『味噌汁と万歩計』 No.400 2月22日発

 

 妻の良絵の作る朝の味噌汁は本当に旨い。

 子供の頃、おふくろが作ってくれた味噌汁も旨かったけれど彼女の味はおふくろを超えている。

 まず、器の選び方がうまい。器の形と大きさが手にすっぽりと収まり、その温もりの伝わり方が最高だ。

 それと、具材になめこや舞茸、豆腐、ネギなど日替わりで変わるけれどもその味は朝の寝起きの体に染み渡る。

 この味噌汁を口にする度に妻は最高の恋女房だとしみじみ思う。

【持病に悩む夫への特効薬】

 ただ、こんな素晴らしい女房をもっているにもかかわらず、夫の瞬吉には女房には口が裂けても言えない持病があった。

 それは、毎晩一回赤坂辺りで酒を口にしないと仕事のストレスが消えないという贅沢な病だった。

 酒が入ればカラオケも歌うし羽目を外して若い女の子と二次会、三次会と飲み歩くこともある。チャンスがあればごめんなさいと恋女房に手を合わせながら重症の恋の病にかかることもある。もっとも、この夫の持病については妻の良絵はとうに見抜いていた。

 ある時、妻からこんな要求が夫に出された。

「あなたは味噌汁を喜んで飲んでくれるけれど酒もこよなく愛してるわよね。毎日カロリーオーバーで体が悲鳴を上げているのではないかと心配なの。そこで退社してから帰宅するまでのあいだに一万歩、歩いてきて欲しいの。そうすれば酒のアルコールが抜けて朝の味噌汁が更に美味しくなるわよ。もし一万歩を切った日は味噌汁は作りません。」

 これは大変な事になった。良絵は女子大学で栄養学を学んだ女だ。素人の瞬吉には歯が立たない。彼は、妻から渡された万歩計をズボンのベルトに装着しながらこれは一世一代の災難だと思った。

【赤坂の夜風が酒の旨みを奪っていく】

 さあ、翌日からの運動が大変だった。

 おちおち店のソファーに美女に囲まれて座って飲んでいる暇はない。

 グラス一杯の水割りを煽るとすぐ店を飛び出して路地から路地へ30分ほど足早に歩いて店に舞い戻る。

 万歩計を見るとまだ1000歩にも届かない。もう一度水割りを一杯飲み干すとまた路地へ飛び出す。

「落ち着かないわね。瞬ちゃんソワソワしているけどどこへ出掛けて行くのかしら。」

 始めの頃は女の子は彼が店を出て行く後ろ姿を不思議そうに見つめていたが、やがて事情が分かると女性たちのあいだから同情の声が湧き上がった。

 瞬吉は常連客の中でも店にとっては上客だ。何としてもこの災難から彼を助け出さなければならない。

 やがて瞬吉に代って万歩計を付けて路地を一回りしてくる女の子が現われた。それだけではない、古株のホステスは彼に代って、店のトイレで足踏みを始める始末。こうした、店ぐるみの協力体制については妻の良絵はすでに気づいているらしかった。

【ハードルが高くなった万歩計の歩数】

 万歩計は一晩15000歩に数値が跳ね上がった。それでも常連客のために女性たちは路地に飛び出していった。しかし、姉さん株のホステスたちは膝を痛めたり腰痛を訴えたりしてダウン。瞬吉自身も足をやられて捻挫の治療に病院に通わざるを得なくなった。

「助けてくれ。もう歩くのはごめんだ。酒は控えるから味噌汁だけは飲ませてくれ。」

 こう懇願する夫の姿に妻は安心した満足そうな笑みを浮かべて何度も頷いた。

 

東スポ 男の羅針盤「男の生き方、男の死に方」編より