東陽学園との練習試合の翌日、南陽高校のグラウンドには、いつもと同じように土の匂いがしていた。
ランニング。
体操。
キャッチボール。
声出し。
流れだけなら、何も変わっていない。
だが、小堅井護は少しだけ違和感を覚えていた。
理由はすぐにわかった。
見られている。
全員がこちらを見ているわけではない。だが、ふとした時に視線を感じる。ボールを持った時。キャッチボールで腕を振った時。用具を運んでいるだけの時でさえ、誰かが少しだけこちらを見る。
昨日の三球。
たったそれだけで、周囲の中にある自分の位置が少し変わったらしい。
「小堅井くん」
健太郎が外野の方から近づいてきた。
「はい」
「今日も投げるん?」
「予定は聞いておりません」
「投げるなら教えてな。ウチ、遠くから見るから」
「近くでは見ないのですか」
「命は大事やろ」
「命」
「いや、冗談やけどな。半分くらい」
健太郎は軽く笑った。
その横で田松がバットを肩に乗せて言う。
「俺も打席立ってみたいわ」
「昨日の球をですか」
「いや、立ちたいとは言ったけど、打てるとは言ってへん」
「なるほど」
「でもさ、あれ打ったらめちゃくちゃかっこよくない?」
「タマリン、それ空振りして転ぶ未来しか見えんで」
健太郎が言う。
「タマリン……」
田松は少しだけ肩を落とした。
「岡ちゃんおらんのに、その呼び方だけ残るん何なん」
「似合ってるからちゃう?」
「嬉しないわ」
「受け入れとるやん」
「諦めただけや」
二人のやり取りを聞きながら、護は少しだけ息を吐いた。
騒がしい。
だが、昨日ほど視線の重さはない。
そこへ弘田が近づいてきた。
「池野君、田松君、そろそろ練習戻った方がええと思います」
「弘田君、朝から固いなあ」
「固いんやなくて、練習中ですから」
「正論や」
「そういうことです」
弘田は困ったように肩をすくめてから、護を見た。
「小堅井君」
「はい」
「昨日の球はすごかったです」
「ありがとうございます」
「でも、今日から多分もっと大変です」
「大変」
「はい。ああいう球を投げる人は、相手からも味方からも、使い道を考えられますから」
「使い道」
「言い方が悪いですけど、そういうことです」
弘田は少し気まずそうに笑った。
「だから、無理はせん方がいいです。でも、ちゃんと覚えた方がいいとも思います」
護はうなずいた。
「はい」
自分に何が足りないのかは、まだ全部はわからない。
だが、足りないものがあることだけは、昨日から何度も言われている。
投げるだけでは足りない。
その言葉が、ずっと頭に残っていた。
キャッチボールが終わる頃、龍が護を呼んだ。
「小堅井」
「はい」
「今日は投げる練習をする」
「はい」
「ただし、速い球を投げる練習じゃない」
「……はい?」
「投手の練習だ」
護は少し考えた。
「投げる練習と、投手の練習は違うのですか」
「違う」
龍は短く答えた。
「投げるだけなら、昨日でもできた」
「はい」
「でも、試合で投げるなら、それだけじゃ足りない」
「はい」
「今日は走者を置く」
護は龍を見る。
「走者」
「うん」
龍は一塁ベースを指した。
「走者がいる時、投手は打者だけを見ていればいいわけじゃない」
「はい」
「走者を見る。捕手を見る。守備を見る。カウントを見る」
「たくさんありますね」
「たくさんある」
「それを全部、投げる前に考えるのですか」
「全部、というより、体に入れる」
「体に」
「頭だけだと遅い」
護は黙った。
今の言葉は、少し難しい。
頭で理解することはできる。だが、体に入れるというのは、まだ実感がない。
卓二がキャッチャーミットを持って近づいてきた。
「俺が受けるんですよね」
「うん」
龍はうなずく。
「無理はするな」
「はい」
「昨日とは違う。今日は走者がいる」
「はい」
卓二の顔にも、少し緊張があった。
それを見て、護は思った。
やはり自分だけの話ではない。
自分が投げる時、卓二もそこにいる。
「走者役、誰がやる?」
龍が言う。
「ウチやろ」
待ってましたとばかりに健太郎が一歩前へ出た。
「池野君ですか」
「そうや。ウチ、足は売りやからな」
「知っています」
「小堅井くん、盗んだるで」
「盗む」
「盗塁や」
「はい」
