『趙州真際禅師行状』1師即南泉門人也。俗姓郝氏。本曹州郝郷人也。諱從諗。 | 船橋茶文化資料館

船橋茶文化資料館

旧・Jun’s茶日記blog
日本茶インストラクター&リーダー
悠々茶館主催【茶書を読む月茶会】書籍
2020-2024/2中国唐代・陸羽『茶経』
2024/3~現在・『茶の民族誌ー製茶文化の源流』

テーマ:

『趙州真際禅師行状』1

師即南泉門人也。俗姓郝氏。本曹州郝郷人也。諱從諗。鎮府有塔。記云。師得七百甲子歟。値武王微沐、避地徂徠。木食草衣。僧儀不易。師初隨本師行脚。到南泉。本師先人事了。師方乃人事。南泉在方丈内臥次、見師來參、便問:近離什麼處。師云:瑞像院。南泉云:還見瑞像麼。師云:瑞像即不見、即見臥如來。南泉乃起問:有主沙彌、無主沙彌。師對云:有主沙彌。泉云:那箇是你主。師云:孟春猶寒。伏惟和尚尊體、起居萬福。泉乃喚維那云、此沙彌別處安排。

 

注:

①   趙州真際禅師:趙州和尚のこと。中国唐代の禅僧(778-897)。僧名は從諗(じゅうしん)。「真際禅師」は入滅後、地域の権力者・趙王王鎔(874-921)に贈られた諡。現在柏林禅寺の「趙州和尚舎利塔」(俗に柏林寺塔)は、元の時代に建てられ、塔名は「「特賜大元趙州古佛真際光祖国師」。柏林寺塔についての記事→

②行状:生前の行動や業績・履歴などを記したもの。ここでは趙州和尚の伝記を意味する。

*趙州和尚の生涯について最も古い史料は趙州和尚の入滅55年後編纂された『祖堂集巻十・趙州和尚』(五代後唐の時代。952年)。最も詳しい史料はその一年後(趙州和尚入滅56年後)に、書かれた『趙州真際禅師行状』(略して『行状』)。この『行状』の著者は佚名。『行状』の最後に“この行状は後唐保大11年(953)年、ある修行者が東都(現在揚州)の東院の恵通禅師を訪ね、趙州和尚ことについての話を伺い、書き留めたこと”と書き残されている。つまり、恵通禅師がこの『行状』の口述者である。恵通禅師は趙州の弟子あるいは孫弟子かと思われるか、詳細について史料がない。趙州和尚の生前について『宋高僧伝』、『景徳伝灯録』、『五灯会元』の中にも記載されている。

③南泉:趙州和尚の師、南泉普願のこと。748-835。

④曹州:現在の山東省荷澤市。臨済宗の開宗、臨済義玄禅師も曹州(今山東省荷澤市)の出身。趙州和尚の出身地には諸説がある。『祖堂集・趙州和尚』には “趙州和尚,嗣南泉。在北地。師諱全諗,青社淄丘人也。”とあり、“青社”は古代青州、現在山東省濰坊市青州を指す。青州は今「青州古城」遺跡があり、『行状』の曹州とはかなり距離がある。

⑤値武王微沐、避地徂徠。「微沐」は恩恵のないこと。唐武宗時代に起こった廃佛事件のことを婉曲に記している。その時“師が徂徠の地に疎開していた”。徂徠の地は現在の山東省泰安市にある徂徠山辺り。現在徂徠山に趙州和尚を偲ぶ「趙州庵」がある。

⑥師初隨本師行脚。到南泉。得度の師(名前は不明)に就いて初めて行脚に出かけた。安徽省池陽の南泉禅師のところに着く。南泉普願(なんせん ふがん、748年 - 835年)は、中国の唐代の禅僧。俗姓は王。 鄭州新鄭県(河南省鄭州市新鄭市)の出身。47歳で(795年)池陽(現在安徽省池州市貴池区)の南泉山に禅寺を構え、30年あまり、南泉山を下らなかったという。趙州は出家してから初めて師と一緒に行脚に出かけ、年齢は20祭未満、18歳辺りである。

⑦本師先人事了。師方乃人事。「人事」は初対面。禅寺の方丈と初対面の時の礼法。南泉禅師の寺に着いた二人は、まず趙州和尚の師が南泉禅師に挨拶をし、それから自分の師(慧通禅師の口述)、趙州和尚がまた挨拶の礼をした。

⑧南泉在方丈内臥次、見師來參、便問:近離什麼處。師云:瑞像院。南泉云:還見瑞像麼。師云:瑞像即不見、即見臥如來。南泉乃起問:有主沙弥、無主沙弥。師對云:有主沙弥。泉云:那箇是你主。師云:孟春猶寒。伏惟和尚尊體、起居萬福。(『禅語録傍訳全書十・趙州録II』)

その時、南泉方丈が方丈室で横になっていた。(初対面なのに寝たまま挨拶を受ける南泉もかなり自然体な人照れ爆  笑)師がやって来るのを見て質問をした。

“どこから来たか”(南泉が寝たまま訊いた)

“瑞像院”と師が答えた。

“瑞像を見たか”(南泉)

“瑞像を見ていませんが、寝ている如来様をみました”

そこで南泉は起き上がってまた訪ねた。“おまえは主人のある沙弥か、主人のない沙弥か”

“主人のある沙弥です”と師が答えた。

“おまえの主人はどなたか”と南泉がまた訊いた

“孟春とは言え、まだ寒いでございます。伏して願う、老師の尊体の起居が健やかに万福でありますようにお慶びを申し上げます”と師が言った。(18歳の沙彌趙州、もう南泉のところで修行すると、心の中で決めていたのではないか)

⑨泉乃喚維那云、此沙彌別處安排。

「維那」は僧職の一つ。南泉は趙州の法の器量を感じ、維那師に“この小僧、「別処」(特別席)、他の沙彌と違う席に置きなさい”と言いつけた。

 

参考史料:

①『禅語録傍訳全書十・趙州録II』

②《宋高僧传》卷十一普愿本传:“贞元十一年(795),挂锡池陽南泉山。”

③《祖堂集》卷十六即曰南泉“在池州”。在中国历史上,池陽と池州はまったく違う場所である。池陽は古県の名。治所は今陕西泾陽西北。北周建德中(572~578)廃州。池州于唐武德四年(621)に設置され,治所は秋浦(今安徽貴池)。