1章 月宮(がっくう)の人
秋の風は少し冷たく、夜の奥庭に吹いている。
その場所は将軍府の中の奥まった場所にあり、その奥庭はひっそりと隠され、他の場所とは全く異なった趣を持っていた。
騒がしい将軍府の中で、その喧騒も届かないかのようにひっそりと静まりかえり、ただ秋の虫が静かに曲を奏でる。
侍女達の笑い声や忙しく走り回る侍従たちもいなかったが、その奥庭はよく手入れされ、色とりどりの花が咲き乱れ、芳しい香りを振りまく。
少年はそっと その場所に足を踏み入れる。普段はそのような場所には決して足を踏み入れたりしないが、今日は特別であった。
中秋節。
大王は豊穣を祈り、音楽を奏で、月に祈りを捧げる。月が最も美しい日、そして彼の生まれた日。
将軍府で開かれていた彼の生誕の宴は、中秋節と相まって盛大に祝われ、色とりどりの灯篭が掲げられた回廊は、夜の闇を照らす。
夜も更け、人々が家路につき、或いは酔いつぶれてその場で寝込んでしまい宴が終焉を迎えた後、ふと父が随身も連れずに、そっと将軍府の奥に消えていく姿を見る。
幼い少年は好奇心を抑え切れず、声もなく音もなく、その後をついていく。
父は幾つもの回廊を曲がり、庭を抜け、幼い少年にとっては恰も迷路のような場所をひたすら奥へと進んでいく。
そして暫くして やっと、白い月明かりが静かに照らす奥庭に辿りついた。
「わあ、月がきれいだな。把兄が言われていたことは本当かもしれないな。」
少年は女子の様に秀麗な顔をあげて月を見上げ、好奇心旺盛な瞳で辺りを見回す。
中天の満月は辺りを静かに照らし、恰もその場所を神仙の住む場所の様に感じさせた。
少年の名は楚晧月、当年 6歳、東林王族の傍系である驍騎将軍(楚煌耀)のただ一人の息子であった。
母は既になく、その為か 小さな頃は王宮の王后の許で王子達と共に育ち、その後、父と共に陣営で生活する事が多くなる。
楚晧月は、先日 父に随行して行った王宮で聞いた話を思い出す。
大王に拝謁した後、楚晧月は大王と政務について話し合っている父の許を辞し、いつものように安寧王の宮を訪ねる。
安寧王は現 東林大王の第一王子で、名は楚雨露、幼い頃から一緒に育ち、傍系の彼にとっては主従の関係であったが、なぜか気があい、すでに二人は義兄弟の契り(把兄弟)を交わしていた。
幼少の頃より共に成長し、弓や剣を習い、兵法を学び、詩や音曲を愛でる。
この様に王都に帰った時は必ず王宮を訪ねて共に過ごし、稀に都の近郊にある陣営に楚雨露が馬車で尋ねてくることもあった。
楚晧月は王宮の重い扉を開け、拝手の礼を取る。「安寧王に拝謁いたします。楚……」
言い終わらない内に中から年の頃は7,8歳頃の少年が飛び出してくる。「晧月、待ちかねたぞ。なぜもっと頻繁に訪ねて来ないのだ。それに、安寧王とは他人行儀だぞ、なぜ 把兄と呼ばぬのだ?」
楚晧月は少し戸惑いながら答える。「しかし、王子 ここは宮中で陣営とは違います。」
楚雨露は少し思案して、悪戯っぽく笑いながら言う。「では、臣 晧月に命を下す。今後この宮では本王の事を把兄と呼べ。これでよいな。」
楚晧月もこれを理解し、すぐに答える。「遵命」
二人は顔を見合わせ、ぷっと吹き出して、笑い出す。
楚雨露は楚晧月の手を引き、宮の奥に誘う。「晧月、母后が手ずからつくられた点心を用意してくれておる。早く食べよう。」
その後、二人は宮での出来事、陣営での出来事を笑いながら語り合う。
「把兄、あの時の駿馬が子を産みました。」
「ああ、あの鬣(たてがみ)の美しい馬か。確か、陣営で1.2を争う駿馬ではなかったか?」
「はい。あの漆黒の馬です。父上は私の生誕祝いに生まれた仔馬を贈ると言われました。」
「では、父王に願い出て、私の馬も一緒にあつらえてもらおう。あと、2年もすれば東林の習慣に従って軍に入ることとなる。きっと父王は王都に一番近い 驍騎将軍の陣営に私を派遣するだろうから。晧月、その馬で共に疾走しよう。」
「はい。では、それまでに私は腕を磨いておきましょう。」
「ずるいぞ。今でも大人顔負けの腕前なのに鍛錬したら……絶対 追いつけないじゃないか。」
「把兄、それでは次にお会いする時までにどちらが書簡を全て暗記できるか競争しましょう。王宮には大きな書庫がありますし、高名な師父も多い。これなら公平です。如何ですか?」
