第九話 投げるだけでは | ゆうすけくんのてきとーブログ

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かわいいコーギーのゆうすけくんのお父さんが、
美味しいと思ったもの、趣味
そして、ゆうすけ君との思い出を書いているブログです。

 東陽学園との練習試合の翌日、南陽高校のグラウンドには、いつもと同じように土の匂いがしていた。

 ランニング。
 体操。
 キャッチボール。
 声出し。

 流れだけなら、何も変わっていない。

 だが、小堅井護は少しだけ違和感を覚えていた。

 理由はすぐにわかった。

 見られている。

 全員がこちらを見ているわけではない。だが、ふとした時に視線を感じる。ボールを持った時。キャッチボールで腕を振った時。用具を運んでいるだけの時でさえ、誰かが少しだけこちらを見る。

 昨日の三球。

 たったそれだけで、周囲の中にある自分の位置が少し変わったらしい。

「小堅井くん」

 健太郎が外野の方から近づいてきた。

「はい」
「今日も投げるん?」
「予定は聞いておりません」
「投げるなら教えてな。ウチ、遠くから見るから」
「近くでは見ないのですか」
「命は大事やろ」
「命」
「いや、冗談やけどな。半分くらい」

 健太郎は軽く笑った。

 その横で田松がバットを肩に乗せて言う。

「俺も打席立ってみたいわ」
「昨日の球をですか」
「いや、立ちたいとは言ったけど、打てるとは言ってへん」
「なるほど」
「でもさ、あれ打ったらめちゃくちゃかっこよくない?」
「タマリン、それ空振りして転ぶ未来しか見えんで」
 健太郎が言う。
「タマリン……」
 田松は少しだけ肩を落とした。
「岡ちゃんおらんのに、その呼び方だけ残るん何なん」
「似合ってるからちゃう?」
「嬉しないわ」
「受け入れとるやん」
「諦めただけや」

 二人のやり取りを聞きながら、護は少しだけ息を吐いた。

 騒がしい。
 だが、昨日ほど視線の重さはない。

 そこへ弘田が近づいてきた。

「池野君、田松君、そろそろ練習戻った方がええと思います」
「弘田君、朝から固いなあ」
「固いんやなくて、練習中ですから」
「正論や」
「そういうことです」

 弘田は困ったように肩をすくめてから、護を見た。

「小堅井君」
「はい」
「昨日の球はすごかったです」
「ありがとうございます」
「でも、今日から多分もっと大変です」
「大変」
「はい。ああいう球を投げる人は、相手からも味方からも、使い道を考えられますから」
「使い道」
「言い方が悪いですけど、そういうことです」
 弘田は少し気まずそうに笑った。
「だから、無理はせん方がいいです。でも、ちゃんと覚えた方がいいとも思います」

 護はうなずいた。

「はい」

 自分に何が足りないのかは、まだ全部はわからない。
 だが、足りないものがあることだけは、昨日から何度も言われている。

 投げるだけでは足りない。

 その言葉が、ずっと頭に残っていた。

 キャッチボールが終わる頃、龍が護を呼んだ。

「小堅井」
「はい」
「今日は投げる練習をする」
「はい」
「ただし、速い球を投げる練習じゃない」
「……はい?」
「投手の練習だ」

 護は少し考えた。

「投げる練習と、投手の練習は違うのですか」
「違う」

 龍は短く答えた。

「投げるだけなら、昨日でもできた」
「はい」
「でも、試合で投げるなら、それだけじゃ足りない」
「はい」
「今日は走者を置く」

 護は龍を見る。

「走者」
「うん」

 龍は一塁ベースを指した。

「走者がいる時、投手は打者だけを見ていればいいわけじゃない」
「はい」
「走者を見る。捕手を見る。守備を見る。カウントを見る」
「たくさんありますね」
「たくさんある」
「それを全部、投げる前に考えるのですか」
「全部、というより、体に入れる」
「体に」
「頭だけだと遅い」

 護は黙った。

 今の言葉は、少し難しい。

 頭で理解することはできる。だが、体に入れるというのは、まだ実感がない。

 卓二がキャッチャーミットを持って近づいてきた。

「俺が受けるんですよね」
「うん」
 龍はうなずく。
「無理はするな」
「はい」
「昨日とは違う。今日は走者がいる」
「はい」

 卓二の顔にも、少し緊張があった。

 それを見て、護は思った。

 やはり自分だけの話ではない。

 自分が投げる時、卓二もそこにいる。

「走者役、誰がやる?」
 龍が言う。

「ウチやろ」

 待ってましたとばかりに健太郎が一歩前へ出た。

「池野君ですか」
「そうや。ウチ、足は売りやからな」
「知っています」
「小堅井くん、盗んだるで」
「盗む」
「盗塁や」
「はい」
「いや、そこで普通に頷かれると調子狂うな」

