第十三話 140キロ | ゆうすけくんのてきとーブログ

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かわいいコーギーのゆうすけくんのお父さんが、
美味しいと思ったもの、趣味
そして、ゆうすけ君との思い出を書いているブログです。

 香南工業戦の翌日、南陽高校の練習はいつもより少し明るかった。

 夏の初戦。

 十二対〇。

 七回コールド勝ち。

 先発全員安打。

 そして、小堅井護の公式戦初登板、三者三振。

 結果だけを並べれば、これ以上ない滑り出しだった。

 それでも龍は、練習前に短く言った。

「初戦は初戦だ」

 その一言で、浮きかけていた空気が少しだけ締まった。

 勝った。

 だが、まだ何も終わっていない。

 護はその言葉を、いつものように黙って聞いていた。

 練習が終わる頃には、空が少し赤くなっていた。

 片づけを終え、校門へ向かっていると、健太郎が急に振り返った。

「ちょっと打って帰らん?」

「打つ?」

 護が聞き返す。

「バッティングセンターや」

「今からですか」

「今からや。夏は短いんやで」

「その理屈は合っているのですか」

「気分や」

 健太郎は笑った。

 同行したのは、健太郎、悟、弘田、清、そして護だった。

 田松は用事があると言って先に帰った。

 岡部は友田先生に何かを言われて、部室の方へ連れて行かれていた。

「岡部君、また何かしたんでしょうか」

 弘田が心配そうに言う。

「何かしたんやろ」

 健太郎が即答した。

「決めつけるのはよくないです」

「でも岡部やで」

「……それは、まあ」

 弘田は少しだけ困った顔をした。

 バッティングセンターは、学校から少し歩いたところにあった。

 古い建物だった。

 入口の自動ドアが開くと、金属バットの音が響いてきた。

 硬い音。

 乾いた音。

 ボールがネットに当たる音。

 護は、少しだけ足を止めた。

「小堅井君、初めて?」

 清が聞いた。

「はい」

「そっか。ここ、南陽の人も結構来るよ」

「そうなのですか」

「うん。池野君とか、たぶんかなり来てる」

「バレとる」

 健太郎が笑った。

「バレるも何も、フォームが完全に慣れてます」

 弘田が言う。

「弘田君も来るんか?」

「たまには」

「長打を夢見に?」

「……悪いですか」

「悪くないで」

 健太郎はにやっと笑った。

 中にはいくつかの打席が並んでいた。

 80キロ。

 100キロ。

 120キロ。

 そして、一番奥に140キロの表示がある。

 護はその数字を見た。

「一四〇キロ」

「一番速いところやね」

 清が言う。

「大人でも、あれは普通に速いよ」

 その一番奥の打席から、鋭い音が響いた。

 金属バットが、硬球ではないボールを叩く音。

 だが、音が違った。

 軽く当てているのではない。

 押し返している。

 ネットへ突き刺さる打球が、何球も続いていた。

 護は、自然とそちらを見た。

 打席に立っている男は、制服ではなかった。

 くたびれたシャツに、少し伸びた髪。

 頬から顎にかけて、濃い無精髭が広がっている。

 高校生には見えない。

 そう思った。

 だが、スイングは異様に鋭かった。

 140キロの球が来る。

 少し間を置いて、バットが出る。

 打球が、真っ直ぐネットへ伸びる。

 次の球も。

 その次の球も。

 流し打つ。

 引っ張る。

 真ん中を叩く。

 球に負けていない。

「すごいですね」

 護が思わず言った。

 健太郎が何か返そうとして、止まった。

 悟も、弘田も、同じ方向を見ていた。

 そして清が、小さく息をのんだ。

「本藤先輩だ」

 その名前を聞いた瞬間、護はもう一度、打席の男を見た。

 本藤。

 本藤賢二。

 本来なら、南陽の四番。

 ショート。

 今は部に来ていない選手。

 その人が、目の前で140キロを打ち返していた。

 打席の本藤が、最後の一球を打った。

 打球は低く伸び、正面のネットを強く揺らした。

 機械が止まる。

 本藤はバットを下ろした。

 そして、ゆっくりとこちらを見た。

「本藤先輩」

 清が一歩だけ前に出た。

 本藤は、少しだけ目を細めた。

「……清ちゃんか」

 それだけだった。

 声は低く、かすれていた。

 久しぶりに誰かに名前を呼ばれたような声だった。

 清は何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。

 本藤の視線が、悟へ移る。

 弘田へ。

 健太郎へ。

 そして、護のところで一瞬だけ止まった。

 護は頭を下げた。

「一年の小堅井護です」

 本藤は返事をしなかった。

 ただ、視線を外し、もう一度バットを握り直した。

「本藤」

 健太郎が呼んだ。

 いつものような軽さはなかった。

 本藤は振り返らない。

「まだ、打っとるんやな」

 少しだけ間があった。

 本藤は硬貨を入れた。

 機械のランプが点く。

「……見ればわかるだろ」

 それだけ言って、ヘルメットをかぶり直した。

 弘田が、一歩だけ前に出た。

「本藤君」

 本藤の手が止まる。

 だが、振り返らない。

「その……」

 弘田は言葉を探した。

「元気そうで、よかったです」

 本藤は少しだけ肩を落とした。

「……そうでもない」

 低い声だった。

 弘田は返せなかった。

 悟が静かに言った。

「まだ振れてる」

 本藤は、今度だけ少し振り返った。

 悟と目が合う。

「野球をやめた奴のスイングじゃない」