楚雨露は少し考えてから、笑いながら言う。「では、孫武の兵法書にしよう。これなら、将来 将軍となる晧月にとっても有用であろう。」
暫く二人で話した後、ふと楚雨露が少し神妙な面持ちで聞く。「晧月、この故事を知っているか?」
楚晧月は言う。「故事?」
楚雨露は言う。「父王と母后が話しておられた。”将軍府の奥深くには、美しい月が隠されていた。将軍は月を愛で、やがて月が消え去った後も、将軍は月を忘れられられず、嘆き悲しんだ。老天はそれを憐れみ、中秋節の日 月の住まう月宮への扉が開かれる”と。」
楚晧月は言う。「一年に一度の逢瀬とは、まるで七夕ですね。それにはこの東林王都に将軍府は数多ある。いったい どこの将軍府なのかな?それとも他の国の将軍府なのかな?」
楚雨露は言う。「まさしく。七夕だな。では月は織女のことか?月宮とはな……さぞかし美しい場所のようだ。私も一度見てみたいものだな。」
楚晧月は言う。「武を司る将軍府と儚い月とは、面白い対比ですね。何かの詩歌の一句なのかな?そういえば以前読んだ巻物に七夕に関する詩がありましたね。」
そう言うと、二人は笑いながら、以前、書簡で見つけた詩を吟じ始める。(※6)
迢迢牽牛星,皎皎河漢女
纖纖擢素手,札札弄機杼
終日不成章,泣涕零如雨
河漢清且淺,相去復幾許
盈盈一水間,脈脈不得語
楚晧月は庭の情景に見入られていて、ハッと気が付くと、楚煌耀はすでに庭の奥にある小院へ入って行ってしまったようだった。
楚晧月は小院へ入っていく。
小院は広くも狭くもなく、幾つかの部屋が連なっているようであった。ただ、将軍府の他の場所の様に侍女たちとすれ違うこともなく、その回廊には月明かりが差し込み、ただ静寂に包まれていた。
突然 奥の方から女人の澄んだ歌声が聞こえてくる。
楚晧月はゆっくりと奥の部屋に歩いていき、声のする部屋の帳の傍から恐る恐る覗いてみる。
その月は夢の様に儚く、美しかった。
白き衣を纏った月は歌う。その声は伸びやかで、物悲しく、玉珠が盆に落ちるが如く、その心を映し出す。
心は水面の様に揺れ、心を掻き乱すような歌声。
香が焚かれ、部屋の中には 二人の男女がいるようだった。
女人は白き衣を纏っており、その姿は華奢で、恰も白き花のようで、月宮 きっとこの言葉が一番この情景にふさわしいだろう。
楚晧月が視線を少し動かすと、父:楚煌耀が彼女から少し離れた場所に立ち、只静かに憂いを帯びた優しい双眸で彼女を見つめている。
その眼差しは、まだ男女の情を知らない 幼い楚晧月が気が付くほど、楚煌耀が彼女を深く寵愛していること気付かせる。
楚晧月は把兄が言っていた故事が本当にあって、心の中で興奮したが、直ぐに楚煌耀が寵愛する女人と共に過ごしている姿を覗き見ている自分に恥じ、その場を立ち去ろうとする。
ふと思う。父 楚煌耀は堂々たる驍騎将軍であり、傍系とはいえ東林の王族、その上、楚煌耀には正妻も妾もいない。誰憚ることもなく、このような奥の小院で寵愛する女人を隠す必要もないはずではないのか。他の将軍達は数多の美女を屋敷に囲い、王宮でも大王の周りには数多の女人がいることを彼は知っていた。
その理由は直ぐにわかる。
彼女が普通の女子とは違ってたためだ。
恰も夢の中に生きているように、楚煌耀を見ているが、その美しい瞳に楚煌耀は映ってはいない。
夢の中の夢。
月の明かりが照らす小院で、月のように美しい女人と愁いを帯びた優しい双眸で彼女を見つめる楚煌耀。
美しいが、物悲しい風景---月宮
これは夢なのか?
楚煌耀は愛用するを笛子を取り出し、彼女の歌に合わせて奏でる。
音は高く鳴り響き、月の光、美しい月と楚煌耀、全てが絡み合う。
不意に楚晧月は怖くなり、その場を急いで離れる。
このままこの場所にいれば囚われてしまう。囚われてしまえば、どうなるのか?
自らが恐れているものが何なのかも分からず、
庭を抜け、幾重にも続く回廊を抜け、何処を通って帰って来たのか自分でも分からなかったが、何とか自分の部屋に辿り着き、ベッドに潜り込む。
そして、いつしか深い眠りに落ちていった。
翌日 楚晧月は、楚煌耀と共に陣営に戻る。
楚煌耀は、いつもと変わらず、勇猛で威厳に満ちていた。