第三話 グラウンドの入口 | ゆうすけくんのてきとーブログ

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かわいいコーギーのゆうすけくんのお父さんが、
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 翌朝、小堅井護はいつもより少し早く目が覚めた。

 寝不足というほどではない。だが、深く眠れたとも言い難かった。目を閉じるたびに、土の色をしたグラウンドと、白いボール、それから平井龍の落ち着いた声が脳裏に浮かんだ。

 ――待ってる。

 たった一言なのに、妙に残る。

 布団を畳み、顔を洗い、制服に着替える。鏡の前で眼鏡の位置を直した時、自分の顔が少しだけこわばっているのに気づいた。

 何を緊張しているのか、自分でもよくわからない。

 野球部に入ると決めたわけではない。今日もう一度グラウンドへ行くと決めたわけでも、本来はない。ただ、昨夜ノートに書き出した「野球について」の文字列は、寝て起きても消えてはいなかった。

 台所では、母がすでに朝食の支度を終えていた。父は新聞を読んでいる。

「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう、護。今日は少し早いわね」
「そのようなことは」
「あるわよ」

 母は笑って、焼いた鮭を皿にのせた。

 護は席につき、黙って箸を取る。父は新聞から目を離さないまま、ひとつだけ言った。

「考えはまとまったか」
「いえ、まだです」
「そうか」

 それ以上は言わない。

 だが、昨夜の「自分で決めろ」という言葉の続きが、護にはずっと聞こえているような気がした。やるなら最後まで責任を持て。文武両道だ。中途半端にするな。

 父の言葉は、励ましというより規律に近い。けれど、だからこそ逃げ道もない。

 母が味噌汁をよそいながら、何気ない声で尋ねた。

「今日は見に行くだけでもいいんじゃない」

 護は顔を上げる。

「……何を、でしょうか」
「野球部よ」
「まだ行くとは」
「行かない人は、朝からそんな顔しないもの」

 護は返事に窮した。

 父が新聞をめくる音だけが小さく響く。

「見るだけなら、部活でも何でもないわ」
 母はやわらかく言う。
「それで違うと思ったら、やめればいいでしょう」
「そう、でしょうか」
「そうよ」

 その言葉に、護は少しだけ肩の力を抜いた。

 見るだけなら、確かに何も始まっていないのかもしれない。

 南陽高校へ向かう通学路の途中、護はいつも通りの足取りで歩いていた。だが頭の中では、昨日よりも少しだけ具体的なことを考えていた。

 投手とは、試合でどのような役割を担うのか。
 捕手は、なぜあのようにしゃがんで受けるのか。
 野球部に入った場合、自分は何を覚えなければならないのか。

 考え始めると、わからないことばかりだった。

 それなのに、わからないままでいるのが少し落ち着かない。護はそういう性分だった。知らないなら調べる。わからないなら理解する。そうしてきたから、勉強でも特に困ったことはない。

 だが野球は、数学のように教科書を開けば順番に理解できるものでもなさそうだった。
 

 せめて入門書のようなものがあればいいのだが、と護は思う。

 昨日ノートに書き並べた項目を思い出しながら歩いていると、後ろから声が飛んだ。

「小堅井くん!」

 振り向くと、平井清がこちらへ駆けてくるところだった。朝日を受けて揺れるショートヘアと、勢いのある足取りは、朝からずいぶん元気だ。

 護は一瞬だけ逃げたい気持ちになったが、足を止めて待った。

「おはようございます」
「おはよう!」

 清は護の横まで来ると、少し息を整えてから、にやりとした。

「ねえ」
「はい」
「今日、来るでしょ」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「その顔は来る顔だよ」
「顔で判断されるのは不本意です」
「でも昨日よりだいぶ考えてる顔してる」
「……そうでしょうか」
「そうです」

