唐末五代・歴代河北廬龍節度使 | 船橋市茶文化資料室

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参考資料:(唐)李吉甫《元和郡県図誌 》&唐代の行政十道地図(クリックをして記事を読める)

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1 「自古燕趙多豪傑」

黄河の北に位置するため、河北省は唐の時代から「河北」と呼ばれるようになった。この地域は古代は冀州とよばれていたため、現在河北の略称「冀」はその由来である。中国語でji4。戦国時代は現在の河北省の北部が燕国で、南部が趙国であったので、「燕趙」もまた河北省の異称として知られている。河北省で鮮明な印象を残す観光スポットと言えば万里の長城の他、中国政治の裏舞台である「北戴河」も、 渤海湾に臨む海辺都市として国内では大変人気のビーチリゾートである。

 

「自古燕趙多豪傑」という言い方はご存じだろうか。「古来から燕・趙地方は英雄豪傑が輩出した地」との意味で、河北省は尚武の土地柄として知られている。中国の歴史に名を残す武将と言えば戦国時代の廉頗が最も知名度が高い。廉頗戦国七雄の一つー趙国の部将である。三国時代蜀の初代皇帝になった劉備は河北省保定市涿州の出身。劉備の挙兵に当初から付き添った張飛も同じ涿州。同じ劉備の部将趙雲は石家庄市正定県の出身。

ところで武勇に優れている一面の裏でけんか好き、凶暴、兵変(クーデター)が多いという土地柄でもある。唐末の幽州蘆龍軍の歴代節度使の記録を見るとよくわかる。

 

2そもそも「節度使」の名称は、​​​​​​

そもそも「節度使」という名称は、唐代の辺境異民族にそなえて設けられた軍の指揮官。朝廷から「節度使」の職を受ける際に、「旌節」(軍旗など)も与えられ、朝廷のために辺境の敵と戦う責任を持たされている。つまり唐王朝の国境を守ってもらうためのポストであった。710年に初めて河西節度使が設置され、その後玄宗の治世になり、異民族対策に合わせて10の節度使が設置された。この時の「范陽」は唐末の蘆龍節度使。治所は幽州、現在の北京。

 

趙州禅師は778年、安史の乱後に生まれたのだが、20代から各地を行脚し、乱世の暮らしを肌で感じていただろう。では“大王曩劫眷屬倶是冤家” (大王(燕王)のご先祖様の中でかたき同士がほとんどで)の実態を覗ってみたい。

 

3歴代盧龍節度使(燕王)

蘆龍節度使は范陽節度使、幽州節度使ともいう。712年に設置された、玄宗時代の十節度使の1つ。治州は幽州(現在の北京)。安禄山の勢力基盤の1つでもある。

 

編纂史料によって初代盧龍節度使に登場した節度使は李懐仙。鮮卑族。生まれは営州柳城(今の遼寧朝陽市)。在任は763-768年。元は安禄山の部将であったが、安禄山の死後、唐朝に帰順し、763年、代宗(729-779)から幽州廬龍節度使に封じられた。( 广德元年(763年)閏正月十九日,唐代宗任命李懐仙為幽州大都督府長史,検校侍中,幽州、廬龍等軍節度使….《旧唐書·卷143·列伝第93》)(李懐仙と同時期に同じ安禄山の旧臣張忠志(後に李宝臣)と田承嗣軍もそれぞれ恒陽節度使(成徳節度使)と魏博節度使に任じられ、地方藩鎮勢力として河北三鎮(別称河朔三鎮を)の形成はこのころからである。)