「いや、そこで普通に頷かれると調子狂うな」
健太郎は笑いながら一塁へ向かった。
悟も三塁側から歩いてくる。
「俺も見る」
「竹山さんもですか」
「ああ」
悟は護を見た。
「今のままなら、走られる」
「まだ投げていません」
「見ればわかる」
「……そうですか」
「そうだ」
短い。
だが、悟が言うと妙に説得力があった。
一塁に健太郎。
捕手に卓二。
投手に護。
ただそれだけなのに、護には景色が違って見えた。
昨日の東陽戦で投げた時、打者しか見ていなかった。卓二のミットしか見ていなかった。
だが今は、一塁に健太郎がいる。
その存在が、思ったより大きい。
「まず、セットポジション」
龍が言う。
「はい」
「足を止める。走者を見る」
「はい」
護は言われた通りに構えた。
一塁を見る。
健太郎がにやりと笑う。
「見てるでー」
「見ています」
「いや、そうやなくて」
ベンチの方で田松が笑った。
護はもう一度卓二のミットを見る。
投げようとする。
その瞬間、健太郎が大きくリードを取った。
視界の端で動いた。
護の腕がわずかに止まる。
投げるタイミングがずれた。
ボールは高めに抜けた。
卓二が立ち上がって捕る。
「すみません」
「大丈夫」
卓二が返す。
「今の、走者見た?」
「見ました」
「見たから、ずれた?」
「はい」
龍がうなずく。
「それでいい。最初はそうなる」
「よいのですか」
「よくはない。でも、知るのは大事」
「はい」
悟が一塁方向を見たまま言う。
「二塁、行けたよな」
「余裕」
健太郎が嬉しそうに言う。
「池野の脚なら、そうだろうな」
「おだてても何も出んで」
「喜ぶな」
「そこは喜ぶとこやろ」
護は一塁の健太郎を見た。
「本当に走れるのですか」
「走れるで」
「では、お願いします」
「え、今?」
「はい」
健太郎は一瞬だけ目を丸くして、それから楽しそうに笑った。
「ええなあ、小堅井くん。そういうとこ嫌いやないで」
龍が短く言う。
「やってみよう」
卓二がミットを構え直した。
「どうせなら、打者もいた方がええやろ」
そう言って、田松がバットを持って打席に入った。
「打つのですか」
護が尋ねる。
「打てたらな」
田松は笑った。
「まあ、たぶん見えへんけど」
「タマリン、無理すんなよ」
健太郎が一塁から言う。
「その呼び方、今はええねん」
田松は軽くバットを構えた。
護はセットに入る。
打席の田松を見る。
それから、一塁を見る。
健太郎がリードを取る。
さっきより、少しだけ大きい。
護はそれを見た。
見てしまった。
次の瞬間、健太郎が走った。
反応しなければ、と思った時にはもう遅かった。
足を上げる。
投げる。
田松はバットを動かしかけて、結局振らなかった。
ボールは卓二のミットへ届く。
だが、卓二が握り替えるより早く、健太郎は二塁へ到達していた。
滑り込む必要すらなかった。
卓二はミットに入ったボールを握りかけたまま、二塁を見るしかなかった。
「セーフ、ですね」
波多野が静かに言う。
「送球する前に終わったな」
悟が言った。
健太郎が二塁上で笑う。
「小堅井くん、今のはもろたで」
「……はい」
護は二塁の健太郎を見た。
球は遅くなかった。
投げること自体も、できていた。
打者も、捕手も、走者もいた。
それでも、走られた。
しかも、滑り込ませることすらできなかった。
「今のままなら」
悟が静かに言った。
「速くても点は取られる」
グラウンドが少しだけ静かになった。
護は悟を見る。
きつい言葉だった。
だが、不思議と腹は立たなかった。
たぶん、本当のことだからだ。
「……はい」
護はうなずいた。
「そう思います」
健太郎が二塁上で少しだけ表情を変えた。
「小堅井くん、真面目やなあ」
「真面目に聞くべきことです」
「まあ、そやな」
卓二がミットを膝に置いて、少し呼吸を整える。
「今の、俺も投げられなかった」
「卓二君が、ですか」
「うん。送球以前だった」
卓二は二塁の健太郎を見る。
「捕って、握り替えて、投げる。その前にもう着いてた」
「はい」
「だから、投手だけの問題じゃないけど」
卓二は少しだけ眉を寄せた。
「でも、投手が何もしなかったら、捕手も何もできない」
護は黙ってうなずいた。