 清は胸を張って断言した。

 護は困った。この人はどうして、こちらの迷いをこんなに平然と言い当てるのだろう。

「見に行くだけでもいいから」
 清は少しだけ声の調子を落とした。
「昨日の一回で終わるの、もったいないし」
「もったいない、ですか」
「うん。あんな球投げるのに、何もしないの、もったいない」
「私は、まだ」
「わかってるよ」

 清は珍しく、昨日ほど押し切る声では言わなかった。

「だから、決める前に見て。ちゃんと」

 護はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。

「……見るだけです」
「よし!」

 清はすぐに明るさを取り戻した。

 その切り替えの速さに、護は少しだけ呆れ、ほんの少しだけ安心した。

 放課後、護は昨日と同じグラウンドの前に立っていた。

 ただし今日は、「来てしまった」というより「来るつもりで来た」に近かった。そこに自分でも気づいてしまって、少し複雑だった。

 グラウンドの土の匂いは、昨日より落ち着いて感じられた。

 遠くでノックの音がする。声が飛ぶ。ベンチ脇では数人がストレッチをしている。昨日はただ圧倒されるばかりだった光景が、今日は少しだけ要素ごとに見えた。

「お、来たやん」

 真っ先に声をかけてきたのは池野健太郎だった。

 昨日、外野で大きな声を上げていた選手である。こちらへ駆けてくる動きがいちいち軽い。

「真面目くん、ほんまに来たんやな」
「小堅井です」
「かてえなあ。ええやん、真面目くんで」
「よくありません」
「ウチは好きやけどなあ、そういうの」
「池野君、初対面の一年相手に距離近すぎません?」

 少し離れたところから、弘田がやや呆れたように言った。

「別にええやろ」
「相手はまだ慣れてないですから」
「弘田君は細かいなあ」
「そんなことないですよ」

 軽いやり取りだった。上下というより、確かに同級生同士の気安さがある。

 弘田は長身の体を少し傾けて護を見た。

「小堅井君、こんにちは」
「こんにちは」
「昨日の球、だいぶえぐかったですよ」
「えぐい、とは」
「褒めてるんです」
「そうですか」
「そうです」

 弘田はそこで小さく肩をすくめた。

 そこへ卓二もやってくる。

「こんにちは」
「こんにちは」
「今日は大丈夫。昨日みたいにいきなり受けたりしないから」
「それは、どういう意味でしょうか」
「いや、昨日のあれ、まだちょっと手が……」

 卓二は苦笑いしながら左手を軽く握って見せた。

「池野先輩なら受けられるんじゃない?」
「ウチ外野手やし。そこは専門外や」
「さっきまで大口叩いてたのに」
「そら別やって」

 健太郎はけらけら笑う。

 少し離れたところで、一塁の守備練習をしていた東村一志がこちらへ目を向けた。卓二がそれに気づく。

「あれ、兄です」
「兄?」
「はい。東村一志。うちの兄」
「そうだったのですか」
「言ってなかったっけ」
「聞いておりません」
「そっか」

 卓二は悪びれずに笑った。

 そこへ、中肉中背の、眼鏡をかけた一年生が遠慮がちに近づいてきた。

「あの、東村くん」
「あ、波多野くん」
「その……この方が例の」
「例のって何」
「左で、ものすごい球を投げる」

 卓二が護に向き直る。

「波多野彰俊くん。同級生」
「波多野です。よろしくお願いします」
「小堅井です。よろしくお願いします」

 波多野は護の顔を見て、少し親しみを覚えたように言った。

「あなたも眼鏡なんですね」
「はい」
「何となく勝手に、親近感があります」
「そうでしょうか」
「ええ」

 その時、清がひょいと顔を出した。

「卓ちゃん、ちゃんと案内してる?」
「してるよ」
「アッキーも、変なとこだけ説明しないでよ」
「心外ですね。私はかなり真面目に説明しています」
「それは知ってる」

