5.第二界・猫

 獣は眼を細めたまま、じっとマトシャの言葉を待っている。
「そうね、良い夜ですわね、西の眷属の方」
 マトシャが静かに答えると、ゴロゴロという地響きのような音が止んだ。
 三角形の耳がぴくぴくと動き、何かを測るように長いひげが顔の後ろのほうへと寝る。
「魚のお方ともあろうものが、何故このような船で?」
「庇護している者たちのために」
「《それ》を、あなたが?」
 獣は三日月形の瞳をきろりとチャナへ向け、笑うような形に口をかぱと開いた。
 赤い口の中に白くとがった牙が見え、チッタはまた後ずさった。こんな風に凶悪な生き物は、魚の谷には居なかったのだ。
「ええ、今この時は、私が護っておりますわ」
「それは酔狂な。全くもって酔狂な。世界の天秤を護る我々《猫族》ほどではないにせよ、《魚族》も倫理と秩序を重んじる生き物だと、今まで理解しておりました。その定義を書き換えねばなりませんかな。それとも、貴殿が魚であるという私の見立てが間違いで、あるいは《烏》のお方でありましたか」
「私が烏であったなら、この娘を沙羅の木に縫い留めていた事でしょう」
「ふむ。では、何故とお聞きして宜しいでしょうか」
「私が、魚である故に」

 獣が、ぐると唸って黙り込んだ。
 静かになった船のうえで、チッタは恐る恐るマトシャの隣へと近寄った。
 普段から、マトシャは謎かけのような言葉を使う。けれど、こんな風に、謎々を解かないまま掛け合うようなしゃべり方をするなんて、魚の谷では見たことが無かった。
 獣との間で何か決着がついたのか、今は声をかけてよい時なのか、チッタには解らない。
 逡巡するチッタの腰に、小さな手が触れた。
「……チャナ?」
 翅をたたんだまま、船の上をそろりと歩いて移動していたのだ。獣から身を隠すようにして、チャナはチッタの上着の裾をぎゅっと握ってしがみつくと、押し殺した声で囁いた。
「あいつ、敵よ。絶対的に敵なんだから、あんた、護んなさいよ」
「なんで、敵ってわかる?」
 チャナがきーと目を吊り上げ、ひそひそ声も忘れて怒鳴る。
「あんたは徹底的な馬鹿だわっ。なんで解んないのよっ。あれは、《猫》でしょっ。西の眷属の中でも、一番質が悪くって意地悪な獣なのよ」

 猫、と呼ばれた獣の目が、きゅうと細くなってチッタのほうを見た。
 ごろろろ、とまた雷のような音がして、獣はゆっくりと船の周りを歩き始める。
「《蝶》が増えております。この宇宙が始まって以来、かつてないほどに。その事に、魚の方はお気づきでしょうかな」
 すらりとした足が柔らかな仕草で海面を踏む。獣はそのうち上半身を起こし、後ろ足だけで歩き始めた。長い尻尾がゆらゆらと後ろでバランスを取っていたが、それは次第に縮んでゆき、獣は淡い光に包まれながら、人型になった。
 獣態のときと同じ白い髪を一つにくくり、背中に長く垂らしている彼は、相変わらず三日月の形の瞳で、マトシャをちらりと眺める。
「そうですわね、増えておりますわね」
 マトシャの同意に、そうでしょうと猫族の男は頷きながら甲高い声で言った。
「蝶は孤独に飛び続け、いつか潰えるものでありました。それが、昨今は徒党を組んで渡りをする始末。この猫めが、頻繁に狩をせねばならぬほどに」
 大仰な仕草で肩をすくめた猫族は、声を低め、「変わるのでしょうな」と付け加えた。
 マトシャは、一瞬だけ瞬きを止め、何かを飲み込もうとするかのように口を引き結び、猫の男から視線を逃して目を伏せる。
「……そうですわね、変わるのでしょう。蝶は、その兆し」
「そうですとも。芙蓉の座が変わるとき、世界はその有り様を著しく損なう。そして、私ども猫族の狩りが始まるのです。望むとも、望まぬとも」

 猫族の男がなぜそこで胸を張るのか、マトシャが悲しげな顔をするのか、チッタは解らずに背後のチャナを見る。
 チャナは怯えた表情のまま、首をぶんぶんと小刻みに振った。
「あんた、要らないことは考えないの。あれは敵なのっ。善でも悪でもない、快でも不快でもない、ただ自動的に狩をするだけの一番たちの悪い生き物なんだから」
 猫族の男は、チッタの視線を受けて、唇を笑いの形にゆがめた。
「そうですとも。お若い魚のお方。私は、自動的に狩をするものです。世界の均衡を保つために、天秤の命ずるままに。私自身は、殺生を望む気持ちなど微塵も持ってはおりません。だが今この瞬間にも、その蝶々を引き裂こうと、私の爪は勝手に疼いているのです」
 優雅な仕草で膝を折り、男は一礼をする。
 それから、するりと服を脱ぐように獣の形に戻り、長い尻尾でぴしりと海面を打った。
 鋭い刃のような気配が、ひしひしとチャナに向けて放たれている。もし庇うのなら、容赦なくチッタを含めて切り裂こうとするのだろう。


「猫の方、ここはお引きください。この船の上にいるかぎり、この蝶は私のもの」
 マトシャが、静かな声で告げた。
「もとより、そのつもりでありますとも。ここは偉大なる魚の方に敬意を表し、引くと致ししましょう。しかし私の爪は、あくまでも不随意のもの。つぎに天秤が傾くとき、貴女が傍にいないのなら、止まることはできませんぞ」
 マトシャが頷くのを待つまでもなく、獣は一声ウアーウと鳴いた。
 後ろ足をしっかりとたわめ、一気に跳躍をする。

 あっとチッタが目をつぶったその上を遙かに跳び越し、海の上を駆けていった。
 そして、その先には。

「マトシャ、マトシャ!」
 チャナが、悲鳴のような声を上げた。
 チッタが慌てて振り向くと、白い輝きが目指すその先に。
 淡い、桃色の光。

 蝶が、ひらりひらりと楽しげに海の上を舞っていた。