『自ら自主退院を決めた患者の執念』 No.401 2月24日発

 

 入院患者の策太郎(さくたろう)は、長男が主治医に呼ばれて戻って来ると、その顔を見るなり、「直ぐ退院しよう。」と自分の意思を伝えた。

「医者から何を告知されたかは、聞くまでもない。どうせ、あと数ヵ月の命だ、と言われたんだろう?それは自分でもわかっている。

 ここの入院も長くなった。そろそろ金が底をつきそうだ。それは、お前だってわかっているだろう。この先オレは在宅で頑張ってみる。だから、退院の手続きを直ぐ取ってくれ。」

 終始うなだれて話を聞いていた一人息子の行雄(ゆきお)は、顔を伏せたまま、

「そんなこと言ったって、父さん独りで食事の仕度も出来ないじゃない。もう少し入院していてよ。金のことなら、オレ何とかするからさ。」

「そんなことで若いお前に負担をかけたくない。仕事がみつからず、家に引きこもっているお前に、第一、金の工面なんか出来ないだろう?いいか?親の言うことは聞くものだ。

 オレの病気のために、街金に手を出すようになったら共倒れだ。心配するな。オレの肝臓は、まだ一年や二年はもつ。若い医者よりオレの見立てのほうが確かだ。ここは、親の言うことを聞いて退院させてくれ。」

 二人は、いわゆる世間でよく言われる80・50の親子だ。親は妻に先立たれて独り。息子は、結婚に失敗して、妻が子供を連れて家を出て行ってから職に就かず、親の年金を当てにして暮らしている。

 策太郎の言うように、入院費が二人の資金繰りを圧迫していることは確かだった。

 「父さん、オレには退院なんかさせられないよ。」

 そう言って行雄は、肩を震わせて泣き出した。

【男の人生には四つの坂がある】

 なかなか親の話に納得しない息子に、策太郎は、大病を患っているとは思えない張りのある声で説得をつづけた。

 男の人生には、「四つの坂」がある、というのが彼の持論だった。

 最初にやってくるのは、「四十がったり」とも言われる更年期の坂だ。

 次は、60の坂。還暦を迎えると、とかく燃え尽き症候群や体調の変化で悩むことが多くなる。

 そして75歳の、世間から見捨てられがちになる過去の人、という坂がやってくる。

 もう一つ、男の人生には「まさか」という坂がある。

 「お前に伝えておきたいことがあるんだ。よく聞いてくれ。」

 説教じみた話をした後で太郎は、急に声を弾ませた。

「この前、房子が見舞いに来てさ。息子がお前のこと、しきりに口にするようになったそうだ。

 ひょっとしたら、房子もお前と復縁したいのではないか、と思った。」

「へえー、房子がほんとに来たんですか?」「そんなに驚かないで聞いてくれ。房ちゃん、山梨の実家に帰ってから、ぶどう園を手伝っているようなんだが、どこも同じだ。人手不足でやっていけなくなってきた。それに、息子も年頃でお前を恋しがる。出来れば、山梨の実家の仕事をお前に手伝ってくれないか、というんだよ。まさに、これこそ、まさかの坂だ。お前も心を入れ替えてやってみろ!」

 そこまで言われて、父親がすでに独りで旅立った後の始末をつけていることを一人息子は悟った。

 それから数日後、行雄は親子三人で見舞いにやって来た。そして、山梨の農園をこの先手伝っていくことに決めた、と言う。

 嫁の房子は、最後に明るい声で、一つだけ策太郎に条件がある、と伝えた。

 よりを戻すにあたっては、父親の策太郎に今迄通り病院のベッドでしっかりと養生してほしい、という温かい言葉だった。

 

東スポ 男の羅針盤「男の生き方、男の死に方」編より