6.第二界
(忘れてしまえばいい)
チッタは船べりを握り締め、頭の中から記憶の欠片を追い出そうと首を振った。
夜の場所。学校。アンカー。眷属たちの名。
(関係ない、もの、だ)
この船の上にあるものだけが、《ほんとう》の事なのだから。
銀青色の輝きを持つ養い親と、彼女と過ごした魚の谷だけが、チッタにとっての真実の全て、世界のすべてなのだから。
(あんなものは、幻だもの。消える、すぐに消えてしまう)
マトシャに導かれて覗いたどこかの《界》の欠片と同じ、チッタの中を通過してゆく幻に過ぎないのだから。
チッタは必死に頭を振った。
なのに、断片でしかない記憶は鋭さを増し、棘のようにチッタの内側に突き刺さって消えようとはしなかった。
(どうして)
チッタは狼狽する。
捕らえようとする記憶はいつでも指の間をすりぬけるのに、何故。
(なんで、忘れられない?)
眼を閉じると、薄暗い建物のまとった独特の空気が蘇ってくる。チッタは必死に眼を開いて、広がる海原を見据えた。
ひたひたと打ち寄せる水の底では、星々が輝きを放ち楽を奏でている。
(あの、どこかに)
あるのだろうか。あの世界が。
湿った匂いのする薄暗い校舎と、そこで妙な表情で笑っていた男──。
(ニ・シ・オ)
耳慣れない、なのに懐かしい言葉の連なりが頭のなかでぐるぐると回る。
元気の良い魚のように、その単語がチッタの口元へ泳ぎだした瞬間。
「──マトシャ!」
チャナの悲鳴が、唇の上の言葉を打ち砕いた。
桃色の蝶々が、蒼白な顔で海の底を指差していた。
シャラン、鈴の音がする。
シャララン、水の底から何度も鳴り響き、海をふるわせている。
チッタは養い親を見た。彼女は長い髪が水に浸かるのも気にせず、チャナの指の示す先、海の底の一点を覗き込んでいる。
「壊れていく。《界》が」
かたわらに並び、チッタもその光景を見る。
暗い水底を飾る星が、ほろりと崩れては消えているのだ。
しゃらん、また音が鳴り響く。夜の底を震わせるその音は、海の底から発せられている。
ざらりと一つの星が崩れた。
水に滲むようにして、星の持っていた色が広がる。淡く淡く、仄かに光りながら。
「……っ」
その瞬間、チャナが何事か呟いて息を飲んだ。
チッタはそれを聞かないふりをする。
(蝶、)
壊れ行く星の影からひらりと淡い影が飛び退る。
しかしそれは、一匹ではない。
最初に見つけた水色の一匹の後を追うように、緑色の影がふわりと現れる。
続いて桃色の、紫色の、灰色の蝶が、次々と現れる──壊れた星から。
次々と壊れてゆく、砂糖菓子のような星々。そこから舞い立つ、色とりどりの蝶々。
いつもはどこか寂しげな水底の風景が、艶やかな輝きに彩られている。
一瞬だけ見とれ、それからチッタは恐ろしさに身震いをした。
《──何故そんな生き物をかばうのだ》
《それが滅びをもたらすものであると、お主も魚ならば解らぬはずが無かろうに》
谷の長老たちの声が、眩暈の奥から蘇ってくる。
あの日、チャナの名前すら知らないまま、ただ眼前で迫害が行われるのを見過ごせなくてチッタは彼女を庇った。可愛らしい生き物を、どうして争いを嫌うはずの《魚》たちが殺そうとするのかと。
その彼に投げつけられた、同属たちの冷たい視線、そして怒りの言葉の意味が、ようやくチッタの心の底に届いた。
蝶は、滅ぼすものなのだ。
界を、星々を。