茶経八之出の原文(ピンイン付)と和訳②淮南道の茶 | 船橋市茶文化資料室

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2020-2024/2中国唐代・陸羽『茶経』
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天竜区春野の煎茶

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茶経八之出の原文(ピンイン付)と和訳②淮南道の茶

原文

淮南:以光州上,生光山县黄头港者,与峡州同。

huái nán。yǐ guāng zhōu shàng,shēng guāng shān xiàn huáng tóu gǎng zhě,yǔ xiá zhōu tóng。

义阳郡、舒州次,生义阳县钟山者,与襄州同。舒州生太湖县潜山者,与荆州同。

yì yángjùn,shū zhōu cì。shēng yì yáng xiàn zhōng shān zhě,yǔ xiāng zhōu tóng。shū zhōu shēng tài hú xiàn qián shān zhě,yǔ jīng zhōu tóng。

寿州下,生盛唐县霍山者,与衡州同。

shòu zhōu xià。shēng shèng táng xiàn huò shān zhě,yǔ héng zhōu tóng。

蕲州、黄州又下。蕲州生黄梅县山谷,黄州生麻城县山谷,并与金州、梁州同也。

qí zhōu,huáng zhōu yòu xià。qí zhōu shēng huáng méi xiàn shān gǔ,huáng zhōu shēng má chéng xiàn shān gǔ,bìng yǔ jīn zhōuliáng zhōu tóng yě。

淮南。ここでは貞観十道のひとつ、淮南道のことを指す。かつてこの地域は、「淮南国」(前漢)、「淮南郡」(三国から隋代まで)など行政区画を設けていたが、時代によって管轄地域は変化する。隋王朝(581-618)初期の589年(開皇9年)は、「淮南郡」は「寿州」と改称、607年「州」が廃止され「寿州」はまた「淮南郡」に戻った。唐の開国頃、唐高宗武徳3年(620)、淮南郡は寿州と改められ、そのすぐあと太宗李世民の治世、貞観元年(627)に貞観十道のひとつ「淮南道」になった。「淮南」の名前由来は、淮河南岸に位置するため、「淮南」と名付けられ、唐代の「淮南道」の大部分は現在安徽省の中部と北部地域。

 

この地域は北に淮河、南に長江、丁度この二大川に挟まれている感じ。「淮南道」の東部は東シナ海まで現在の江蘇省に伸び、西部は湖北广水、応城、漢河県に、西北は河南省信陽市に接する。地名の更迭からわかるように、「寿州」(現在の安徽省淮南市寿県一帯」は淮南地域の政治経済の中心地で、国家歴史文化名城でもある。

 

和訳

淮南。光州産(現河南信陽市周辺各県)が最も良い。光山県(現河南省信陽市光山県)の南頭港(詳細不明)の茶は、山南道峡州の茶と同質。義陽郡(現河南信陽羅山県一帯)産、舒州(現安徽県級市潜山市一帯)産がこれに次ぎ、義陽県鐘山の茶は山南道襄州の茶と同質。舒州太湖県潜山の茶は山南道荊州産の茶と同質。寿州(現安徽寿県)産の茶が光州義陽、舒州より劣り、寿州盛唐県霍山の茶は山南道衡山の茶と同質。蘄州(現湖北蘄春)と黄州(現湖北蘄春一帯)の茶は寿州よりさらに下で、蘄州茶は黄梅県の山野に、黄州茶は麻城県の山野に生ず、山南道の金州茶と梁州茶と同質である。

 

『茶経』に記された淮南茶略図

解釈と感想

①淮南地方は⇒【楚文化のゆかり地】

「淮南」を聞くと、前漢武帝時代に成立した書物『淮南子』を思い出す人が少なくないだろう。「塞翁が馬」など数多く人生教訓として知られている前漢時代の思想集―『淮南子』。その著者劉安(紀元前179-紀元前122)は前漢武帝頃の淮南王だった。前漢からさらに時代を遡って春秋戦国時代の七雄の1つ「楚」という国があり、楚の版図は最大の時、唐代淮南道のほぼ全地域は楚の支配下。そして秦の攻撃によって楚の勢力が弱まるにつれて東へ遷都し、その最後の都は安徽省の淮南市寿県を選んだのだ。故に中国史学界は「江漢流域謂之楚首、江淮地区謂之楚尾」(楚国の始まりは江漢流域、楚人の滅没は江淮流域)という言い伝えがある程、淮南地域は「楚尾」、戦国時代の楚国の終焉地であることを物語っている。現在淮南市寿県に「安徽楚文化博物館」が建設されている。

因みに陸羽は「楚人」である。唐代封演の《封氏聞見記》に“楚人陸鴻漸為茶論..."との記述があり、湖北天門生まれの陸羽(字鴻漸)も楚人として描かれており、戦国時代から唐までもう700年以上経過していたが、唐代は湖北の人を「楚人」と呼んでいたようだ。

②【淮南茶】

淮南地方は古代中国の楚文化が開花した地域として陸羽の時代は茶に関しては少なくとも光州、義陽郡、舒州、寿州、蕲州、黄州内の各県に茶産地があると「八之出」に記されている。さて茶の栽培と製造は人に寄って技術が伝わって行く。この楚文化、楚人が生息している土地はいったいどのような民族構成だっただろうか、楚人の母体は漢民族なのか、南方土着民族なのか、様々の質問が思い浮かぶ。

『茶経』の唐代の淮南は淮河南岸沿いの地域で、現在では安徽省と江蘇両省の中北部辺り。淮水(淮河)を境に北は黄土の乾燥地で,淮南以南の地域は「江淮丘陵」地のモンスーン気候帯であり、気温温暖かつ雨量豊富。茶栽培に大変適している。故に歴史名茶が多い。

③【茶の他に焼き物と茶釜の産地】

唐代淮南茶区の「寿州」には焼き物の窯元がある。『茶経』四之器に「壽州瓷黄、茶色紫」、「碗は、越州が上、鼎州、婺州が次ぐ、岳州が上、寿州、洪州が次ぐ」との記述があり、唐の時代に「寿州焼」があるそうだ。

また陸羽の同時代詩人・顧況の『茶賦』に「舒鉄如金之鼎,越泥似玉之甌」と詠んでおり、「叙鉄」とは、茶産地である「舒州」の鉄製品ー鼎のことを言及し、どうやら淮南道の「舒州」地方の鉄制「茶鼎」も名物らしい。

④【揚州は記録漏れ】。『茶経』には記されていないが淮南道管轄下の揚州も茶を作っている。史料として唐が滅んだすぐ後、五代毛文錫《茶譜》中“揚州禅智寺,隋之故宮,寺旁蜀崗有茶园,其茶甘香,味如蒙頂”と記されており、揚州禅智寺周辺茶園の茶は四川の蒙頂茶に肩を並べる程の美味しさと賞賛している。なお、この「揚州禅智寺」は唐宋明時代に詩人たちがよく訪ねる名寺で沢山の名詩が現存されている。開山記録は見当たらなかったが禅寺であることは確かである。唐代の禅寺周辺に茶の栽培と製造が行われていてその味は四川の蒙頂茶にも似ているほど美味しいと、場所は「寺旁蜀崗有茶园」、寺傍の蜀岡に茶園があると(寺の所有かどうか、分かりかねるが)書かれており、これは唐代禅寺茶の研究として注目すべき内容だと思う。

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P.S:淮南道の茶は2023年6月4日(日曜日)【『茶経』を読む茶会】のテーマになります。