コロナ禍で外出できない毎日の中、私はステイホームをエンジョイしようとオンラインヨガとインド哲学のオンラインワークショップの参加に勤しんでいた。
そこで、ワークショップで学んだ事柄を、復習を兼ねてまとめていきたいと思う。思考の整理を目的に。

これはその第4弾。

<BTC卒業生のためのヨガ哲学勉強会パートⅡ>2020年7月29日受講
スタジオヨギーのヤスシ先生によるBTC卒業生のためのヨガ哲学を復習する講義。パートⅠからⅢで成り立つ。Ⅱでは、パタンジャリのヨガスートラについて学んだ。
BTCとはスタジオヨギーのヨギーインスティテュートのトレーニングコースの一つで、ヨガを基礎から学べる講座。いうならばエクササイズのヨガからライフスタイルのエッセンスとなるヨガへと変わる第一歩の講座。

<ヤスシ先生のこの講義への思い>
BTCでひと通り学んでいるヨガ哲学であるが、ヨガ哲学へ戻ると必ず新たに学ぶことがある。ヨガの教えは人間的に成長しないと理解できないものがたくさんある。準備ができていない人には分からない部分が多く、準備ができると理解が深まる。ある種の感動が伴ったときに学びが深まると感じる。
人に説明できるように学ぼう。人に説明できてこそ理解をしていると言える、人に説明することは学びを深めることにとても効果的である。

<はじめに>
オーストリアの学者の研究では、パタンジャリのヨガスートラは紀元後325年頃、ハタヨガは11世紀頃生まれたと言われている。

パタンジャリのヨガスートラは瞑想の手引書として書かれたもので、仏教とジャイナ教の教えの影響を受けた本であると言われている。ヴェーダではブラフマンとアートマンが説かれているが、ヴェーダ後に生まれた本なので、ヴェーダの教えを踏まえた内容となっている。「スートラ+解説書」として構成されている。

イギリスの植民地時代に、イギリス人に「THE YOGA」として捉えられ、ベストセラーとなった。

<本の構成>
4章から成る。
第1章:瞑想の状態の説明、三昧の説明
第2章:ヨガの実践
第3章:ヨガの実践を続けていくと成就していく段階の説明
第4章:kaivalya(絶対俗存位)状態についての説明、いわゆる真我の説明

<主な節の説明や解釈>
このワークショップでは、第1章と第2章の中から、主な節について学んだ。

□第1章
この章で、パタンジャリが言いたいことは完結している。ヨガスートラと言えば、第2章以降に出てくる八支則が有名で、ヤマ・ニヤマを良く耳にするが、それがパタンジャリの一番伝えたいことではない。第1章の補足が2章から4章で書かれている。

第1章1節:この本でいうヨガは瞑想を意味する。

第1章2節:CHITTAは英語ではmindと訳す。日本語では「思考」が近い。「心」と訳すこともある。CHITTAは低次のmindを意味する。生存に必要なmind。逆に高次のmindは「私は何者か・・・」を捉える思考。「止滅」とは何を止滅されるのか・・・梵我一如から外れる心。

第1章3節:「見る者」とは身体が経験しているものを見ている=「プルシャ」や「アートマン」のことである。
瞑想をするときには対象が必要だが、その対象物は呼吸やマントラではない。「自我」、「プルシャ」、「見る者」に集中する。集中している側と集中されている側が同化しているということは私と真我が同化が持続している状態。対象と対象の区別がつかなくなる状態になることを瞑想で行う。

第1章12節:修習(アヴィヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)にて心の作用を止滅する。以降で修習と離欲という方法を提示している。

第1章14節:没頭すれば離欲でき、修習できる。

第1章27節:自在神(イーシュヴァラ)は自分の内にある神、自分の中にある本質。その後発生したタントラではシヴァに当たる。

□第2章
この章では、「とはいっても簡単に『心の動きを止滅すること』は難しい。『修習と離欲』を繰り返せば良いと言われてもなかなかできるものではないよね、じゃあこんなことから始めてみたらどう?」というような具体的な行動が説明されている。

