『恐怖の夜の恋人』 No.396 2月13日発

 

 僻地の医療に携わる医師の苦労は、想像以上に辛い。

 仕事が激務である上に、住民の視線が厳しく、医者の技術は無論のこと、心が清貧であることが求められる。若い医師では、それが重圧になることも多い。

 当時、私は人口5千人ほどの北国の寒村の病院経営に携わっていた。

 35歳の内科医のO先生が、なぜこの勤務が難しい僻地にやって来たのかと、何か事情があるに違いないと私はにらんでいた。

【愛唱歌は、失恋の歌ばかり】

 首都圏とは違って娯楽といっても特別な魅力のあるものは殆どなかった。せいぜいスタッフの親睦のためにカラオケを兼ねた飲み会が週一回程度開かれるのが唯一の楽しみ、といってよかった。

 カラオケが始まると、O先生は必ずといってよいほど「22歳の別れ」という青春歌謡を歌っていた。

 マイクを握ると、次第にその曲に陶酔していくらしく、情感たっぷりに歌い、しまいには声を震わせて涙ぐむこともあった。

 「失恋をして、ここまで逃げて来たんでしょうかね。早く女性を紹介して結婚させたほうがいいのかなあ。」

 何しろ、僻地では医者を集めるのはひと苦労だ。その苦労を一手に引き受けている事務長は、こんなひ弱な精神の持ち主では、そう長くはつづくまい、と心配しているようだった。

 35歳と言えば、まだ男盛りだから、僻地に来て一番困るのは、食欲と性欲、それに対人関係を豊かにする集団欲が何より必要だ。

 つまり、数ヵ月に一度は大都会の夜を味わわせないと身が持たない。私は、事務長の心配そうなつぶやきを頷きながら聞いていたものだった。

【夜の楽しみは重労働】

 或る飲み会の後、一軒家の医師住宅に帰ってきたO先生は、寝室の押し入れを開けると今迄待たせていた夜の恋人をベッドに案内して行った。

 その顔には、カラオケを歌っている時とは違って、精気がみなぎり、上気した顔には恋人との夜の生活に立ち向かう生命力があふれていた。今、押入れから取り出した恋人は、今日のお昼に東京から着いたばかりの、いかにも都会の美女というタイプの若々しい恋人だった。

 彼は、その彼女をベッドに横たえると「お待ちどうさま」と言わんばかりに丁寧に横たえて、口元にある空気を吹き込むチューブの入り口に唇を当てた。そして、大きく息を吸い、その口元に一気に息を吹き込む。そしてもう一度空気を大きく吸い込むと、又息を吹き込む。その動作を先程から何回くり返しただろうか。塩化ビニールで出来た等身大の人形は、少しずつふくらみ始めてきたが、まだ完全ではない。もう少し豊満な姿に変身してくれなければ夜の恋人としては役に立たない。

 彼は必死になって、その人形の口元に空気を吹き込む。

 それから、どれ位時間が経っただろうか。

 さすがに、若い彼にも疲れが見え始めた。それに酒が入っている。懸命にふくらませようとするが、人形を完全な夜の恋人にするには、まだまだ時間がかかる。

 そのうち、北国の寒さが身にしみてトイレが我慢できなくなってきた。慌ててトイレに駆け込み戻ってくると、人形はぺちゃんこにつぶれている。もう一度、一から出直しだ。

 もう我慢も限界に達している。そのうち疲れ果てて人形の上に倒れ込んでしまった。気がつくと夜が明けていた。こんなに辛い夜はもうたくさんだ。彼は今迄添寝していた人形を四つに畳むと押入れの中に放り投げてしまった。ご愁傷様。

 

東スポ 男の羅針盤「男の生き方、男の死に方」編より