学生編 | 元国家公務員、久米ゆうしんがネットビジネスで成功した秘密

小学校低学年の時、家は貧しく、両親は喧嘩も絶えない中、両親の離婚というものを経験しました。

母が、父に殴られる度に早く別れるべきだと感じていましたし、喧嘩の後に父が倉庫から猟銃を取り出した時は、死ぬかもしれないと感じた事を今でも覚えています。

両親の離婚に対し、小学校低学年の自分にも心の準備が出来ていたのを覚えています。

この経験は、今思えば私の経営者になり稼ぎたいと思う出発点だったと思います。

なぜなら両親の離婚は、金銭的な問題が大きかったからです。

母親に連れられ大口市の大口東小学校(現伊佐市)に小学校4年の時に転向しましたが、大口市の環境が鹿児島市とはあまりに違った事もあり、自ら父親と共に生活する事を決め、小学校5年の時に鹿児島市の錦江台小学校に戻りました。

夕食は隣町の祖母の家で食べていましたが、父親は仕事もあるので帰りは夜遅いですし、一人暮らしのような生活をしていました。

わりとのんびりした性格と料理も多少できたので、悠々自適に生活していました。

その生活を中学校3年の12月迄していましたが、突然また環境の変化がおとずれます。

父が再婚する事になり北九州市に引越しすると言い出しました。

再婚と言えば聞こえは良いのですが、もっと具体的に言うとかけおちです。

今から引越しすると言われ選択権もなく引越ししたのには、友達と別れも言えず大変淋しい思いをしたのを覚えています。

何より悲しかったのは塾で出会った隣の福平中学の女の子に告白したかったのに出来なかった事です。

そんな事が今でも思い出されるのは、夜逃げのようなかけおちに付き合わされたのに、随分前向きな中学生だったなと思います。
北九州市小倉区の足立中学校に入り、担任の先生が急な進路選択も手伝ってくれ、なんとか福岡県立戸畑工業高校、情報技術課に入学できました。

高校生活は、先生にも恵まれていましたし、バスケも好きに出来ましたし、情報関係の勉強は楽しかったです。

また、今でもご縁のある友達も出来ましたし、人生初の彼女も出来、今の人生への繋がりを深く感じるのはこの頃からのご縁です。

進路は、3つの選択肢を考えました。

それは、保育士、競輪選手、公務員です。

全く違う業種ですが、この選択肢を考えた理由は楽しそうだからです。

今思えば、人生を考える時に楽しめるかどうかを一緒に考えるのはこの頃から変わっていない気がします。

結果的に公務員になりましたが、私が公務員になった一番の理由は人生で稼ぐ為の足がかりになるかもと思ったからです。

出来れば経営者になりたいとは思っていましたが、その考えを形に出来る具体的な手段も見つかってはいませんでした。

しかし、18歳で浪人する事もなく国家公務員に合格出来た事は、本当に嬉しかったですし、私の人生初の成功体験だと思います。

実は、合格発表から少し経った1996年12月25日クリスマスに小学校5年で離れた母に、約7年ぶりに電話して、合格の報告をしました。

とても喜んでくれて泣いていたのを覚えています。

国家公務員試験に合格して、まもなく高校生の自分にはまだ分からない大人の世界を体験する事になります。

一次試験合格後建設省の偉い方が来られて、職場見学をして下さいました。
そして、合格発表が終わったら、印鑑を持って建設省を尋ねるように言われました。
言われるまま、合格発表当日建設省を訪問すると、偉い方から「今この書類に印鑑を押して帰れば、面接もなく合格だから。」と言われ念書のような物を出されました。

ある程度人間関係も作り、職場見学までしている状態で、この誘いを断る訳はありませんでした。

自宅に帰ると、国立大、警察庁、税関等10以上の省庁からお誘いの電話を受けていました。

時すでに遅しです。
国家公務員試験で、初めて情報試験が行われ、その試験で合格した私はかなり貴重な人材だったようです。

もしかしたら、取り返しはついたのかもしれませんが、印鑑まで押している状態で断る訳にはいきませんでした。

今思えば、高校生に対する根回しでは無かったと思います。