 健太郎は笑いながら一塁へ向かった。

 悟も三塁側から歩いてくる。

「俺も見る」
「竹山さんもですか」
「ああ」
 悟は護を見た。
「今のままなら、走られる」
「まだ投げていません」
「見ればわかる」
「……そうですか」
「そうだ」

 短い。

 だが、悟が言うと妙に説得力があった。

 一塁に健太郎。
 捕手に卓二。
 投手に護。

 ただそれだけなのに、護には景色が違って見えた。

 昨日の東陽戦で投げた時、打者しか見ていなかった。卓二のミットしか見ていなかった。

 だが今は、一塁に健太郎がいる。

 その存在が、思ったより大きい。

「まず、セットポジション」
 龍が言う。
「はい」
「足を止める。走者を見る」
「はい」

 護は言われた通りに構えた。

 一塁を見る。

 健太郎がにやりと笑う。

「見てるでー」
「見ています」
「いや、そうやなくて」

 ベンチの方で田松が笑った。

 護はもう一度卓二のミットを見る。

 投げようとする。

 その瞬間、健太郎が大きくリードを取った。

 視界の端で動いた。

 護の腕がわずかに止まる。

 投げるタイミングがずれた。

 ボールは高めに抜けた。

 卓二が立ち上がって捕る。

「すみません」
「大丈夫」
 卓二が返す。
「今の、走者見た?」
「見ました」
「見たから、ずれた?」
「はい」

 龍がうなずく。

「それでいい。最初はそうなる」
「よいのですか」
「よくはない。でも、知るのは大事」
「はい」

 悟が一塁方向を見たまま言う。

「二塁、行けたよな」
「余裕」
 健太郎が嬉しそうに言う。
「池野の脚なら、そうだろうな」
「おだてても何も出んで」
「喜ぶな」
「そこは喜ぶとこやろ」

 護は一塁の健太郎を見た。

「本当に走れるのですか」
「走れるで」
「では、お願いします」
「え、今?」
「はい」

 健太郎は一瞬だけ目を丸くして、それから楽しそうに笑った。

「ええなあ、小堅井くん。そういうとこ嫌いやないで」

 龍が短く言う。

「やってみよう」

 卓二がミットを構え直した。

「どうせなら、打者もいた方がええやろ」

 そう言って、田松がバットを持って打席に入った。

「打つのですか」
 護が尋ねる。

「打てたらな」
 田松は笑った。
「まあ、たぶん見えへんけど」

「タマリン、無理すんなよ」
 健太郎が一塁から言う。

「その呼び方、今はええねん」

 田松は軽くバットを構えた。

 護はセットに入る。
 打席の田松を見る。
 それから、一塁を見る。

 健太郎がリードを取る。

 さっきより、少しだけ大きい。

 護はそれを見た。
 見てしまった。

 次の瞬間、健太郎が走った。

 反応しなければ、と思った時にはもう遅かった。

 足を上げる。
 投げる。

 田松はバットを動かしかけて、結局振らなかった。
 ボールは卓二のミットへ届く。

 だが、卓二が握り替えるより早く、健太郎は二塁へ到達していた。

 滑り込む必要すらなかった。

 卓二はミットに入ったボールを握りかけたまま、二塁を見るしかなかった。

「セーフ、ですね」

 波多野が静かに言う。

「送球する前に終わったな」
 悟が言った。

 健太郎が二塁上で笑う。

「小堅井くん、今のはもろたで」
「……はい」

 護は二塁の健太郎を見た。

 球は遅くなかった。
 投げること自体も、できていた。
 打者も、捕手も、走者もいた。

 それでも、走られた。

 しかも、滑り込ませることすらできなかった。

「今のままなら」
 悟が静かに言った。
「速くても点は取られる」

 グラウンドが少しだけ静かになった。

 護は悟を見る。

 きつい言葉だった。

 だが、不思議と腹は立たなかった。
 たぶん、本当のことだからだ。

「……はい」
 護はうなずいた。
「そう思います」

 健太郎が二塁上で少しだけ表情を変えた。

「小堅井くん、真面目やなあ」
「真面目に聞くべきことです」
「まあ、そやな」

 卓二がミットを膝に置いて、少し呼吸を整える。

「今の、俺も投げられなかった」
「卓二君が、ですか」
「うん。送球以前だった」
 卓二は二塁の健太郎を見る。
「捕って、握り替えて、投げる。その前にもう着いてた」
「はい」
「だから、投手だけの問題じゃないけど」
 卓二は少しだけ眉を寄せた。
「でも、投手が何もしなかったら、捕手も何もできない」

