家に帰ってからも、左手の中に白球の感触が残っていた。
もちろん、実際に握っているわけではない。南陽高校のグラウンドで返したはずのボールは、もうとうに誰かの手に渡り、土の上を転がり、あるいは籠の中へ戻っているだろう。
なのに、小堅井護の左手は、何度も何度もあの硬さを思い出した。
川石より軽く、けれど妙に芯のある感触だった。
靴を揃えて玄関に上がり、手を洗い、鞄を所定の位置に置く。そうしたいつもの動作をひとつずつ済ませながらも、頭の中では別のことを考えていた。
平井清の声。
卓二の慌てた顔。
あの小柄な三塁手――竹山悟の、値踏みするような目。
そして何より、平井龍の声。
――君の力を貸してほしい。
あそこまで真っ直ぐに頼まれたことは、あまりなかった気がする。
護は自室の机の前に座り、鞄から教科書を取り出した。予習をしなければならない。入学早々で気を抜いている場合ではない。高校の授業は中学までとは違う、と父にも何度も言われている。
国語、数学、英語。順番に机へ並べる。
だが、ノートを開いても、視線が紙の上を滑るだけだった。
不意に、左手を開いてみる。
大きな手だった。昔からそうだった。小学生の頃には、同級生よりひと回りもふた回りも大きかった覚えがある。だから石を投げるのも、たぶん、人より少しだけ遠くへ届いたのだろうと思っていた。
少しだけ、のつもりだった。
まさか、高校のグラウンドであそこまで騒がれるとは思っていなかった。
「護、帰ってたのね」
部屋の外から母の声がした。
「はい」
「お茶、持っていこうか」
「お願いします」
返事をしてから、しまった、と思う。何となく気を使わせてしまった気がした。だが今さら言い直すのも不自然で、護はそのまま椅子に座って待った。
ほどなくして、母が湯のみを持って入ってくる。
「珍しいわね。帰ってきてすぐ勉強してるのはいつも通りだけど、今日は何だかぼんやりしてる」
「そうでしょうか」
「そうよ」
母は穏やかに笑って、机の上に湯のみを置いた。
公務員である母は、父ほど言葉に角がない。そのぶん、護の変化には案外早く気づく。
「学校で何かあったの」
「……いえ」
「その“いえ”は、だいたい何かあった時の言い方ね」
「そのようなことは」
「あるのよ、昔から」
母はそう言って、無理に問い詰めようとはしなかった。問い詰められない方が、かえって話しにくいこともある。
護はしばらく黙っていたが、結局、湯のみから上がる湯気を見ながら口を開いた。
「部活に、誘われました」
「あら」
母は少し目を丸くした。
「珍しいこともあるのね」
「珍しい、でしょうか」
「あなた、自分からああいうところへ行くタイプじゃないでしょう」
「自分からではありません」
「じゃあ、誰かに誘われたのね」
「はい」
答えながら、清の顔が浮かぶ。
あれは誘われたというより、半ば連行に近かった気もする。
「何部?」
「野球部です」
「野球?」
今度は少しだけ驚きが強かった。
「護、野球してた?」
「していません」
「でしょうね」
「……はい」
でしょうね、と言われると、それはそれで少し複雑だった。
母は小さく笑ってから、椅子の脇にもたれた。
「でも、野球部に誘われるなんて、何かあったの?」
「体育の時間に、遠投がありまして」
「うん」
「投げたら、少し騒ぎになりました」
「少し?」
「……やや」
「かなり、の間違いじゃないの」
図星だったので、護は黙った。
母はそこで何かに気づいたように、ふっと表情をやわらげた。
「そう。あなた、石をずいぶん遠くまで投げることできたものねえ。前に近所の人と話したら、人の投げた石が川の向こう岸まで届くわけないって、嘘つき扱いされてしまったわ」
「事実だったのですが」
「そうなのよ。お母さんもそう言ったんだけど、全然信じてもらえなくて」
「嘘ではありません」
「ええ、知ってるわ」
母は少し楽しそうに言った。
その言い方があまりにも普通で、護はほんのわずかに肩の力を抜いた。
「それで、入りたいの?」
「わかりません」
「やってみたい、ではなく?」
「……それも、わかりません」
本当に、わからなかった。
やりたいのかと問われれば、うまく答えられない。野球に憧れていたわけでもない。甲子園を目指したいなどと考えたこともなかった。
けれど、断ればそれで済む話だったのに、なぜか今もこうして考えている。
「ただ」
「ただ?」
「主将に、頼まれました」
「そう」
それだけで、母は少しうなずいた。
「その人、いい人なんでしょうね」
「……なぜ、そう思われるのですか」
「護がそういう顔をしてるから」
「どういう顔でしょうか」
「断りたいのに、断りきれない顔」