歴代河北廬龍節度使
763年 初代廬龍節度使 李懐仙 朝廷任命

768年 李懐仙は部下朱希彩とその兄弟に殺害され、盧龍の支配権は朱希彩へ。

768年 朱希彩が廬龍節度使。酷吏で4年後民兵に殺される。

772-774年 朱希彩の兄弟朱泚が廬龍節度使となる。

774-785年   朱泚の弟朱滔が廬龍節度使。785年朱滔が病死。従弟の劉怦に節度使を譲るが、劉怦も同年病死。息子劉済が廬龍節度使を継ぐ。

785-810年  劉済が廬龍節度使となる。26年にわたる廬龍節度使の執政は幽州が比較的に安定した時期であったが、810年息子劉総によって毒殺される。

810-821年  劉済の次男劉総が廬龍節度使。劉総が父のみならず兄をも殺害し、廬龍節度使の地位を奪って執政11年。

821-826  朝廷に任命された蘆龍節度使張弘靖が部下によって殺害され、朱克融が蘆龍節度使となる。執政5年目の時、廬龍軍クーデターが起こり、朱克融と長男が殺される。朱克融の次男朱延嗣が蘆龍節度使となる。凶暴と虐待などで悪評が高く同年都知兵馬使李再義(賜名されて載義)によって殺害される。

826-831 李載義が親唐朝的な立場をとり、朝廷のため反乱軍平定にも参加した。831年軍内クーデターによって李載義は逐われ、反唐勢力部将の楊志誠らが蘆龍の指導権を握る。

831-834  朝廷やむを得ず楊志誠の蘆龍節度使を認める。楊志誠が蘆龍節度使となる。

834-841   834年蘆龍軍は兵乱。楊志誠が追放される。史元忠が蘆龍節度使となる。

841-849   841年蘆軍は兵乱。史元忠が殺され、兵乱を討伐した張仲武が蘆龍節度使となる。朝廷承認。張仲武は在任中病死。

850-872   允伸が朝廷承認によって蘆龍節度使となる。20年以上の執政は、張允伸が軍務に精勤し、領内が戦乱すくなく、百姓の暮らしも安定していたという。張允伸88歳在任中、病死。この頃趙州禅師が河北中部趙州にある観音院に住み始める。

872-875 朝廷が張公素を蘆龍節度使に任命する。張公素は横暴な人物で在任中評判が悪く875年旧回鶻人、張仲武の捕虜であった投降将軍、李茂勳がクーデターを起こし、張公素を京師に逐った。

875-876 李茂勳が自立し、蘆龍節度使の指導権を握る。

876-885 李茂勳の病気に伴い、息子李可挙が蘆龍節度使の地位を譲り受ける。唐朝を揺るがした大反乱―黄巣の乱(875年〜884年)がこの頃にあった。李可挙は朝廷に反乱を起こした沙陀族の李国昌を討伐し、反乱軍平定に貢献した。885年部下李全忠の裏切りに遭い、殺害される。

加筆したいことは、北京の古刹―「法源寺」をご存じの外国人が少ないかもしれないが、北京の人ならどなたでも知っている名刹だ。西暦645年、唐朝第2代皇帝太宗李世民によって建てられたこのお寺が200年後李可挙の時代では、戦乱や火災などと廃れてきたため、李可挙が「憫忠寺」(当時の名前)の復興に大変尽力したとの記録がある。仏教庇護を行った蘆龍節度使である。885年は趙州禅師が趙州観音院に住み始めてから20年間が経ち、107歳の頃である。

885-886 李可挙を殺害した李全忠は自立し、盧龍節度使の任に就くがすぐに死亡してしまい、蘆龍節度使は息子李匡威が継承した。

886-893 李全忠の息子李匡威が蘆龍節度使となる。

 

つまり李可挙を殺害した李全忠は

『趙州真際禅師行状』の中で趙州禅師と対話する「燕王・李匡威」の父親である。趙州禅師が“大王曩劫眷屬倶是冤家” (大王のご先祖様の中でかたき同士がほとんどで)と言ったのは、こういった背景ではと推測する。

 

それにしてもこの歴代蘆龍節度使のリストをみると大半の場合、部下が上司を、息子が父親を、弟が兄を殺害するという連続だ。豪傑が生まれる燕趙の地は梟雄(きょうゆう)の地でもあると言わざるを得ない。

 

この乱戦の中で一心不乱に修業し、我が道をゆく趙州禅師の偉大さを感じる今頃である。

北京琉璃廠にある本屋さん「中国書店」。帰省すると必ず行くところだ。