1.第三界

 もう少し追求してみるべきだろうか。
 窓の外に並ぶヒマラヤ杉の、緑と灰色の中間のような色を眺めながら、千島真志は眉を寄せた。
 あの《界》で見た森の方が、断然鮮やかだった事をすっかり思い出してしまったからだ。 こちらの世界の人間に説明するなら、あれは「夢の中で見た夢」であるはずだ。現実よりも不確かな夢、その中で見た更に不確かな夢。
 で、あるにもかかわらず。
 夢の中の人格である《チッタ》が見たものが、この世界の《千島真志》の脳裏には鮮明に残っている。
 ハイビジョン撮影された国営放送の紀行番組でいつか見た、南国の鮮やかな森に似ていたと思う。いや、むしろあの鮮明さは、一面のフラミンゴの湖を見たときの衝撃に似ているだろうか。
 瞬きをして、硝子越しの梢をじっくりと眺める。
 そこから目を転じて、薄暗い校舎の板壁や漆喰の白い色、自分より前の席に座る同級生たちの思い思いの服装。
 数だけを言うならば、色彩は同じだけ溢れている。
 なのに、どうして不鮮明だと感じるのだろう。
(こっちが、夢の中みたいだ)
──感情すらも。

 胸の奥に残る感情のかけらを、真志は心の中で転がしてみる。
 そんなものが自分の内側に存在していた事に、まず驚く。クールである事を標榜していたつもりはないし、目指したつもりも無い。けれど、夢の中で彼女にすがりついた、あんな強い気持ちを現実では抱いたことが無い。
《──夢の中で恋が出来るなら、大丈夫だ》
 西尾の言葉が、ふと思い浮かんだ。けれどそれは何の保障にも慰めにもならない。
 現実に、恋などしてはいない。あんな風に激しく心を動かしたこともないのだから。
(どちらが、ほんとうか)

 泳がせた視線が、ぱちりと誰かのものと合った。
 あれと思った瞬間、相手は何事も無かったように目をそらし、窓の外へと顔を向けてしまった。
 真志の胸が、嫌な感じにざわつく。
 こんな風に誰かと目が合うなんてことは、今まで経験したことなどなかった。それが、この数日異常なほど増えている。
 用件以外言葉を交わしたことが無いクラスメートたちが、何かを探るように、確かめるように真志を覗き見ている。
(一体何だっていうんだ。……あいつまで)
 まだ窓のほうを向いたままの薄茶色の後ろ頭を睨みながら、真志は椅子の上で居心地悪く座りなおした。西尾の表情だけは、他の連中と少し違っていた。探るのではなく、心配するような、けれどどこか事態を楽しんでいるような、不思議なものだった。
 何だってんだ。もう一度心の中で呟くと、合わせたように終業のチャイムが鳴った。

8. はざま

 ぷ つ ん

 突然、何かが断ち切られる音が響いた。
 足元にあったはずの大地が無くなり、私の身体は宙を落ちてゆく。
 空を飛べるはずなどない。わたしは、茶色なのだから。
 大地に縛られ、空に拒まれる、緑色ではないもの。
 だけど他にどんな選択肢があっただろう。望むものになれない私が、望むものを手に入れる、どんな手段が。

── 落 ち る

 

 ど す ん
 
 足が突然動いた。
 大地を踏みしめるようにあがいた足は、しかしどこにもたどり着けずに空をかいて、何か柔らかなものを蹴飛ばした。
 がくんと反動で身体が動き、そして、目覚めた。

 ぐるぐると迫ってくる茶色の崖の様子や密林の鮮やかな緑が、まだ目の裏で渦を巻いている。うっかりすれば目を回して、酔ってしまいそうだ。
「……起きた」
 誰から見ても明らかな言葉を、チッタはあえて口にした。そうしないと、自分が目覚めたことが確かなものにならないような気がしたのだ。
 
「起きた」
 もう一度、声をはっきりと言ってみた。
  しかし、その言葉の間抜けさに突っ込む言葉も、慰めの声もない。
(あれ? ……と、……は?)
 傍らにいるはずの人の名前が、さらりと砂のように消える。
「……誰、だ?」
 ぼんやりと浮かんだ顔は、やはり捕まえる間もなく波にさらわれて消えてしまった。
 一瞬恐慌に陥りそうになった彼を救ったのは、コチコチと規則正しく響く機械の音だった。机の上に置かれた卵形の目覚まし時計が、自分が今どこにいるのかを、彼に教えてくれたのだ。