 清はそう言ってから護の方を見た。

「昨日の遠投、みんなもう知ってるから」
「そのようですね」
「噂になるに決まってるでしょ」

 波多野が続ける。

「昨日の遠投、聞きました。すごかったそうですね」
「騒ぎになっただけです」

 護がそう言うと、波多野はもう一度その顔を見た。

「学校の新記録だったそうです。十二分にすごいですよ」
「そうでしょうか」
「そうですよ」

 グラウンドを見回すと、三塁付近では悟がノックを受けていた。小柄な体で鋭く動き、打球を軽くさばいては、一塁へ低い送球を放っている。派手ではないが、隙がない。

「竹山先輩はすごいよ」
 卓二が言う。
「何でもできるから」
「見ればわかります」
「そうだね」
「……すみません」
「いや、いいよ」

 護は自分の受け答えに難があることを、少しずつ自覚し始めていた。

 一塁には東村一志がいて、送球を受けながら誰かに何か言っている。近くを通ると、「その打者、昨日の練習試合やと外角の打率低かったんですけどね」と、いかにも楽しそうな声が聞こえてきた。

「兄、またやってる」
 卓二が苦笑する。
「何をされているのですか」
「データ」
「データ?」

 護が問い返すと、波多野がすかさず口を開いた。

「対戦校の傾向や打者の特徴などを集めておられるんです」
「よく知っていますね」
「先輩方のことでしたら、多少は」
「すごいですね」

 護が言うと、卓二も「すげえな」と続けた。

 波多野は、少し得意そうに眼鏡を押し上げた。

「いやあ、それほどでも」

 どうやらこれがこの一年生の中でのお約束らしい。

 さらに視線をずらすと、二塁付近では弘田がゆっくり守備位置を確認していた。長身で細い体が目立つ。

「弘田君も頭いいんだよな」
 卓二が言う。
「学年一位とか」
「まあ、そうですね」
 弘田はあっさり認めた。
「でも打席入ると急にでっかいの狙うやん」
 離れたところから健太郎が言う。
「池野君にだけは言われたくないです」
 弘田が即座に返す。
「何でやねん」
「いやもう、あんたはまず落ち着いて守ってください。こっちまでしんどなるんで」
「ウチの守備範囲の広さ知らんの?」
「広いんは認めます。でも雑なんですよ」
「うわ、出た」
「事実ですやん」

 そのやり取りを聞きながら、護は昨日より少しだけ居心地の悪さが薄いことに気づいた。完全に歓迎されているわけではないのだろうが、少なくとも邪魔者として追い返される空気ではない。

「捕手は、昨日言っていた方が今はいないのですよね」

 護が尋ねると、卓二が「ああ」と頷いた。

「岡部先輩」
「どのような方ですか」
「……難しいな」

 卓二が顔をしかめる。

「まあまあ、やるぞ」
 悟が、いつの間にか近くまで来ていて言った。
「でも面倒くさい」
「停学中やしなあ」
 弘田が肩をすくめる。
「この大事な時に、何やってんだか」
「それでもおらんと困るんやろ」
 外野の方から健太郎が口を挟む。
「まあ、それはそうです」
 弘田はあっさり認めた。

 護にはまだよくわからない。だが「いないと困る面倒くさい人間」というのは、何となく理解できる気がした。

 悟が護を見る。

「お前」
「はい」
「昨日の球、もう一回投げろ」

 昨日と変わらぬ物言いだった。

「見たい」
「今、ですか」
「今じゃなかったら何だよ」
「竹山先輩、いきなりですよ」
 卓二が言う。
「別にいいだろ」
「心の準備とか」
「野球にそんなもんねえよ」