 護は黙ってうなずいた。

 自分が投げるだけでは、卓二も動けない。

 健太郎を止めるには、投げる前から始まっている。

「牽制」
 龍が言う。
「次は牽制をやる」
「はい」
「走者に好きにさせないこと」
「はい」
「打者に投げるだけじゃなくて、走者にも投げる気配を見せる」
「入門書に載っていました」
「読んだのか」
「はい」
「じゃあ、やってみよう」

 護は一塁を見た。

 健太郎が一塁へ戻りながらまた笑う。

「来るか?」
「投げます」
「宣言したらあかんやろ」
「そうなのですか」
「そうや」

 健太郎の言う通り、投げる前に言ってしまっては意味がないらしい。

 護は黙って構え直す。

 一塁へ投げる。

 球は速かった。

 だが、方向が少し高い。

 一塁の一志が慌てずにミットを上げて捕った。

「速いけど、危ないですね」
 一志がにこにこと言う。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいですよ。今のは私が捕れましたから」
「兄、さらっと怖いこと言うなあ」
 卓二が言う。
「いや、本当に捕れましたし」
「捕れなかったらどうするの」
「考えたくないですね」
 一志はにこにこしたままだった。

 健太郎は一塁に戻りながら言う。

「でも今の牽制、速すぎて逆に怖いわ」
「牽制は速いだけでは駄目なのですか」
「駄目やと思うで。ウチが言うのもあれやけど」
「池野君が言うなら、説得力ありますね」
 弘田がベンチ側からぼやく。
「走者に怖がられても、アウトにできんかったら意味ないですし」
「弘田君、今日も現実が痛いな」
「すみません」
「謝らんでもええけど」

 護はまたうなずいた。

 牽制は、速ければいいわけではない。

 投げる場所。タイミング。走者を見る目。野手との呼吸。

 たった一度一塁へ投げただけで、知らないことがいくつも出てきた。

 次はクイックだった。

「足を小さく」
 龍が言う。
「はい」
「速く投げる。ただし、雑にしない」
「難しいですね」
「難しい」
「はい」

 護はセットに入る。

 健太郎がリードを取る。

 今度は足を小さく上げ、素早く投げた。

 球は明らかに抜けた。

 卓二が立ち上がって、なんとか止める。

「すみません」
「大丈夫」
 卓二は息を吐く。
「でも、今のはちょっと怖かった」
「怖い」
「うん。どこ来るかわかりにくい」

 護は左手を見た。

 速く投げようとすると、狙いがずれる。

 狙いを定めると、走られる。

 両方をやる必要がある。

「もう一回」
 悟が言う。

 護はうなずいた。

 もう一度、セットに入る。
 一塁を見る。
 卓二を見る。
 足を小さく上げる。

 今度は少しだけ低めへ行った。

 卓二が受ける。

「今のはさっきよりいい」
 卓二が言う。
「はい」
「でも」
 二塁側で健太郎が手を上げた。
「ウチはたぶん行ける」
「……そうですか」
「うん」
「まだ行けますか」
「行けるな」
 悟が言った。
「ただ、少しマシになった」
「少し」
「少しだ」