(夢か、夢を、見ていたのか)
 彼、千島真志は息をそろそろと吐き出し、蹴飛ばしてしまった布団を足でたぐりよせた。
 綿に残った自分の体温が、泡立った気持ちを鎮めてゆく。
 夢を見ていたのだ。ただ、それだけの事だ。
 目覚めるなり全てが消えてしまうくせに、その時の気持ちや「誰かがいた」という気分だけが消え損ねて残ってしまうのも、全て夢だからなのだ。
 暖かな布団を被って、真志はもやもやとした夢の残り香を自分の中から追い出そうとした。けれど、眼を閉じればまたその夢につかまってしまいそうな気がして、結局起き出すしかなかった。
 大きくあくびをしてから、正志は机の上のパソコンに向かう。
 窓から差し込む曙光はまだ僅かで、ディスプレイの四角い輝きのほうが、確かなものだった。

7.密林

「望むのは、愚かしいことだ。風は花にはなれず、花は空にはなれない。望むことを忘れることこそ、幸福になる最短の道なのではないか」

 緑色ならば何でも良い、むしろ茶色でさえなければ、わたしはどんな色だって喜ぶだろう。
 空へ向かってぷつんと途切れた道を恨みがましく眺めたあと、わたしは首を振って飛んで行ってしまったアルダヤの影を意識から追い払った。
 技術が発展して、わたしたち地族が食べ物に困ることがなくなり、人型を取った時に彼らより早く移動できるようになった今でも、空だけは許されていない。どんなに地団太を踏んで怒ったところで、空に居る彼にこの大地の震動は届かないのだ。
 空は風族のもの。その事だけはどんなにしても、書き換えられなかった。わたしたち地族は空を仰ぐことを諦めて人型になる事を選択し、六本の器用な指先で速さを生み出すことに夢中になった。
 そして今や、大地は地族のものになった。
 人型であっても竜の型であっても困ることの無い広い道が、茶色の大地の隅々にまで血管のように張り巡らされている。その灰色の道筋を、わたしたちは駆ける。四本の足で、あるいは二本の足で、あるいは最近生み出された丸い輪の上に乗って。
 そして風族は、その道に時折おずおずと降りることを許されるだけだ。人のかたちをとり、わたし達の中にこっそりと紛れる事を条件として。
 地族の温情の形として、だから道は崖の端へと伸びている。
 かれら風族が、こっそりとわたしたちに紛れこみ、空へと逃げ帰ることの出来るように。
 それは温情だ。たとえ地族の子供たちが、小さい頃から緑色の人々に決して心を許してはならないと、厳しく教え諭されていたとしても。
 わたし達は崖の端で出会う。かりそめの親交を結び、風のように実の無い友情を育む。
 そうでなければ、ならない。

(けれど、わたしは緑の色が欲しかった)
 わたしは膨らみ始めた腹をさすり、これからどこへ行くべきかを考えた。
 深い森など、今や大地のどこにも残されていない。年々柔らかくなるわたしたち地族の皮膚は、砂漠の激しい日差しに耐えることは出来ない。
(わたしは、どこへ行けばいいのだろう)
 空へ、アルダヤの後を追ってあの峰の頂へと飛ぶことが出来るのなら、産み落とされる卵を託すことは出来るだろうか。
(いいえ、そこでもし茶色が生まれてきてしまったら?)
 あるいは、緑と茶色が半分ずつの生き物が生まれてしまったら?
 一瞬だけ思い悩み、それでも産み落とすのは緑色なのだとわたしの心は確信している。
 なによりも空族のその色を欲するわたしから生まれるものが、他の色であるはずは無い。
 問題は、その緑色をどうやって守り抜くかという事だけだ。
(水の底へ行くことができるのなら、簡単なのだけれど)
 遠い昔に消えてしまった水族の御伽話は、いまのわたしに何の慰めにもならない。
 やはりわたしがすべきことは、このまま町へと引き返し、堅い砦を気づくことだ。わたしから生まれ出る緑色が、空へと無事に帰る日まで、けっして破られない強固なものを。
 食べるものがいる。水がいる。わたしの住む家は町の外れにあるけれど、それでも油断してはならない。
 いいえそうではない。わたしはわたしの生み出すものが、茶色なのだと偽り通せばよいのだ。生粋の茶色、大地の一族の子を孕んだふりをして、産み落とす寸前にこの崖の端へと逃げてくればよい。道の絶えたその先、険しい崖のどこかを捜せば、岩屋の一つ二つは見つかるだろう。
 そうして、還すのだ。緑の色を、空へ。
 