自分が投げるだけでは、卓二も動けない。
健太郎を止めるには、投げる前から始まっている。
「牽制」
龍が言う。
「次は牽制をやる」
「はい」
「走者に好きにさせないこと」
「はい」
「打者に投げるだけじゃなくて、走者にも投げる気配を見せる」
「入門書に載っていました」
「読んだのか」
「はい」
「じゃあ、やってみよう」
護は一塁を見た。
健太郎が一塁へ戻りながらまた笑う。
「来るか?」
「投げます」
「宣言したらあかんやろ」
「そうなのですか」
「そうや」
健太郎の言う通り、投げる前に言ってしまっては意味がないらしい。
護は黙って構え直す。
一塁へ投げる。
球は速かった。
だが、方向が少し高い。
一塁の一志が慌てずにミットを上げて捕った。
「速いけど、危ないですね」
一志がにこにこと言う。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいですよ。今のは私が捕れましたから」
「兄、さらっと怖いこと言うなあ」
卓二が言う。
「いや、本当に捕れましたし」
「捕れなかったらどうするの」
「考えたくないですね」
一志はにこにこしたままだった。
健太郎は一塁に戻りながら言う。
「でも今の牽制、速すぎて逆に怖いわ」
「牽制は速いだけでは駄目なのですか」
「駄目やと思うで。ウチが言うのもあれやけど」
「池野君が言うなら、説得力ありますね」
弘田がベンチ側からぼやく。
「走者に怖がられても、アウトにできんかったら意味ないですし」
「弘田君、今日も現実が痛いな」
「すみません」
「謝らんでもええけど」
護はまたうなずいた。
牽制は、速ければいいわけではない。
投げる場所。タイミング。走者を見る目。野手との呼吸。
たった一度一塁へ投げただけで、知らないことがいくつも出てきた。
次はクイックだった。
「足を小さく」
龍が言う。
「はい」
「速く投げる。ただし、雑にしない」
「難しいですね」
「難しい」
「はい」
護はセットに入る。
健太郎がリードを取る。
今度は足を小さく上げ、素早く投げた。
球は明らかに抜けた。
卓二が立ち上がって、なんとか止める。
「すみません」
「大丈夫」
卓二は息を吐く。
「でも、今のはちょっと怖かった」
「怖い」
「うん。どこ来るかわかりにくい」
護は左手を見た。
速く投げようとすると、狙いがずれる。
狙いを定めると、走られる。
両方をやる必要がある。
「もう一回」
悟が言う。
護はうなずいた。
もう一度、セットに入る。
一塁を見る。
卓二を見る。
足を小さく上げる。
今度は少しだけ低めへ行った。
卓二が受ける。
「今のはさっきよりいい」
卓二が言う。
「はい」
「でも」
二塁側で健太郎が手を上げた。
「ウチはたぶん行ける」
「……そうですか」
「うん」
「まだ行けますか」
「行けるな」
悟が言った。
「ただ、少しマシになった」
「少し」
「少しだ」
護はうなずいた。
少し。
今は、それだけでも前進なのだろう。
もう一度、護はセットに入った。
一塁を見る。
健太郎がリードを取る。
卓二のミットを見る。
今度は、すぐには投げなかった。
ほんの少しだけ、間を置く。
健太郎の足が止まった。
大きくはない。だが、さっきまでより一拍だけ遅れた。
護はその瞬間に足を小さく上げ、投げた。
球は高くも低くもなかった。
卓二のミットに収まる。
健太郎は走っていた。
それでも、今度は卓二が握り替えるところまではいけた。
送球はしなかった。
間に合うかどうかは、まだわからない。
だが、さっきとは違った。
「今のは」
卓二がミットを下ろす。
「投げられる形まではいけた」
二塁へ向かいかけていた健太郎も、少し笑う。
「今のはちょっと嫌やったな」
「嫌、ですか」
「うん。走るかどうか、一瞬迷った」
護は一塁を見る。
さっきまでは、健太郎が走ると決めた瞬間に、もう終わっていた。
だが今は、一瞬だけ迷わせた。
「今のなら」
悟が言った。
「勝負にはなる」
護は悟を見る。
「勝負」
「ああ。まだ刺せるとは言わん。でも、走者が好きに走れる形ではない」
龍が小さくうなずいた。
「今の感覚を覚えろ」
「はい」
護は左手を見た。
できた、とは言えない。
