『趙州真際禅師行状』5須臾左右請師為大王説法。師云大王左右多、爭教老僧説法 | 船橋市茶文化資料室

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秋の半ばという意味で今は丁度仲秋。月が出れば観月、雨が降れば聴雨。どこかの国の大統領がコロナ陽性のニュースを聞きながら朝の読経をする。つれづれなるままに 日暮し照れ照れ

『壇経』〔19〕曰く「外離相即禪。内外不亂即定」(外の相を離れるのは即ち禪、内亂せずいられるのは即ち定)

 

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『趙州真際禅師行状』5須臾左右請師為大王説法。師云大王左右多、爭教老僧説法20201005

須臾左右請師為大王説法。師云:“大王左右多、爭教老僧説法”。乃約令左右退。師身畔、時有沙彌文遠。高聲云:“啓大王、不是者箇左右”。大王乃問:“是什麼左右?”對曰:“大王尊諱多、和尚所以不敢説法”。燕王乃云:“請禪師去諱説法”。師云:“故知大王曩劫眷屬倶是冤家、我佛世尊、一稱名號、罪滅福生。大王先祖、纔有人触著名字、便生嗔怒”。師慈悲非倦。説法多時。二王稽首讚嘆。珍敬無盡。

⑮左右。一般的に側近という意味。ここでは燕王のご先祖、親族など。

⑯大王曩劫眷屬倶是冤家。曩劫:仏教用語。前世の長い、長い間。眷屬:けんぞく。一族。冤家:敵同士。

⑰二王:燕王と趙王のこと。

訳(青字)

しばらくして側近の者が大王のために説法をお願いしたら、師は“大王に左右(側近)が多いゆえ、説法はいたしかねます”と言った。すると大王は側近の者に退ってもらうことにした。そこで師のそばに文遠という沙弥が、高い声に言った“大王に申し上げます。その側近ではございません”。大王が“どの側近なのだ”と尋ねると、文遠は“大王のご先祖様の避諱(ひき)のことです。大王には御忌(おんいみな)が多うございます。老師が説法をはばからなければなりません”そこで燕王は言った。“禅師よ、どうぞ忌みなを気にせずに説法していただきたい”。師は言った“さればこそ大王のご先祖様の中でかたき同士がほとんどでわが仏世尊は、一度その名号を称えれば、罪が滅し、福が生じます。しかし大王の先祖は、その諱(いみな)を犯すものがあれば、すぐに怒りを生じます”師は慈悲をもって倦むことなく長い時間説法した。二王は老師に稽首礼し、賛嘆の言葉を述べ、尊敬の念に堪えない様子であった。

背景

趙州禅師の晩年と接点があった盧龍節度使(燕王)

趙州禅師(778-897)の晩年(858~897)は唐末藩鎮体制の最盛期である。当時の河北三鎮の支配地域は現在の河北省とその周り遼の遼寧省、河南省、陝西省、山東省まで及んでいる。『行状』の中で趙州禅師が “老僧濫在山河”(わしはもうみだりにご領内に住んでいるだけで)や、 “大王曩劫眷屬倶是冤家”(大王のご先祖様の中でかたき同士がほとんどで)などと述べていることからみて、実は観音院の北方にある燕王のことは、趙州がよく知っている、いや、精通しているではないかと気づく。

個人的に“大王曩劫眷屬倶是冤家” (大王のご先祖様の中でかたき同士がほとんどで)とはということなのか、気になり調べてみることにした。 つづき→『唐末五代・歴代河北廬龍節度使』

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北京の郊外、昌平県にある農家の門。

燕王という名前は遡って中国戦国時代に燕により作られた薊が起源である。