 空へ。
 わたしの小さな分身は、空へと飛んでいく。
 生粋の緑よりもきっと高く、遠く、飛んでいくに違いない。
 わたしは空を見上げ、そして崖を下りる道を探し始めた。

.第二界(3)

  ねっとりとした風が、中央に聳える山へ向かって吹き続けている。
 猫と呼ばれる獣が去ってから、船の上の誰も口をきこうとはしなかった。
 居心地悪く、チッタは海上の景色に目を凝らすことに熱中するふりをし、そうしながら船の舳先ととも、両側に腰を下ろして沈黙する二人の様子をちらちらと伺っていた。
 一体、あの猫という獣が何だったのか、彼は自動的に狩をするのだといったその言葉の意味とか、マトシャに駆け寄って聞きたいことが沢山ある。
 けれど、当のマトシャは両足をゆったりと組み黙想の姿勢に入っているし、こんな時に何か話しかけても返事が無いのは谷で経験済みだ。
 一方のチャナといえば、舳先に腰を下ろして小さな足をぷらぷらさせながら、ぶつぶつと文句らしきものを吐き続けている。こちらに声をかけたところで、くだらない質問をするなと烈火のごとく怒り出すのが関の山だろう。
 
 結局、自分だけが何も知らないのだ。
 チッタは、一向に姿を現さない太陽の姿を須弥山の向こう側に探しながら、船べりに指先で同心円をいくつも描く。
 ぐるぐると巡る山脈と山脈の間、回廊のような海の上には、チッタが知らない沢山の獣たちが居て、それぞれの役割を果たしている。マトシャと猫の会話に出てきた、烏という生き物。それから、猫よりも上位の生き物であるらしい、虎という生き物。
 どれも、チッタはしらない。
 生まれてからほんの僅か、南の入り江にある魚の谷で、自分は様々な世界をマトシャの鱗を通して見ていたつもりだった。
 儚く消えていった砂漠の湖、空を行く船の世界、四角い箱の中で一生を終える生き物、見せられたものは、一体何だったのだろう。世界の姿だと思っていたあれは、この海の上のどこかではなかったのか。

(まさか)

 チッタは視線を落とした。
 深く、深く、星々を内包しながら広がる海。
 谷を出てから今までに、十ほどの星を訪ねただろうか。

(全部、違う世界だった。人の形も、理も)

 では、海の上は──?
 チッタは顔を上げ、目を見開く。
 遠く遙かに聳え立つ、須弥山の赤がね色。船の浮かぶ海を回廊へと変え、並び立つ山脈の険しい山肌と、そこにしがみつく様に生える緑の木々。
 出合った事の無い生き物は、その山並みの奥に、広がる海の上に、そして海の底の無数の世界に。

(全部、知らない、初めてなんだ)

 恐るべき鮮明さで、世界がチッタの眼の中に飛び込んできた。当然その全てを納めきれるわけもなく、溢れて零れ落ちてゆく光景に圧倒され、彼はぐらりと傾いで船べりを掴んだ。
 誰かの視線を、痛いほど感じる。むろん、その主はマトシャだ。
 顔を振り向けなくても、チッタには解った。
 水色の瞳が、全てを映しこむ泉のような静かで、じっと自分を見つめていることを。怒りも喜びも狼狽もせず、ただただ見つめていることを。

(……マトシャ)
 あえぐ呼吸を必死に抑えながら、養い親に心の中で呼びかけた。

(これは、正解? マトシャが望むこと?)
 返事は無い。魚の谷の綺麗なひとは、綺麗な目でただマトシャを見つめるだけだ。

 いつだって、そうなのだ。
 泳げないチッタを責めないマトシャは、チッタの言動の全てについて、正しいのか正しくないのか、どうすればよいのか、何も言わない。
 ただ見つめて、ただ聞いてくれるだけ。
 チッタは船べりをきつく握り締め、顔を上げた。
 海を隔てるように聳える山脈の、鋸のように切り立った崖のようすが、今度は穏やかにはっきりとチッタの目に映りこんできた。
 チッタは大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出しながら、初めて見るその山の景色を目の奥に焼き付けようと真っ直ぐ顔を上げ、目を見開いた。

