香南工業戦の翌日、南陽高校の練習はいつもより少し明るかった。
夏の初戦。
十二対〇。
七回コールド勝ち。
先発全員安打。
そして、小堅井護の公式戦初登板、三者三振。
結果だけを並べれば、これ以上ない滑り出しだった。
それでも龍は、練習前に短く言った。
「初戦は初戦だ」
その一言で、浮きかけていた空気が少しだけ締まった。
勝った。
だが、まだ何も終わっていない。
護はその言葉を、いつものように黙って聞いていた。
練習が終わる頃には、空が少し赤くなっていた。
片づけを終え、校門へ向かっていると、健太郎が急に振り返った。
「ちょっと打って帰らん?」
「打つ?」
護が聞き返す。
「バッティングセンターや」
「今からですか」
「今からや。夏は短いんやで」
「その理屈は合っているのですか」
「気分や」
健太郎は笑った。
同行したのは、健太郎、悟、弘田、清、そして護だった。
田松は用事があると言って先に帰った。
岡部は友田先生に何かを言われて、部室の方へ連れて行かれていた。
「岡部君、また何かしたんでしょうか」
弘田が心配そうに言う。
「何かしたんやろ」
健太郎が即答した。
「決めつけるのはよくないです」
「でも岡部やで」
「……それは、まあ」
弘田は少しだけ困った顔をした。
バッティングセンターは、学校から少し歩いたところにあった。
古い建物だった。
入口の自動ドアが開くと、金属バットの音が響いてきた。
硬い音。
乾いた音。
ボールがネットに当たる音。
護は、少しだけ足を止めた。
「小堅井君、初めて?」
清が聞いた。
「はい」
「そっか。ここ、南陽の人も結構来るよ」
「そうなのですか」
「うん。池野君とか、たぶんかなり来てる」
「バレとる」
健太郎が笑った。
「バレるも何も、フォームが完全に慣れてます」
弘田が言う。
「弘田君も来るんか?」
「たまには」
「長打を夢見に?」
「……悪いですか」
「悪くないで」
健太郎はにやっと笑った。
中にはいくつかの打席が並んでいた。
80キロ。
100キロ。
120キロ。
そして、一番奥に140キロの表示がある。
護はその数字を見た。
「一四〇キロ」
「一番速いところやね」
清が言う。
「大人でも、あれは普通に速いよ」
その一番奥の打席から、鋭い音が響いた。
金属バットが、硬球ではないボールを叩く音。
だが、音が違った。
軽く当てているのではない。
押し返している。
ネットへ突き刺さる打球が、何球も続いていた。
護は、自然とそちらを見た。
打席に立っている男は、制服ではなかった。
くたびれたシャツに、少し伸びた髪。
頬から顎にかけて、濃い無精髭が広がっている。
高校生には見えない。
そう思った。
だが、スイングは異様に鋭かった。
140キロの球が来る。
少し間を置いて、バットが出る。
打球が、真っ直ぐネットへ伸びる。
次の球も。
その次の球も。
流し打つ。
引っ張る。
真ん中を叩く。
球に負けていない。
「すごいですね」
護が思わず言った。
健太郎が何か返そうとして、止まった。
悟も、弘田も、同じ方向を見ていた。
そして清が、小さく息をのんだ。
「本藤先輩だ」
その名前を聞いた瞬間、護はもう一度、打席の男を見た。
本藤。
本藤賢二。
本来なら、南陽の四番。
ショート。
今は部に来ていない選手。
その人が、目の前で140キロを打ち返していた。
打席の本藤が、最後の一球を打った。
打球は低く伸び、正面のネットを強く揺らした。
機械が止まる。
本藤はバットを下ろした。
そして、ゆっくりとこちらを見た。
「本藤先輩」
清が一歩だけ前に出た。
本藤は、少しだけ目を細めた。
「……清ちゃんか」
それだけだった。
声は低く、かすれていた。
久しぶりに誰かに名前を呼ばれたような声だった。
清は何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
本藤の視線が、悟へ移る。
弘田へ。
健太郎へ。
そして、護のところで一瞬だけ止まった。
護は頭を下げた。
「一年の小堅井護です」
本藤は返事をしなかった。
ただ、視線を外し、もう一度バットを握り直した。
「本藤」
健太郎が呼んだ。
いつものような軽さはなかった。
本藤は振り返らない。
「まだ、打っとるんやな」
少しだけ間があった。
本藤は硬貨を入れた。
機械のランプが点く。
「……見ればわかるだろ」
それだけ言って、ヘルメットをかぶり直した。
弘田が、一歩だけ前に出た。
「本藤君」
本藤の手が止まる。
だが、振り返らない。
「その……」
弘田は言葉を探した。
「元気そうで、よかったです」
本藤は少しだけ肩を落とした。
「……そうでもない」
低い声だった。
弘田は返せなかった。
悟が静かに言った。
「まだ振れてる」
本藤は、今度だけ少し振り返った。
悟と目が合う。
「野球をやめた奴のスイングじゃない」
その言葉に、本藤の表情がわずかに変わった。
怒ったようにも見えた。
痛がったようにも見えた。
しかし、何も言わなかった。
次の瞬間、機械が動き出す。
一球目。