第2章1節:クリヤヨガは行為を指す。それは以下の3つからなる、苦行(タパス)、学ぶ(スヴァディアーヤ)、祈る(イシュヴァラプラニダーラ)。

第2章4節:無知・無明(クレーシャ)は何から始まるか、あなたがなにものかを理解していない、自分が何もかを知らないと、違うアイデンティティをつかむことになる。それを守り、執着することになる。生きることへの執着が生まれ、死を恐れる。

第2章5節:無明を説明する逸話。暗闇を歩く旅人がロープを蛇と見間違う話。

第2章30節:ヤマ・ニヤマの本質は社会規範として伝えているのではない。ルールを守りなさいと言っているわけではない。
非暴力(アヒンサー)はnon-violence(非暴力)と訳されることが多いけど、non-harming(害を与えない)と訳す方が本来の意味に合致している。

ー八支則の3段階ー
①bahiranga:ヤマ、ニヤマ、アサナ→外面的な取り組み
②antaranga:プラーナヤーマ、プラティヤハーラ→やや内的な取り組み
③samayama:ダーナラー集中、ディヤーナ集中の持続、サマーディ三昧、没入→内的な取り組み

第2章32節:
清浄→人や物は汚れていくもの。
知足→足りているということを練習する。
今の状況下を好む、感謝できるものを探す、どんな辛いときでも。自分の人生は自分の責任である。自分が幸せになる。自分が1番落ち込んでいるとき困っているとき、まだ感謝できるものはないかを探す。それが思いつかなかったときはシリアス。満ち足りていること、幸せであること、これでよしと思えることを練習していく。苦行(タパス)はmindを純化してくれる。備えるべきリストとして考えても良い。

第2章46節:ここでのアーサナは瞑想のための座り方について説いているのみ。11世紀以降にハタヨガの呼吸法やアサナが登場する。

第2章49節:調気プラーナーヤーマは呼吸法ではなく、呼吸の仕方を指している。カパラバティやナーディショーダナなどはこの後の時代に生まれた。

<印象の残ったヤスシ先生の言葉>
□瞑想はだれでもできると書かれている。

□私たちは三昧没入のかけらの時間を生きている、生活の中で喜びの頂点を感じているのだと思う。気持ちの良いお風呂に入ったとき、おいしいものを食べたとき・・・、それがサマーディの瞬間。

□人間としての次の進化とは、頭の中身の進化。源に還ることができることが進化だと思う。いかに遠くにいくのではなく。気付きを待っていてはだめ、気付く力を持とうして生きていくことが自己認識力を高めていくことにつながる。関わっていくものが自分を高めていくものかどうかを見極めて選択していく。こんなコロナ禍だからこそ、人間力が試される。自分の責任のないところで、苦難をどう捉えて行く必要がある、サントーシャが必要、何に感謝するかという。

<このワークショップから学んだこと>
このワークショップを受講する前に、3日間に渡るカルロス先生の
ヨガスートラのワークショップを受けていたので、そのとき通訳をされていたヤスシ先生がどのように受け止め、どのように解釈したのか、そして私たちに何を伝えてくれるのかととても興味深かった。
一気にヨガスートラの理解が深まった気がする。構成を知ることで、本を読むだけでは難解であった部分がすーっと腑に落ちた。じっくりとヨガスートラをまた読んでみたいと思う。
瞑想が難しいと思いながらも日々続けられているのは、あの至福の瞬間をまた味わいたいと感じていたからなのかもしれないと思った。心が落ち着き、光輝いている時間・・・あの感覚。
カルロス先生もしきりにおっしゃっていた「自己認識力が必要で、とても大切だということ」、そしてその高め方をヤスシ先生の言葉で聞けたところが、私のこれからの人生の指針になると思う。「気付きを待っていてはいけない。気付く力を持とうとして生きる。」ということが。


京都嵐山の翠嵐に泊まったときのお部屋。テラスに温泉が付いていて、湯に浸かる瞬間は至福のときでした。渡月橋がチラッと見えました。