5.第二界

 手のひらはつるんとして、しわ一つ無かった。
 全然見覚えの無いその形にぎょっとし、
は顔をしかめた。
 しかし自分の意思に応えて指は動き、ぎゅっと握れば手のひらの内側に熱が生じる。

「なにしてんのよ、馬鹿」

 可愛らしい声が毒を吐く。

 彼は声の主を見る。桃色の髪、桃色の翅、小さな妖精のような姿。

「……蝶。……ニシオ?」
「ああ? 誰よそれ。ちょっとマトシャ、また溺れてるんだけどー」

 彼の中で迷っていた言葉がするんと抜け落ち、違う言葉が変わりにそこへ転がり込んだ。

「チッタ?」
「大丈夫。眼、覚めた。今はどこ?」
「まだ西の海域よ。このままこの海を、北回りに進みましょう」
 マトシャの声音が、少し柔らかくなったような気がした。
 チッタは船べりに手をつき、空に銅の色を放つ須弥山を睨みつけた。
 眠りながら語っていた言葉は抜け落ちたが、幾つかの断片は彼の中に残っていた。珍しいことだ。いや、きっと初めてのことだ。
 魚の谷、あの白い洞窟にいたときから、マトシャは幾つもの界の欠片をチッタに見せた。言葉の異なる様々の世界は、酩酊の渦にチッタを巻き込み、何一つ残さずどこかへ消えた。
 なのに、憶えている。暗い建物にいた誰かから聞かされた、幾つかの事象を。
「ずっと夜の場所って、ある?」
「さあ、……どうしてそんな事を聞くの?」
 マトシャが白い顔をチッタへ向ける。髪の毛と同じ銀青色のまつ毛の先で、ほのかに光が瞬いている。
「あるの? そこへ、行ってみたい」
 微かな光の漣が、マトシャの身体を駆け抜けた。
 チッタはどきりとする。何がマトシャを喜ばせたのだろう。そこには、何が隠されているのだろう。
「行けないわね、今はまだ」
「まだ、なの?」
「ええ、そうよチッタ」
 チッタは口を結んだ。
 という事は、いつかは行けるという事だ。
「それは」
 いつ、と問おうとしてチッタは止めた。
 それは、《界》へ潜っても、そこに散らばる記憶を《読む》ときも、溺れなくなったなら、だ。つまりチッタが「自由に泳げるようになったら」だと気づいたからだ。
「いつか一緒に、行ける?」
 恐る恐る訪ねた。
 マトシャの身体を、漣が再び走り抜けた。けれど薄い唇は三日月の形に微笑んだだけで、ええともいいえとも言ってはくれなかった。
(泳げないほうがいい。ずっと泳げないまま、期限が来ればいい)
 チャナが消え、二人きりでまた、あの谷へ。
(帰りたい)
 チッタは俯いて、暗い海を眺めた。
 星々は変わらず水底で輝き、耳には聞こえない歌を奏でるように廻っていた。