 その言葉に、本藤の表情がわずかに変わった。

 怒ったようにも見えた。

 痛がったようにも見えた。

 しかし、何も言わなかった。

 次の瞬間、機械が動き出す。

 一球目。

 本藤のバットが、また鋭く出た。

 打球がネットへ突き刺さる。

 それ以上、誰も声をかけられなかった。

 バッティングセンターを出た時には、外はもう暗くなりかけていた。

 健太郎はいつものように明るく歩いていたが、少しだけ口数が少なかった。

 弘田も、何か考え込んでいる。

 護は、隣を歩く清に尋ねた。

「本藤先輩は、南陽の選手なのですね」

「うん」

 清はうなずいた。

「本当なら、今も」

「本当なら」

「四番で、ショート」

 護は黙った。

 四番。

 ショート。

 その二つの言葉が、さっきのスイングと重なる。

 あの人は、ただの不在の選手ではない。

 南陽の中心にいるはずだった人なのだ。

「秋に負けたんだ」

 悟が前を向いたまま言った。

 護は悟を見る。

「土佐中央に」

 土佐中央。

 トーナメント表で見た名前。

 その名前が出た時、部室の空気が変わった理由。

「土佐中央には、遠山直哉がいる」

 弘田が続けた。

「今は二年生ですけど、去年の秋の時点でもう、県内一と言われる投手でした」

「県内一」

「はい」

 弘田は少しだけ声を落とした。

「一年生で、土佐中央を決勝まで連れていった投手です」

 護は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。

 一年生で。

 県内一。

 決勝まで。

「秋の準決勝」

 悟が言う。

「南陽は、土佐中央に負けた」

「接戦でした」

 弘田が言った。

「龍さんもよく投げていました。みんなで何とか食らいついて、最後にチャンスが来たんです」

「最後」

「九回裏」

 弘田は一度、言葉を切った。

「一点を追う場面で、一死満塁でした」

 護は足を止めそうになった。

 一死満塁。

 その言葉だけで、何かが詰まっているように感じた。

「打席は、本藤先輩ですか」

「はい」

 清が小さく答えた。

「一年生で四番だった」

 悟が言う。

「本人も、自分が打つと思ってた」

「本藤君は、自信がある人でした」

 弘田が言った。

「嫌な意味じゃないです。実際、それだけ打ってましたから」

「うん」

 健太郎が珍しく静かにうなずいた。

「あいつ、ほんまに打ってた」

 弘田は続ける。

「でも、遠山君は崩れませんでした」

 護は黙って聞いていた。

「最後は、空振り三振」

 悟が短く言った。

 その言葉は、硬かった。

 空振り三振。

 打てなかった。

 一死満塁で。

 四番として。

 一年生ながら、チームの中心として。

「それからです」

 弘田が言った。

「本藤君が、部に来なくなったのは」

 道の横を車が通り過ぎていった。

 ヘッドライトが一瞬だけ、全員の影を長く伸ばす。

 護は、バッティングセンターの音を思い出していた。

 140キロ。

 鋭いスイング。

 ネットに突き刺さる打球。

 あれほど打てる人が、戻ってこない。

 ただ一度、打てなかったから。

 いや、ただ一度ではないのだろう。

 公式戦の最後。

 それも、チームの命運がかかった最後の打席。

 その一打席が、人の中に残り続けることがある。

「本藤先輩は、自分のせいだと思っているのですか」

 護が尋ねると、誰もすぐには答えなかった。

 しばらくして、弘田が困ったように言った。

「たぶん、そうです」

「実際は違う」

 悟が言った。

「一点取られたのも、そこまで打てなかったのも、全部含めて試合だ」

「でも、本藤君は最後の打席だけを見てるんやと思います」

 弘田の声は小さかった。

「自分が打てば勝てた。自分が打てなかったから負けた。そう思ってるんやと思います」

 護は左手を見た。

 香南工業戦。

 三者三振。

 数字だけなら、これ以上ない結果。

 けれど、指には抜けた一球の感触が残っていた。

 もし、あの一球で試合が変わっていたら。

 もし、あの一球で夏が終わっていたら。

 自分は、どうなっていただろう。

「公式戦で負けるというのは、重いのですね」

 護が言うと、健太郎が少しだけ笑った。

「そら重いで」

 いつもの軽さは、少し薄かった。

「でもな」

 健太郎は前を向いたまま続けた。

「重いからって、ずっと持ったままやと、しんどいやろ」

 誰も、すぐには返さなかった。

 弘田も、悟も、清も、黙って歩いていた。

 健太郎の言葉は、いつもの冗談のようには流れなかった。

 護は、さっきの本藤の背中を思い出した。

 何も言わずに、140キロを打ち返していた背中。

 戻らないと言う代わりに、打ち続けていた背中。

 清が小さく言った。

「戻ってきてほしいね」

 それにも、誰もすぐには返事をしなかった。

 戻ってきてほしい。

 それは簡単に言える。

 けれど、本藤賢二が戻ってくるには、あの一死満塁を越えなければならない。

 護にも、それだけは少しわかった。

 バッティングセンターの中で、本藤はまだ打っていた。

 140キロを、何度も、何度も。

 ほとんど何も語らず。

 それでも、バットを振っていた。

 護は夜道を歩きながら、その音を思い出す。

 金属バットの乾いた音。

 ネットに突き刺さる打球。

 そして、弘田の言葉。

 一死満塁。

 空振り三振。

 公式戦で負けるということは、結果だけでは終わらない。

 その重さを、背負ったまま立ち止まっている人がいる。

 護はそのことを、初めて知った。