護は思わず眼鏡を押し上げた。そういうものが顔に出ているとは、自分では思っていなかった。
「ご飯の時、お父さんにも話してみたら?」
「はい」
母は「無理はしないでね」とだけ言って部屋を出ていった。
静かになった部屋に、一人取り残される。
護は机の上の数学の問題集を開いた。
だがやはり、頭に浮かぶのは数字ではなく、あのグラウンドの土の色だった。
夕食の席では、父がいつも通り新聞を畳んでから箸を取った。
無駄な雑談の多い家庭ではない。護の家では、食事の時間は比較的静かに過ぎる。今日の献立は肉じゃがに鯖の味噌煮とほうれん草のおひたし、味噌汁。母の作る食事はいつもきちんとしていて、父はたいてい黙って食べ、護もまた黙って食べる。
その中で、母が先に切り出した。
「今日、護が野球部に誘われたの」
「ほう」
父が箸を止めた。
「珍しいな」
「体育で遠投したら声をかけられたみたい」
「そうか」
父の視線が護へ向く。
厳しい目ではない。ただ、物を測る時のような静かな目だった。
「お前はどうしたい」
「まだ、考えております」
「入りたいのか」
「そこまでは、まだ」
「だが迷ってはいる」
「……はい」
護は正直に答えた。
父はしばらく何も言わなかった。味噌汁をひと口飲み、器を置いてから、ようやく口を開く。
「部活をすること自体に反対はしない」
「はい」
「やるなら、きちんとやれ」
「はい」
「中途半端にするくらいなら、最初からやるな」
「はい」
「それから」
父は護を見たまま言った。
「文武両道だ。部活を理由に勉強を疎かにすることは許さん」
「……はい」
予想していた答えだった。
もっと強く反対される可能性も少し考えていたが、そうではなかった。むしろ認められた。認められた上で、当然のように条件を置かれた。
そのことに、護は妙な重さを感じた。
父は反対してくれた方が楽だったかもしれない、と一瞬だけ思ってしまう。そうすれば断る理由ができた。だが父はそれを与えなかった。
「自分で決めろ」
父は淡々と言う。
「やると決めたなら、最後まで責任を持て」
護は箸を持つ手に少し力を込めた。
「はい」
それしか言えなかった。
母がその空気をやわらげるように、
「でも護が部活って、ちょっと見てみたいわね」
と言う。
「朝も走ってるし、体力だけはあるものね」
「だけ、ではありません」
「そうね、ごめんなさい。眼鏡もあるわね」
「そこは褒めておりません」
「じゃあ真面目さ」
「それは……ありがとうございます」
自分でも何を言っているのか少しわからなくなって、護は黙ってご飯を口に運んだ。
父は小さく咳払いをして、それ以上は話を広げなかった。
けれど、「反対はしない」という言葉は、食事が終わってもずっと胸のどこかに残り続けた。
その夜、布団へ入ってもなかなか寝つけなかった。
目を閉じると、昼間の光景がいやに鮮明によみがえる。
白いボール。土の匂い。卓二のミットを弾いた音。
そして、平井龍の「待ってる」という言葉。
待っている。
あまり言われたことのない言葉だった。少なくとも、ああいう重さを持って言われたことはない。
護は寝返りを打ち、天井を見上げた。
野球のルールを、どこまで知っていただろうか。三振と四球くらいはわかる。送りバントも見たことはある。だが、それだけだ。変化球の種類もろくに知らない。守備位置だって、外野の左右はまだ曖昧だ。
そんな自分に、何ができるのか。
だが同時に、あのグラウンドに立った時、自分の左腕が確かに別の意味を持ったことも感じていた。
ただ遠くへ投げるための腕ではなく、試合をするための腕。
誰かに必要だと言われる腕。
「必要、か……」
小さく呟いて、自分で驚く。
その言葉に、思ったより心が動いている。
護は枕元の眼鏡を取ってかけ直し、起き上がった。机の引き出しからノートを一冊取り出す。新しいページを開き、少し考えてから、罫線の上に丁寧な字でこう書いた。
野球について
その下に、
ルール
投手の役割
必要な技術
と順番に書いていく。
やると決めたわけではない。まだ決めていない。
だが調べておくことは無駄ではないはずだ、と護は考えた。知らないまま断るのも、知らないまま入るのも、どちらも不誠実な気がした。
そうしてノートへ几帳面に項目を書き並べながら、護は自分が少しずつ、昼間とは違う場所へ足を踏み出しかけていることに、まだ気づいていなかった。
窓の外では、夜の風が静かに木を揺らしていた。
明日、学校へ行けば、またあのグラウンドがある。
あの明るい声も、穏やかな視線も、値踏みするような目も、きっとそこにある。
布団へ戻る前に、護は一度だけ左手を握った。
その手の中に、白いボールの感触がもう一度よみがえった。