱き上げられ膿にたかられ、蛆に喰われた。
やがて喰らう肉と膿がなくなり、干からびた黒い塊となった。
緑衣が己の身を削り、血を搾り、肉を削いで持ち帰った血脈の子は干からび萎びた水蛭子と成り果てている。
その姿に緑衣は満面の笑みで愛おしげに額を付け宣う。
「若子様、金母娘娘の御前でございます。ご挨拶を申し上げくださいませ…」
玄女は狼狽えた目を見張り眉をひそませ緑衣を見つめたが、その壊(え)じた塊に最後、ただ一句だけ「公主…」と小さく絞り出すと黒い衣を地に這わせベッタリと叩頭(ぬかず)き背を震わせた。
嗚呼…‼︎
襁褓(むつき)の内からその腕に抱き慈しんできた、麗しき桃仙の成れの果てがこれとは、何故……
……何故⁉︎
…………嗚呼…ッ‼︎
だが、今の今まで泣き濡れていた緑衣は、今こそ自慢気にその顔を金母に向けていた。
「金母娘娘、どうぞ娘娘の胸内にお納め下さい」
公主のご無念を。若子様の喘ぎを。…何侠に鉄槌を‼︎
緑衣は帰還(かえ)りきた本意を金母に披歴し、満足の息を吐いた。
赤く目を腫らし、異臭を放ちながら頬を上気させ、口角を上げて誇りやかに笑んだのだった。
玄冥よ。
金母は凝視する。
貴殿(そもじ)が待ち望んだは、これか…。
来タゾ。…来タゾ。迎エヨ…。迎エヨ。
其ハ其ハ、何処ニ…何処ニ。
金母は、在りし日の耀天と同じ様に水蛭子を抱き上げた。
老天ニ言イ訳ガ立ツト言ウモノ。
……玄冥、待ちわびた甲斐があったな。