だが、さっきまでとは違った。
少しだけ、走者が見えた気がした。
卓二がミットを構え直す。
「護くん」
「はい」
「俺も、もっとちゃんと受けられるようになる」
「はい」
「だから、一緒に覚えよう」
「一緒に」
「うん。バッテリーって、たぶんそういうことだと思う」
護はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
バッテリー。
入門書にも書かれていた言葉だ。
投手と捕手の組み合わせ。
だが、ただ投げる人と受ける人という意味ではないのだろう。
投げる前に何を考えるか。
どこに構えるか。
走者をどう見るか。
打者とどう戦うか。
その全部を、一人でやるわけではない。
「わかりました」
護は言った。
「覚えます」
「うん」
「ただ、かなり多いですね」
「多いね」
卓二は苦笑した。
「俺も多い」
その言い方が少しおかしくて、護はほんの少し口元を緩めた。
練習は続いた。
健太郎は楽しそうに何度もリードを取る。
「小堅井くん、今のやったらウチ行くで」
「はい」
「はいちゃうねん。止める気出して」
「止めます」
「言い方が怖いな」
田松は打席で何度か構えたが、そのたびに首を傾げた。
「これ、打つどころやないな」
「田松君でも?」
護が聞く。
「俺でも何でも、まず見えへん」
田松は苦笑した。
「でも、走者おったら話が全然ちゃうんやな」
「はい」
「さっきの健ちゃん見てたら、ようわかったわ」
龍は静かに見ている。
悟は必要な時だけ短く指摘する。
弘田は困ったように、しかし的確にぼやく。
一志は一塁で送球を受けながらにこにこしている。
卓二はミットを構え続ける。
護は投げるたびに、自分が何も知らなかったことを知っていった。
ただ腕を振れば、速い球は行く。
だが、試合ではそれだけでは済まない。
走者がいる。
打者がいる。
味方がいる。
相手の狙いがある。
白球は、ただ捕手のミットへ向かっているだけではなかった。
練習が終わる頃には、護の頭はかなり疲れていた。
体よりも、頭が疲れている。
それもまた、不思議だった。
帰り支度をしていると、清が近づいてきた。
「お疲れ」
「はい」
「今日は大変そうだったね」
「はい」
「素直」
「実際、大変でした」
「投げるだけじゃなかった?」
「はい」
護は鞄から野球入門書を取り出した。
「このあたりを読み直します」
「どこ?」
「セットポジション、牽制、クイックです」
「うわ、ちゃんとしてる」
「ちゃんとしないと、走られます」
「健ちゃんに?」
「はい」
「健ちゃんは速いからね」
「かなり」
「でも、楽しそうだったよ」
「池野先輩がですか」
「護くんが」
「私が」
「うん」
護は少し考えた。
楽しかったのだろうか。
何度も失敗した。
走られた。
球は抜けた。
牽制は危なかった。
悟には点を取られると言われた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「……そうかもしれません」
「そっか」
清は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、よかった」
「よかったのですか」
「うん。大変で、でも嫌じゃないなら、続けられるから」
護は入門書を見下ろした。
投げるだけでは足りない。
速いだけでも足りない。
昨日までは、それを言葉として聞いていた。
今日は少しだけ、体でわかった。
知らなければならないことは山ほどある。
それは気が遠くなるほど多い。
けれど、知らないものは、覚えればいい。
護は本を鞄にしまい、左手を軽く握った。
「清さん」
「ん?」
「野球は、面倒ですね」
「今さら?」
「はい」
「でも?」
「……面白いのかもしれません」
清は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「うん。たぶん、そうだよ」
夕方のグラウンドに、ボールの音がまだ少し残っていた。
昨日の三球で、護は見られる側になった。
今日の練習で、護は初めて知った。
投手として立つには、投げるだけでは足りない。
その当たり前のことが、今は少しだけ重く、そして少しだけ面白かった。