   ※   ※   ※

「ねえマトシャ、海の下なら《猫》は来ないわね?」

 再び沈黙が船を走らせるのだと思ったところへ、チャナが物思いにふけるような声音で問いを発した。
「そうね、《猫》は海の底へ行くことは出来ないわね」
「《猫》以外の、《虎》や《雪豹》は」
「そのままの形で、あの星へ辿り付く事は出来ないわ」
「そうよね、そのはずよね」
 小さな蝶々は羽をたたんだまま、舳先にすっくと立ち上がると拳を握った。
「海の上にいたら狩られるなら、海の下にいれば大丈夫なのよ。マトシャ、次の世界へ行きましょうよ」
 ほらあそこ、緑色の綺麗な星があるじゃない。あたし、あそこへ行きたいわ。
 無責任なまでに楽しげなチャナに、チッタは聞こえないように反論した。
「……でも、《界》が壊れる」
 ぎろり、とチャナの鋭い視線が飛んできて、チッタは首をすくめた。
 だけれど、谷を出てから訪ねた《界》のことごとくが壊れていったのは、本当のことだ。
 ”蝶は世界を滅ぼす”という谷の長老たちの言葉はこのことだったのだと、チッタは密かに理解している。

「あたしは何もしてない、何も壊そうとしていない。あたしは、あたしなだけ。ねえマトシャ、そうでしょう」
 きっぱりと胸を張りながら、チャナは少しすがるような目をマトシャへと注ぐ。
 マトシャは、伏し目がちのままにゆったりと微笑んだ。
「そうね、チャナ。あなたは、あるがままだわ」
 是なのか否なのかわからない答えに、チャナはぷるぷると肩を震わせてから、勝気な笑みを浮かべた。
「ねえ、行きましょうよマトシャ。あの、緑色の星へ。あたし、ずうっとあの星が気になるの。きっと面白いところだわ」
 そうねえ、と頷いたマトシャは、立ち上がるとチッタを手招いた。
「行くの?」
「ええ、行きましょう」
 チッタは俯き、水の底で揺らぐ緑の星を見つめた。
 大きな木の形をした緑の輝きは、どこかくすんでいて、チッタの心を暗くさせる。

「壊れる。あの星も」
 小さく呟いた声は、マトシャの耳にもチャナの耳にも拾われなかった。
 抱き寄せられ、チッタは眼を閉じた。
 ぐるぐるぐるぐる、嫌な気持ちが心の中で渦を巻く。
 けれど流れに逆らうことは、チッタには出来ないのだ。
 水に飲み込まれ、流れに押し流されるままに、次の星へと連れられていくのだった。 


5.第二界・猫

 獣は眼を細めたまま、じっとマトシャの言葉を待っている。
「そうね、良い夜ですわね、西の眷属の方」
 マトシャが静かに答えると、ゴロゴロという地響きのような音が止んだ。
 三角形の耳がぴくぴくと動き、何かを測るように長いひげが顔の後ろのほうへと寝る。
「魚のお方ともあろうものが、何故このような船で?」
「庇護している者たちのために」
「《それ》を、あなたが?」
 獣は三日月形の瞳をきろりとチャナへ向け、笑うような形に口をかぱと開いた。
 赤い口の中に白くとがった牙が見え、チッタはまた後ずさった。こんな風に凶悪な生き物は、魚の谷には居なかったのだ。
「ええ、今この時は、私が護っておりますわ」
「それは酔狂な。全くもって酔狂な。世界の天秤を護る我々《猫族》ほどではないにせよ、《魚族》も倫理と秩序を重んじる生き物だと、今まで理解しておりました。その定義を書き換えねばなりませんかな。それとも、貴殿が魚であるという私の見立てが間違いで、あるいは《烏》のお方でありましたか」
「私が烏であったなら、この娘を沙羅の木に縫い留めていた事でしょう」
「ふむ。では、何故とお聞きして宜しいでしょうか」
「私が、魚である故に」