本藤のバットが、また鋭く出た。
打球がネットへ突き刺さる。
それ以上、誰も声をかけられなかった。
バッティングセンターを出た時には、外はもう暗くなりかけていた。
健太郎はいつものように明るく歩いていたが、少しだけ口数が少なかった。
弘田も、何か考え込んでいる。
護は、隣を歩く清に尋ねた。
「本藤先輩は、南陽の選手なのですね」
「うん」
清はうなずいた。
「本当なら、今も」
「本当なら」
「四番で、ショート」
護は黙った。
四番。
ショート。
その二つの言葉が、さっきのスイングと重なる。
あの人は、ただの不在の選手ではない。
南陽の中心にいるはずだった人なのだ。
「秋に負けたんだ」
悟が前を向いたまま言った。
護は悟を見る。
「土佐中央に」
土佐中央。
トーナメント表で見た名前。
その名前が出た時、部室の空気が変わった理由。
「土佐中央には、遠山直哉がいる」
弘田が続けた。
「今は二年生ですけど、去年の秋の時点でもう、県内一と言われる投手でした」
「県内一」
「はい」
弘田は少しだけ声を落とした。
「一年生で、土佐中央を決勝まで連れていった投手です」
護は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
一年生で。
県内一。
決勝まで。
「秋の準決勝」
悟が言う。
「南陽は、土佐中央に負けた」
「接戦でした」
弘田が言った。
「龍さんもよく投げていました。みんなで何とか食らいついて、最後にチャンスが来たんです」
「最後」
「九回裏」
弘田は一度、言葉を切った。
「一点を追う場面で、一死満塁でした」
護は足を止めそうになった。
一死満塁。
その言葉だけで、何かが詰まっているように感じた。
「打席は、本藤先輩ですか」
「はい」
清が小さく答えた。
「一年生で四番だった」
悟が言う。
「本人も、自分が打つと思ってた」
「本藤君は、自信がある人でした」
弘田が言った。
「嫌な意味じゃないです。実際、それだけ打ってましたから」
「うん」
健太郎が珍しく静かにうなずいた。
「あいつ、ほんまに打ってた」
弘田は続ける。
「でも、遠山君は崩れませんでした」
護は黙って聞いていた。
「最後は、空振り三振」
悟が短く言った。
その言葉は、硬かった。
空振り三振。
打てなかった。
一死満塁で。
四番として。
一年生ながら、チームの中心として。
「それからです」
弘田が言った。
「本藤君が、部に来なくなったのは」
道の横を車が通り過ぎていった。
ヘッドライトが一瞬だけ、全員の影を長く伸ばす。
護は、バッティングセンターの音を思い出していた。
140キロ。
鋭いスイング。
ネットに突き刺さる打球。
あれほど打てる人が、戻ってこない。
ただ一度、打てなかったから。
いや、ただ一度ではないのだろう。
公式戦の最後。
それも、チームの命運がかかった最後の打席。
その一打席が、人の中に残り続けることがある。
「本藤先輩は、自分のせいだと思っているのですか」
護が尋ねると、誰もすぐには答えなかった。
しばらくして、弘田が困ったように言った。
「たぶん、そうです」
「実際は違う」
悟が言った。
「一点取られたのも、そこまで打てなかったのも、全部含めて試合だ」
「でも、本藤君は最後の打席だけを見てるんやと思います」
弘田の声は小さかった。
「自分が打てば勝てた。自分が打てなかったから負けた。そう思ってるんやと思います」
護は左手を見た。
香南工業戦。
三者三振。
数字だけなら、これ以上ない結果。
けれど、指には抜けた一球の感触が残っていた。
もし、あの一球で試合が変わっていたら。
もし、あの一球で夏が終わっていたら。
自分は、どうなっていただろう。
「公式戦で負けるというのは、重いのですね」
護が言うと、健太郎が少しだけ笑った。
「そら重いで」
いつもの軽さは、少し薄かった。
「でもな」
健太郎は前を向いたまま続けた。
「重いからって、ずっと持ったままやと、しんどいやろ」
誰も、すぐには返さなかった。
弘田も、悟も、清も、黙って歩いていた。
健太郎の言葉は、いつもの冗談のようには流れなかった。
護は、さっきの本藤の背中を思い出した。
何も言わずに、140キロを打ち返していた背中。
戻らないと言う代わりに、打ち続けていた背中。
清が小さく言った。
「戻ってきてほしいね」
それにも、誰もすぐには返事をしなかった。
戻ってきてほしい。
それは簡単に言える。
けれど、本藤賢二が戻ってくるには、あの一死満塁を越えなければならない。
護にも、それだけは少しわかった。
バッティングセンターの中で、本藤はまだ打っていた。
140キロを、何度も、何度も。
ほとんど何も語らず。
それでも、バットを振っていた。
護は夜道を歩きながら、その音を思い出す。
金属バットの乾いた音。
ネットに突き刺さる打球。
そして、弘田の言葉。
一死満塁。
空振り三振。
公式戦で負けるということは、結果だけでは終わらない。
その重さを、背負ったまま立ち止まっている人がいる。
護はそのことを、初めて知った。