 護はうなずいた。

 少し。

 今は、それだけでも前進なのだろう。

 もう一度、護はセットに入った。

 一塁を見る。
 健太郎がリードを取る。
 卓二のミットを見る。

 今度は、すぐには投げなかった。

 ほんの少しだけ、間を置く。

 健太郎の足が止まった。
 大きくはない。だが、さっきまでより一拍だけ遅れた。

 護はその瞬間に足を小さく上げ、投げた。

 球は高くも低くもなかった。
 卓二のミットに収まる。

 健太郎は走っていた。
 それでも、今度は卓二が握り替えるところまではいけた。

 送球はしなかった。
 間に合うかどうかは、まだわからない。

 だが、さっきとは違った。

「今のは」
 卓二がミットを下ろす。
「投げられる形まではいけた」

 二塁へ向かいかけていた健太郎も、少し笑う。

「今のはちょっと嫌やったな」
「嫌、ですか」
「うん。走るかどうか、一瞬迷った」

 護は一塁を見る。

 さっきまでは、健太郎が走ると決めた瞬間に、もう終わっていた。
 だが今は、一瞬だけ迷わせた。

「今のなら」
 悟が言った。
「勝負にはなる」

 護は悟を見る。

「勝負」
「ああ。まだ刺せるとは言わん。でも、走者が好きに走れる形ではない」

 龍が小さくうなずいた。

「今の感覚を覚えろ」
「はい」

 護は左手を見た。

 できた、とは言えない。
 だが、さっきまでとは違った。

 少しだけ、走者が見えた気がした。

 卓二がミットを構え直す。

「護くん」
「はい」
「俺も、もっとちゃんと受けられるようになる」
「はい」
「だから、一緒に覚えよう」
「一緒に」
「うん。バッテリーって、たぶんそういうことだと思う」

 護はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。

 バッテリー。

 入門書にも書かれていた言葉だ。
 投手と捕手の組み合わせ。

 だが、ただ投げる人と受ける人という意味ではないのだろう。

 投げる前に何を考えるか。
 どこに構えるか。
 走者をどう見るか。
 打者とどう戦うか。

 その全部を、一人でやるわけではない。

「わかりました」
 護は言った。
「覚えます」
「うん」
「ただ、かなり多いですね」
「多いね」
 卓二は苦笑した。
「俺も多い」

 その言い方が少しおかしくて、護はほんの少し口元を緩めた。

 練習は続いた。

 健太郎は楽しそうに何度もリードを取る。

「小堅井くん、今のやったらウチ行くで」
「はい」
「はいちゃうねん。止める気出して」
「止めます」
「言い方が怖いな」

 田松は打席で何度か構えたが、そのたびに首を傾げた。

「これ、打つどころやないな」
「田松君でも?」
 護が聞く。
「俺でも何でも、まず見えへん」
 田松は苦笑した。
「でも、走者おったら話が全然ちゃうんやな」
「はい」
「さっきの健ちゃん見てたら、ようわかったわ」

 龍は静かに見ている。
 悟は必要な時だけ短く指摘する。
 弘田は困ったように、しかし的確にぼやく。
 一志は一塁で送球を受けながらにこにこしている。
 卓二はミットを構え続ける。

 護は投げるたびに、自分が何も知らなかったことを知っていった。

 ただ腕を振れば、速い球は行く。
 だが、試合ではそれだけでは済まない。

 走者がいる。
 打者がいる。
 味方がいる。
 相手の狙いがある。

 白球は、ただ捕手のミットへ向かっているだけではなかった。

 練習が終わる頃には、護の頭はかなり疲れていた。

 体よりも、頭が疲れている。

 それもまた、不思議だった。

 帰り支度をしていると、清が近づいてきた。

「お疲れ」
「はい」
「今日は大変そうだったね」
「はい」
「素直」
「実際、大変でした」
「投げるだけじゃなかった?」
「はい」
 護は鞄から野球入門書を取り出した。
「このあたりを読み直します」
「どこ?」
「セットポジション、牽制、クイックです」
「うわ、ちゃんとしてる」
「ちゃんとしないと、走られます」
「健ちゃんに?」
「はい」
「健ちゃんは速いからね」
「かなり」
「でも、楽しそうだったよ」
「池野先輩がですか」
「護くんが」
「私が」
「うん」

 護は少し考えた。

 楽しかったのだろうか。

 何度も失敗した。
 走られた。
 球は抜けた。
 牽制は危なかった。
 悟には点を取られると言われた。

 それでも、不思議と嫌ではなかった。

「……そうかもしれません」
「そっか」
 清は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、よかった」
「よかったのですか」
「うん。大変で、でも嫌じゃないなら、続けられるから」

 護は入門書を見下ろした。

 投げるだけでは足りない。
 速いだけでも足りない。

 昨日までは、それを言葉として聞いていた。
 今日は少しだけ、体でわかった。

 知らなければならないことは山ほどある。
 それは気が遠くなるほど多い。

 けれど、知らないものは、覚えればいい。

 護は本を鞄にしまい、左手を軽く握った。

「清さん」
「ん?」
「野球は、面倒ですね」
「今さら?」
「はい」
「でも?」
「……面白いのかもしれません」

 清は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。

「うん。たぶん、そうだよ」

 夕方のグラウンドに、ボールの音がまだ少し残っていた。

 昨日の三球で、護は見られる側になった。

 今日の練習で、護は初めて知った。

 投手として立つには、投げるだけでは足りない。

 その当たり前のことが、今は少しだけ重く、そして少しだけ面白かった。