 護は悟の目を見た。

 相変わらず、簡単には認めない目だった。だが昨日とは少し違う。値踏みだけではなく、確かめたいという意志がある。

「投げてみろ」

 短い言葉だった。

 護は一瞬だけ龍の方を見た。龍は少し離れた場所で後輩たちを見ていたが、こちらの視線に気づくと、静かにうなずいた。

 清は期待で目を輝かせている。
 卓二は少し緊張した顔をしている。
 波多野は明らかに見たそうだった。

 護は小さく息を吐いた。

「……一球だけです」
「一球でいい」

 悟は即答した。

 そう言うと悟は自分でマスクとミットを取り、慣れた動きでブルペンへ入った。卓二が驚いたように目を見張る。

「竹山先輩が受けるんですか」
「自分で見たいんだよ」
 外野から健太郎が面白そうに言う。
「まあ、そういう人やし」
 弘田も小さくうなずいた。

 護はボールを渡される。左手に収めると、昨日ほどの違和感はなかった。

 だが、昨日よりずっと人の目がある。

 悟がしゃがむ。構えは低く、無駄がない。投手経験もあるだけに、受ける側の空気も知っているのだろうと護にもわかった。

「来い」

 短い声だった。

 護はブルペンの土を踏みしめる。左腕を後ろへ引く。踏み出す。体が前へ出る。

 放たれたボールは、昨日と同じように真っ直ぐだった。

 悟のミットが、鋭い音を立てる。

 受け切った。

 だが、悟はそのまま平然とはしていなかった。ミットを外した左手をじっと見つめる。

 声にはならない程度の反応だったが、それだけで護の球の重さは十分伝わった。

 周囲からどっと声が上がる。

「うわ、やっぱ速え」
「今の受けて手ぇ来たやろ」
「左であれか」

 卓二は目を丸くしている。波多野は「すごいですね……」と本気で呟いた。清は今にも飛び跳ねそうな顔だ。

 悟は立ち上がると、一度だけ左手を軽く振った。それから護を見る。

「球は本物だな」

 その一言は、護にとって思った以上に重かった。

 認められた、というにはまだ早いのだろう。だが少なくとも、最初から切り捨てられたわけではない。

「でも」
 悟は続ける。
「これだけじゃ野球にはならない」
「……はい」

 護は素直にうなずいた。

 それが悔しいとか腹立たしいとかより先に、事実なのだろうと思えたからだ。

 清が満面の笑みを浮かべる。

「ほら!」
「清ちゃん、うるさい」
「だって!」
「わかってる」

 悟のその言い方が、護には少しだけ意外だった。もっと刺のある返しを想像していたのだが、どうやらこの人も、思ったことを全部そのまま口にするわけではないらしい。

 龍が歩いてくる。

「どうだった」
 問われて、悟は肩をすくめた。
「球は使える」
「そうか」
「使えるって何ですか」

 護が思わず聞くと、健太郎が吹き出した。

「そこ食いつく?」
「表現が曖昧です」
「真面目やなあ、あんた」
「面白くはありません」
「ウチはおもろいと思うけど」

 また笑いが起きる。

 護は少しだけ眉を寄せたが、強く否定するほどでもなかった。

 龍が、そんな空気を見ながら静かに言う。

「小堅井くん」
「はい」
「よかったら、今日は最後まで見ていかないか」
「最後まで、ですか」
「練習の流れも、部の雰囲気も、まだわからないだろう」
「……はい」
「入るかどうかを決めるのは、そのあとでいい」

 護は答えなかった。

 ただ、帰る理由をすぐには思いつかなかった。

 昨日までなら、ここは自分のいる場所ではないと簡単に線を引けたはずだった。だが今は、その線が昨日より少しだけ曖昧になっている。

「残ります」

 口から出た言葉は、自分でも思っていたより素直だった。

 清がまた小さく拳を握る。
 卓二がほっとしたように笑う。
 波多野は「ですよね」となぜか納得した顔をしている。

 弘田は少しだけ口元を緩め、
「まあ、その方がええと思いますよ、小堅井君」
と穏やかに言った。

 悟はもう護を見ていなかったが、口元だけ少しだけ動いた気がした。

 グラウンドには夕方の光が落ち始めていた。

 護はその中に立ちながら、自分がもう昨日までと同じ距離ではこの場所を見られなくなっていることを、ゆっくりと知り始めていた。

 

 

来週4月8日は愛馬セラフィックコールが川﨑記念出走予定のため休載します。