 獣が、ぐると唸って黙り込んだ。
 静かになった船のうえで、チッタは恐る恐るマトシャの隣へと近寄った。
 普段から、マトシャは謎かけのような言葉を使う。けれど、こんな風に、謎々を解かないまま掛け合うようなしゃべり方をするなんて、魚の谷では見たことが無かった。
 獣との間で何か決着がついたのか、今は声をかけてよい時なのか、チッタには解らない。
 逡巡するチッタの腰に、小さな手が触れた。
「……チャナ?」
 翅をたたんだまま、船の上をそろりと歩いて移動していたのだ。獣から身を隠すようにして、チャナはチッタの上着の裾をぎゅっと握ってしがみつくと、押し殺した声で囁いた。
「あいつ、敵よ。絶対的に敵なんだから、あんた、護んなさいよ」
「なんで、敵ってわかる?」
 チャナがきーと目を吊り上げ、ひそひそ声も忘れて怒鳴る。
「あんたは徹底的な馬鹿だわっ。なんで解んないのよっ。あれは、《猫》でしょっ。西の眷属の中でも、一番質が悪くって意地悪な獣なのよ」

 猫、と呼ばれた獣の目が、きゅうと細くなってチッタのほうを見た。
 ごろろろ、とまた雷のような音がして、獣はゆっくりと船の周りを歩き始める。
「《蝶》が増えております。この宇宙が始まって以来、かつてないほどに。その事に、魚の方はお気づきでしょうかな」
 すらりとした足が柔らかな仕草で海面を踏む。獣はそのうち上半身を起こし、後ろ足だけで歩き始めた。長い尻尾がゆらゆらと後ろでバランスを取っていたが、それは次第に縮んでゆき、獣は淡い光に包まれながら、人型になった。
 獣態のときと同じ白い髪を一つにくくり、背中に長く垂らしている彼は、相変わらず三日月の形の瞳で、マトシャをちらりと眺める。
「そうですわね、増えておりますわね」
 マトシャの同意に、そうでしょうと猫族の男は頷きながら甲高い声で言った。
「蝶は孤独に飛び続け、いつか潰えるものでありました。それが、昨今は徒党を組んで渡りをする始末。この猫めが、頻繁に狩をせねばならぬほどに」
 大仰な仕草で肩をすくめた猫族は、声を低め、「変わるのでしょうな」と付け加えた。
 マトシャは、一瞬だけ瞬きを止め、何かを飲み込もうとするかのように口を引き結び、猫の男から視線を逃して目を伏せる。
「……そうですわね、変わるのでしょう。蝶は、その兆し」
「そうですとも。芙蓉の座が変わるとき、世界はその有り様を著しく損なう。そして、私ども猫族の狩りが始まるのです。望むとも、望まぬとも」

 猫族の男がなぜそこで胸を張るのか、マトシャが悲しげな顔をするのか、チッタは解らずに背後のチャナを見る。
 チャナは怯えた表情のまま、首をぶんぶんと小刻みに振った。
「あんた、要らないことは考えないの。あれは敵なのっ。善でも悪でもない、快でも不快でもない、ただ自動的に狩をするだけの一番たちの悪い生き物なんだから」
 猫族の男は、チッタの視線を受けて、唇を笑いの形にゆがめた。
「そうですとも。お若い魚のお方。私は、自動的に狩をするものです。世界の均衡を保つために、天秤の命ずるままに。私自身は、殺生を望む気持ちなど微塵も持ってはおりません。だが今この瞬間にも、その蝶々を引き裂こうと、私の爪は勝手に疼いているのです」
 優雅な仕草で膝を折り、男は一礼をする。
 それから、するりと服を脱ぐように獣の形に戻り、長い尻尾でぴしりと海面を打った。
 鋭い刃のような気配が、ひしひしとチャナに向けて放たれている。もし庇うのなら、容赦なくチッタを含めて切り裂こうとするのだろう。


「猫の方、ここはお引きください。この船の上にいるかぎり、この蝶は私のもの」
 マトシャが、静かな声で告げた。
「もとより、そのつもりでありますとも。ここは偉大なる魚の方に敬意を表し、引くと致ししましょう。しかし私の爪は、あくまでも不随意のもの。つぎに天秤が傾くとき、貴女が傍にいないのなら、止まることはできませんぞ」
 マトシャが頷くのを待つまでもなく、獣は一声ウアーウと鳴いた。
 後ろ足をしっかりとたわめ、一気に跳躍をする。

 あっとチッタが目をつぶったその上を遙かに跳び越し、海の上を駆けていった。
 そして、その先には。

「マトシャ、マトシャ!」
 チャナが、悲鳴のような声を上げた。
 チッタが慌てて振り向くと、白い輝きが目指すその先に。
 淡い、桃色の光。

 蝶が、ひらりひらりと楽しげに海の上を舞っていた。